優しく別れを、そして思い出を
キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2024年09月03日 14時08分53秒
リーンエス王国、シュルトハイス子爵領。田舎道を馬車はゆっくりと行く。御者の話だと、目的の村につけくまではあと少しらしい。エリカ・プレトリウスは馬車の窓から吹き込む緩やかな風に目を細める。夏の暑さは確かにあるが、ここは、心地よい。
「朝から揺られているけれど、大丈夫かい、エリカ」
隣に腰掛けているのは夫のテオバルトだ。気遣う様子にエリカは笑みを返す。
「ええ、大丈夫です、テオ。気遣ってくれてありがとうございます」
冒険者としてもっと酷い悪路を進んだこともあるのだ――そう、かつてのことを思い出しながら、答える。
何かあったら言って欲しい、とテオバルトは返す。その言葉はひたすらに優しかった。
エリカは再び窓の外を見る。小さな相棒に触れようとして、それがもういないことを思い出す。
(ネムは、天寿を全うした――)
全ては変わる。世界も、彼女自身も。そんなことを思いながらエリカは馬車に揺られる。
村の前で馬車は止まる。昼時だ。休憩していた村人たちは、紋章が入った馬車と、お仕着せを身につけた御者に興味を示したが、空腹の方を優先したのか村の酒場へと入っていく。
「此方です、足元に気をつけて」
馬車を降りる。夏草の匂いが強まる。テオバルトは案内をするエリカの後ろをついてくる。旅装とはいえ、よい仕立ての衣服はのどかな田舎村の中では目立ったが、村人たちは我関せずと自分たちの生活を続けている。その好意ある無関心が、エリカには有り難かった。
エリカとテオバルトがこの村に来たのは、ある墓を訪れるためであった。目的地は、村はずれの小さな墓地。とはいえ、エリカも地図で場所を知っているだけだったのだが。
村はずれの墓地は、木々に囲まれていた。針葉樹の香りが、鼻をくすぐる。一番奥の、他の墓よりもやや凝った意匠のそれが、目的地だ。
「お嬢様……」
エリカはつぶやく。そして、意を決して一歩、二歩、ゆっくりと近づいていく。
エリカは、墓に描かれた彫刻を見る。己が名の由来であるシュルトハイス子爵令嬢。今は亡き彼女の面影と、エリカの顔立ちは似通う所があった。亡くなった令嬢に似ている、という理由で拾われた孤児――それが、エリカ・プレトリウスだ。貧民街の名もなき孤児は、令嬢の名を貰いエリカとなった。
「エリカ――」
後ろを付いてきていたテオバルトが、案ずるような声をかける。この旅の最中、ずっと彼は案じてばかりだとエリカは思う。
「大丈夫です。ええ、大丈夫……ようやく、来ることが出来ました」
エリカが子爵令嬢の墓に訪れるのは、初めてのことであった。
「お嬢様の続きを演じていたから――今までは、来ることが出来なかったんです」
その言葉を、テオバルトは静かに聞いている。長年ため込んでいた感情の吐露を、邪魔せぬように。その心遣いが、今のエリカには有り難かった。
テオバルトは、幼い頃にシュルトハイス子爵令嬢に恋をしていた。今のエリカに初恋の続きを求め、そして振られたのであった。しかし、彼は『今の』エリカに思いを寄せている――。
鳥の鳴き声が、静かな墓地に響く。つがいだろうか、さえずりを交わす様子は、仲睦まじい。
今の自分は子爵令嬢の続きではなく、一人の人間として愛情を受けている――そう気付いたのは何時のことだろうか。エリカは思う。養い親であるシュルトハイス子爵夫妻。そして、夫のテオバルト――。
エリカは、テオバルトに恋をしていない。持っているのは尊敬と深い信頼だ。それでも、彼はエリカを求め、そして夫となり、リーフェンシュタール伯爵家の令息から、シュルトハイスの次期子爵となる。つまりは、婿養子だ。テオバルトは、エリカの伴侶として来る必要がある――というシュルトハイス子爵の要求を快く承諾した。
(私も、変わりつつあります。子爵令嬢の続きを演じている私が、お嬢様の死を認めるような墓参りに来ることはない、そう思っていたのに)
ネム、やっと、ここに来ることに頷けるようになった――。
今はいない相棒、小さなリスのネムは、もしいたならばどんな反応を示しただろうか。
墓前に白薔薇の花束を手向け、テオバルトと入れ替わるようにエリカは下がる。白薔薇はテオバルトといっしょに選んだものだ。その八重咲きの花弁には一片の曇りもなく、上品な香りを漂わせている。
エリカはこのような場所に相応しい祈り方を知らなかった。
(初恋の人なのだから、テオの方が、思う所もありますでしょうし)
代わりに、エリカはつがいの鳥が交わす歌に思いをはせた。エリカとテオバルトの関係は、一般的な恋人たちとは、少し違う。
とはいえ、確かに信頼はあって、それは決して不幸なことではないのだ。今は、なんとなくそう思え始めてきた……そんな気もする。もしかしたらを重ねるような、僅かな心の動きであったが、それは確かに存在した。エリカはテオバルトに真心を尽くすと誓っている。それで十分ではないか?
テオバルトは長い空白を埋めるように、祈りを続けている。それは、幼い頃抱いた思いへの、二度目の決別の儀式やも知れなかった。
不意に、鳥が鳴き止み、飛び去った。風に、異質なものが混じった。
研ぎ澄まされたエリカの感覚は、違和感を即座に掴む。
マテリアル界の側にある『どこか』から、素早くそれをたぐり寄せる。エリカの丈のやや短い白いドレスは令嬢然としたものであった。しかしたぐり寄せると同時に身につけたマントは、いかにも冒険者的な実用重視のもの。慣れた様子で短弓を片手に、矢筒から一本の矢を取りだして、構える。
「テオ、私の後ろに……!」
叫べば、テオバルトも急いで下がる。
これで、『お嬢様』とは全く違う姿を見せることになる。宿命のようなものを感じながら、エリカはさらに意識を鋭くさせる。森がざわめいている。一匹の存在を捉える。
違う姿を見せる必要があるのだ。これから、子爵としてシュルトハイスの領地を預かるテオバルト。彼を支える力としての自分を、知ってもらいたい。そもそも、私は令嬢よりも冒険者としての行動に慣れているのだ――。
どんどんと『それ』は近づいてくる。間合いを察しながら、エリカは一手を考える。テオバルトがいる以上、長い戦闘は不利。そもそも射手であるエリカは、接近戦よりも間合いを逝かした戦いの方が得意だ。
なので、初手で急所を貫く必要がある。
(五、四、三、二――)
カウントダウン。冒険者として何度も感じてきた、獲物が現れる瞬間の研ぎ澄まされた感覚。今や世界にはエリカと対象しか存在しない。
やがて木々から飛び出してきたのは、一匹の狼であった。明るい茶色の毛並み。金色の目。長い間駆けていたのか、その息は荒い。金色の目とエリカの視線が交差する。
「なるほど――」
エリカは己が捉えた感覚の理由を理解する。
鏃の位置を微調整し、そのときを待つ。
狼が何かを察したのか、一声吠える。
「大丈夫」
エリカはつぶやき、森の奥から現れたそれ、に矢を放つ。
精密な一撃で射貫いたそれは、不協和音のような叫びを放ちながら、絶命する。
狼の後ろにいたのは、一匹の魔獣であった。
魔獣の遺骸を埋めたときには、エリカの両手も、スカートも汚れていた。案ずるように見るテオバルトにエリカは言う。
「こうしないと、他の魔獣が臭いを察してこちらに現れる可能性があります。村人が立ち寄る場所ですから、それは避けたいですね」
いつの間にかつがいの鳥は戻ってきて、のどかな鳴き声を再び暢気に交わしていた。
「詳しいのだね」
「冒険者ですから」
エリカは最後の仕上げ、という風に馬車に積んでいた水袋の水で魔獣の血を洗い流す。
「それで、この子はどうするのかい」
テオバルトの視線を辿れば、期待をこめたまなざしでエリカを見る一匹の狼がいた。狼は犬がやるように伏せの姿勢を取り、金の瞳を向けている。はっは、と息を吐く姿は、安心しきっている獣のそれだ。
「認められてしまいましたね」
美しい瞳だと思う。宝石に例えるような儚いものではない。原始の生き物の、純粋な生命力がそこにあった。
狼は立ち上がり、くんくん、とエリカの臭いを嗅ぐ。尾が幸せそうに揺れる。ついでに、という具合にテオバルトの臭いも嗅ぎ、まあいいだろう、と言いたげな風に尾をゆったりと振った。
「まるで犬だね」
初めて見るであろう光景に、テオバルトは目を丸くしている。狼は、自分もいっしょに連れて行け、と期待をこめた視線をエリカに向ける。これからの生を共にします。あなたにだったら、共に暮らしてもいい。そんな感情を、エリカは感じる。
「でも、駄目ですよ。あなたはお帰りなさい」
そっと、エリカは腰を下げる。狼に視線を合わせる。
比類ない瞳の獣だ。いれば、これからずっと『楽に』はなるだろう。それに、明るい色の毛皮は、ネムを思い出させる。
だが、それではいけないのだ――。
首をかしげる狼は強情なようで、エリカは困った表情を口元に浮かべた。
エリカの相棒は、天寿を全うしたリスのネムだけだ。新たな相棒は、いらないのだ。
だから、狼には悪いけれども、ここで別れなければならない。
「お帰りなさい。魔獣には気をつけて」
エリカの雰囲気から意図を察したのかくうん、と狼は鳴く。そして、身を翻して森の中へと消えていった。
エリカとテオバルトはしばらく狼が消えた場所を見ていた。どちらが先に口を開くべきか、と互いに迷いながら。
「よかったのかい」
墓から戻り、馬車に乗るまで、二人は無言であった。結局口を先に開いたのは、テオバルトの方であった。
「エリカに懐いていたようだし――エリカには、今は相棒がいないんだろう?」
窓の外を見ていたエリカはあら、と言いたげな表情を浮かべてテオバルトの方を見た。
「気遣ってくれて、ありがとうございます」
そして、手元に小さいものを取りだし、どう話したものか……と考えてからゆっくり口にする。
「確かに、綺麗な、よい目の狼でした」
ではなぜ、と言いたげにテオバルトは問う。
「ですけれど――共に生きる選択は、たやすくないですから」
手元の小袋は、かつて共に生きる選択をしたネムとの思い出だ。相棒の首に巻いていた小さなスカーフで、袋の口を縛っている。その上、中には干した果物が入っている。
(ネムと、いっしょに食べていた果物――)
「でも、それだとエリカは」
ひとりぼっちだろう、そう言おうとしたテオバルトの言葉をさえぎるように、エリカは言う。深い信頼をこめて、少しばかり、悪戯っぽく。
「テオだけで十二分ですよ」
二人の間に、なんとも言えない空気が漂う。それは気恥ずかしいような、それでも不快ではない雰囲気であった。
「ところで、その小袋の中身は何かい?」
妙に気恥ずかしい雰囲気を散らすように、テオバルトは語りかける。
「ネム――相棒と食べていた干し果物です。思い出に浸りながら、食べるんです。テオもいかがですか?」
「いいのかい」
ええ、とエリカは袋から乾かしたベリーを取りだす。それを受け取ったテオバルトは口に含み、
「甘酸っぱいな。うん。おいしい」
そう、顔をほころばせる。
「もしよければだけれども、ネムについて教えてくれないかな? かつていっしょに歩いていた、相棒のことを知らなければという気持ちが、俄然出てきた」
「ええ、構いません。でも、出会いからだと――相当長い話になりますよ」
テオバルトはそれは大変だ、と言い、窓の外をチラリと見た。夏空はどこまでも広く、雲一つない。
「長い旅なのだから、それくらいで丁度いい」
そして、エリカに笑みを向ける。信頼のこもった、優しいまなざしで。
「それでは。喜んで――昔の話なのですけど……」
語り始めるエリカ。それに相槌を打ちながら、聞き入るテオバルト。
真っ直ぐな夏の道を、馬車は進んでいく。
「朝から揺られているけれど、大丈夫かい、エリカ」
隣に腰掛けているのは夫のテオバルトだ。気遣う様子にエリカは笑みを返す。
「ええ、大丈夫です、テオ。気遣ってくれてありがとうございます」
冒険者としてもっと酷い悪路を進んだこともあるのだ――そう、かつてのことを思い出しながら、答える。
何かあったら言って欲しい、とテオバルトは返す。その言葉はひたすらに優しかった。
エリカは再び窓の外を見る。小さな相棒に触れようとして、それがもういないことを思い出す。
(ネムは、天寿を全うした――)
全ては変わる。世界も、彼女自身も。そんなことを思いながらエリカは馬車に揺られる。
村の前で馬車は止まる。昼時だ。休憩していた村人たちは、紋章が入った馬車と、お仕着せを身につけた御者に興味を示したが、空腹の方を優先したのか村の酒場へと入っていく。
「此方です、足元に気をつけて」
馬車を降りる。夏草の匂いが強まる。テオバルトは案内をするエリカの後ろをついてくる。旅装とはいえ、よい仕立ての衣服はのどかな田舎村の中では目立ったが、村人たちは我関せずと自分たちの生活を続けている。その好意ある無関心が、エリカには有り難かった。
エリカとテオバルトがこの村に来たのは、ある墓を訪れるためであった。目的地は、村はずれの小さな墓地。とはいえ、エリカも地図で場所を知っているだけだったのだが。
村はずれの墓地は、木々に囲まれていた。針葉樹の香りが、鼻をくすぐる。一番奥の、他の墓よりもやや凝った意匠のそれが、目的地だ。
「お嬢様……」
エリカはつぶやく。そして、意を決して一歩、二歩、ゆっくりと近づいていく。
エリカは、墓に描かれた彫刻を見る。己が名の由来であるシュルトハイス子爵令嬢。今は亡き彼女の面影と、エリカの顔立ちは似通う所があった。亡くなった令嬢に似ている、という理由で拾われた孤児――それが、エリカ・プレトリウスだ。貧民街の名もなき孤児は、令嬢の名を貰いエリカとなった。
「エリカ――」
後ろを付いてきていたテオバルトが、案ずるような声をかける。この旅の最中、ずっと彼は案じてばかりだとエリカは思う。
「大丈夫です。ええ、大丈夫……ようやく、来ることが出来ました」
エリカが子爵令嬢の墓に訪れるのは、初めてのことであった。
「お嬢様の続きを演じていたから――今までは、来ることが出来なかったんです」
その言葉を、テオバルトは静かに聞いている。長年ため込んでいた感情の吐露を、邪魔せぬように。その心遣いが、今のエリカには有り難かった。
テオバルトは、幼い頃にシュルトハイス子爵令嬢に恋をしていた。今のエリカに初恋の続きを求め、そして振られたのであった。しかし、彼は『今の』エリカに思いを寄せている――。
鳥の鳴き声が、静かな墓地に響く。つがいだろうか、さえずりを交わす様子は、仲睦まじい。
今の自分は子爵令嬢の続きではなく、一人の人間として愛情を受けている――そう気付いたのは何時のことだろうか。エリカは思う。養い親であるシュルトハイス子爵夫妻。そして、夫のテオバルト――。
エリカは、テオバルトに恋をしていない。持っているのは尊敬と深い信頼だ。それでも、彼はエリカを求め、そして夫となり、リーフェンシュタール伯爵家の令息から、シュルトハイスの次期子爵となる。つまりは、婿養子だ。テオバルトは、エリカの伴侶として来る必要がある――というシュルトハイス子爵の要求を快く承諾した。
(私も、変わりつつあります。子爵令嬢の続きを演じている私が、お嬢様の死を認めるような墓参りに来ることはない、そう思っていたのに)
ネム、やっと、ここに来ることに頷けるようになった――。
今はいない相棒、小さなリスのネムは、もしいたならばどんな反応を示しただろうか。
墓前に白薔薇の花束を手向け、テオバルトと入れ替わるようにエリカは下がる。白薔薇はテオバルトといっしょに選んだものだ。その八重咲きの花弁には一片の曇りもなく、上品な香りを漂わせている。
エリカはこのような場所に相応しい祈り方を知らなかった。
(初恋の人なのだから、テオの方が、思う所もありますでしょうし)
代わりに、エリカはつがいの鳥が交わす歌に思いをはせた。エリカとテオバルトの関係は、一般的な恋人たちとは、少し違う。
とはいえ、確かに信頼はあって、それは決して不幸なことではないのだ。今は、なんとなくそう思え始めてきた……そんな気もする。もしかしたらを重ねるような、僅かな心の動きであったが、それは確かに存在した。エリカはテオバルトに真心を尽くすと誓っている。それで十分ではないか?
テオバルトは長い空白を埋めるように、祈りを続けている。それは、幼い頃抱いた思いへの、二度目の決別の儀式やも知れなかった。
不意に、鳥が鳴き止み、飛び去った。風に、異質なものが混じった。
研ぎ澄まされたエリカの感覚は、違和感を即座に掴む。
マテリアル界の側にある『どこか』から、素早くそれをたぐり寄せる。エリカの丈のやや短い白いドレスは令嬢然としたものであった。しかしたぐり寄せると同時に身につけたマントは、いかにも冒険者的な実用重視のもの。慣れた様子で短弓を片手に、矢筒から一本の矢を取りだして、構える。
「テオ、私の後ろに……!」
叫べば、テオバルトも急いで下がる。
これで、『お嬢様』とは全く違う姿を見せることになる。宿命のようなものを感じながら、エリカはさらに意識を鋭くさせる。森がざわめいている。一匹の存在を捉える。
違う姿を見せる必要があるのだ。これから、子爵としてシュルトハイスの領地を預かるテオバルト。彼を支える力としての自分を、知ってもらいたい。そもそも、私は令嬢よりも冒険者としての行動に慣れているのだ――。
どんどんと『それ』は近づいてくる。間合いを察しながら、エリカは一手を考える。テオバルトがいる以上、長い戦闘は不利。そもそも射手であるエリカは、接近戦よりも間合いを逝かした戦いの方が得意だ。
なので、初手で急所を貫く必要がある。
(五、四、三、二――)
カウントダウン。冒険者として何度も感じてきた、獲物が現れる瞬間の研ぎ澄まされた感覚。今や世界にはエリカと対象しか存在しない。
やがて木々から飛び出してきたのは、一匹の狼であった。明るい茶色の毛並み。金色の目。長い間駆けていたのか、その息は荒い。金色の目とエリカの視線が交差する。
「なるほど――」
エリカは己が捉えた感覚の理由を理解する。
鏃の位置を微調整し、そのときを待つ。
狼が何かを察したのか、一声吠える。
「大丈夫」
エリカはつぶやき、森の奥から現れたそれ、に矢を放つ。
精密な一撃で射貫いたそれは、不協和音のような叫びを放ちながら、絶命する。
狼の後ろにいたのは、一匹の魔獣であった。
魔獣の遺骸を埋めたときには、エリカの両手も、スカートも汚れていた。案ずるように見るテオバルトにエリカは言う。
「こうしないと、他の魔獣が臭いを察してこちらに現れる可能性があります。村人が立ち寄る場所ですから、それは避けたいですね」
いつの間にかつがいの鳥は戻ってきて、のどかな鳴き声を再び暢気に交わしていた。
「詳しいのだね」
「冒険者ですから」
エリカは最後の仕上げ、という風に馬車に積んでいた水袋の水で魔獣の血を洗い流す。
「それで、この子はどうするのかい」
テオバルトの視線を辿れば、期待をこめたまなざしでエリカを見る一匹の狼がいた。狼は犬がやるように伏せの姿勢を取り、金の瞳を向けている。はっは、と息を吐く姿は、安心しきっている獣のそれだ。
「認められてしまいましたね」
美しい瞳だと思う。宝石に例えるような儚いものではない。原始の生き物の、純粋な生命力がそこにあった。
狼は立ち上がり、くんくん、とエリカの臭いを嗅ぐ。尾が幸せそうに揺れる。ついでに、という具合にテオバルトの臭いも嗅ぎ、まあいいだろう、と言いたげな風に尾をゆったりと振った。
「まるで犬だね」
初めて見るであろう光景に、テオバルトは目を丸くしている。狼は、自分もいっしょに連れて行け、と期待をこめた視線をエリカに向ける。これからの生を共にします。あなたにだったら、共に暮らしてもいい。そんな感情を、エリカは感じる。
「でも、駄目ですよ。あなたはお帰りなさい」
そっと、エリカは腰を下げる。狼に視線を合わせる。
比類ない瞳の獣だ。いれば、これからずっと『楽に』はなるだろう。それに、明るい色の毛皮は、ネムを思い出させる。
だが、それではいけないのだ――。
首をかしげる狼は強情なようで、エリカは困った表情を口元に浮かべた。
エリカの相棒は、天寿を全うしたリスのネムだけだ。新たな相棒は、いらないのだ。
だから、狼には悪いけれども、ここで別れなければならない。
「お帰りなさい。魔獣には気をつけて」
エリカの雰囲気から意図を察したのかくうん、と狼は鳴く。そして、身を翻して森の中へと消えていった。
エリカとテオバルトはしばらく狼が消えた場所を見ていた。どちらが先に口を開くべきか、と互いに迷いながら。
「よかったのかい」
墓から戻り、馬車に乗るまで、二人は無言であった。結局口を先に開いたのは、テオバルトの方であった。
「エリカに懐いていたようだし――エリカには、今は相棒がいないんだろう?」
窓の外を見ていたエリカはあら、と言いたげな表情を浮かべてテオバルトの方を見た。
「気遣ってくれて、ありがとうございます」
そして、手元に小さいものを取りだし、どう話したものか……と考えてからゆっくり口にする。
「確かに、綺麗な、よい目の狼でした」
ではなぜ、と言いたげにテオバルトは問う。
「ですけれど――共に生きる選択は、たやすくないですから」
手元の小袋は、かつて共に生きる選択をしたネムとの思い出だ。相棒の首に巻いていた小さなスカーフで、袋の口を縛っている。その上、中には干した果物が入っている。
(ネムと、いっしょに食べていた果物――)
「でも、それだとエリカは」
ひとりぼっちだろう、そう言おうとしたテオバルトの言葉をさえぎるように、エリカは言う。深い信頼をこめて、少しばかり、悪戯っぽく。
「テオだけで十二分ですよ」
二人の間に、なんとも言えない空気が漂う。それは気恥ずかしいような、それでも不快ではない雰囲気であった。
「ところで、その小袋の中身は何かい?」
妙に気恥ずかしい雰囲気を散らすように、テオバルトは語りかける。
「ネム――相棒と食べていた干し果物です。思い出に浸りながら、食べるんです。テオもいかがですか?」
「いいのかい」
ええ、とエリカは袋から乾かしたベリーを取りだす。それを受け取ったテオバルトは口に含み、
「甘酸っぱいな。うん。おいしい」
そう、顔をほころばせる。
「もしよければだけれども、ネムについて教えてくれないかな? かつていっしょに歩いていた、相棒のことを知らなければという気持ちが、俄然出てきた」
「ええ、構いません。でも、出会いからだと――相当長い話になりますよ」
テオバルトはそれは大変だ、と言い、窓の外をチラリと見た。夏空はどこまでも広く、雲一つない。
「長い旅なのだから、それくらいで丁度いい」
そして、エリカに笑みを向ける。信頼のこもった、優しいまなざしで。
「それでは。喜んで――昔の話なのですけど……」
語り始めるエリカ。それに相槌を打ちながら、聞き入るテオバルト。
真っ直ぐな夏の道を、馬車は進んでいく。