遺されたもの
ディレイン・オールドケイジ更新 2025年06月24日 08時50分30秒
SS
ずっと行くことができなかった、あの場所へ。
風が鳴いている。
ひゅうひゅうと、嘆くように。
木材と植物から作られていただろう天井は朽ちてすでになく、石組みの壁は崩れて一部が残るのみ。かろうじて間取りがわかる程度で、家具や小物類も腐り落ちるか苔むすか植物の根が這うか。
一言で表すなら、廃墟。
彼が立つのは、そうした廃墟ばかりが立ち並ぶ、元は集落であった場所。住民が絶えたその理由ゆえに隣の集落の者すら近づくことを避けるというのに、彼は、集落の入り口だった場所に立っている。
「んー……念のため付けておくか」
常備しているバンダナで鼻と口を覆う。不格好にはなるが、他に誰もいないので気にしない。
易々とズレないよう結び目を確認してから、彼は歩き出した。かつては整備されていただろう、今は草が自由に茂る、集落内部への道を。
ディレイン・オールドケイジは医者である。旅をしながら各地をまわり、医療が日常でない人々を助けている。医療とは人を生かすためのもの。彼はそう教わったし、今も異論はない。
だが廃墟に人はいない。少なくとも、医療を必要とする、生きた人は。
建物だった場所を、ひとつずつ確認していく。当然どこも荒れている。打ち捨てられたからというだけではない、まだ人が残っていた頃の切迫した状況をうかがわせるような。
(でも)
(でも、最後まで清潔さを保とうとしたのがわかる)
半分くらいの家屋を見終えてから振り返ると、集落自体が緩やかな斜面にできているのか、各家の軒先に布切れがぶら下がっているのが一望できた。擦り切れているものの、数種類の色があるようだ。草木の汁で染められているのだろう。色には、意味があったはずだ。その家の住人の状態を示すという意味が。
とはいえ、最後には布を付け替える余裕すらなかったのかもしれない。予想があっていれば、実際には全てが同じ色になっていなければおかしいのだから。
先へ進むと、集会所と思しき建物と、その裏手に墓地を見つけた。集会所はひときわ頑丈に作られていたのか屋根が残っていたが、代わりに内にあるものが朽ちる速度も遅かったらしい。扉を開けた途端に流れ出てきた匂いに危機感を覚え、すぐに閉じた。暗く湿った空気の奥に、布で覆われた山のような何かが見えたが、ディレインひとりの手には余るものに違いなかった。
気を取り直して裏手へ移動する。管理する者を失った墓地は、それでも整然と並ぶ墓標が残るだけまだ落ち着く場所だった。墓標に刻まれた銘を確認していく。覚えのある名前はなかった。
ただ墓地の一角、周囲とは植物の育ち具合が異なるその区画には、掘り返せばもしかしたら。
(建物の中かもしれない。でもなぁ……)
いずれにしても顔は判別できない状態であろうから、危険を犯して掘り返したりあの扉の向こうへ歩を進めたりはできない。
何もできない。が、せめて。
(聖職者でも何でもないけど、祈るくらいなら)
どうか。どうかその眠りは安らかであらんことを。
両の目を閉じて、彼は願った。
収穫はなし。そう判断して、集落の入口に戻ろうとしたとき。視界の隅で何色にも染められていない布がはためいた。
その布を掲げる小屋は本当に小さく、けれど屋根まで石造りなことから、もとは倉庫か何かだったのではないかと思われた。だからこそディレインも内部を確認することなく素通りしていたのだが。
他の家々には未染色の布は掲げられていなかった。そのことが彼の気をはやらせた。
蝶番の壊れた扉をそっと押し開けると、中は薄暗いものの集会所のような濁った空気ではなかった。ややひやりとする温度に適度な湿度、壁にぐるりと作りつけられた棚、棚に並ぶ壺や箱、袋など……倉庫で間違いなさそうだ。
ただその一角に、彼が調剤に使う道具と同じものがあった。すっかり枯れた薬草の名残も数種類。
(……そうか。ここで、親父は)
あの日、養父母が持ち出した薬草かもしれない。ディレインは今も肌身離さず持ち歩く手紙のことを思い出す。胸が絞めつけられて、あの時抱かされた想いを振り払うように力なく首を振った。
周囲をもう少し調べることにした。労せずして、油紙で包まれた紙束を見つけた。まとめていた紐をほどき広げれば、懐かしい筆跡が綴られていた。
――到着。現状を確認。
――死者数すでに■名、重症■名、軽症■名。
――最初の発症時期を聞く。広がりが早い。未発症者も時間の問題か。
続けて症状の内容が書かれている。ディレインが眉を顰めるには十分すぎるくらいで、当時の養父も同じ表情をしていたことだろう。感染の広がりが早いうえに症状も重い。養父母がこの集落に到着した時点で、いや、おそらく彼らに話がきた時点で、手遅れだったのだ。
それでも、彼らに動かないという選択肢はなかった。そういう人たちだった。
――■■を使う。患者の表情が幾分やわらぐ。
――駄目だ。根本的な治療にはなっていない。
――せめて原因がわかれば。
紙をめくるたび、筆跡が荒れていく。既知の薬からでは満足な効果が得られず、次第に焦燥感に襲われていく様子がうかがえる。
――妻が倒れた。
ディレインの手がびくりと震えた。紙束を落としそうになったが、すんでのところで耐えた。
――看病のため私より長く患者と接するのだから、予測していた事態ではある。
――とうに覚悟していたつもりだったが、やはり堪える。
――妻の病状進行が早い。
――年には勝てないかと軽口を叩くと、弱々しい声で一喝された。
――集落の外へ使いを出すわけにいかず、外から人を入れることもできない。
――集落の民には苦痛を和らげる処置を。
――新しい調合を試す役割は妻が請け負ってくれた。
――妻がやせ細っていく。
紙束に余計な皺をつけたくないのに、手の震えが止まらない。意識的に力んでいなければ立っていることさえ難しい。
呼吸が浅くなっている。生唾を飲み込んでから次の紙へ進める。
すると、それまでどんどん重くなっていた筆致が急に軽くなった。
――今日試した薬が著効した。
――奇跡だ。奇跡が起きた。
ディレインは己の目を疑った。だが養父の言葉は疑うべくもない。合う薬ができたと、養父が書いているからにはそうなのだろう。
これほどまでに困窮した状況でよくぞと、誇らしいくらいだ。もしも物語のなかであれば幸せな結末へと辿り着けたかもしれない。そう思えるほどに。
しかし現実には、養父母がディレインのもとへ帰ってくることはなかった。未読の紙束も残り少ない。
――だが遅すぎる奇跡でもある。薬の材料はすでに底が見えている。妻の体力も残り少ない。
――もちろん集落の人たちもだ。感染していないと言える者はとっくにいない。
――早晩、私の番が来るだろう。
――それまでにまとめておくとしよう。
――いつか誰かが見つけてくれることを信じて。
記録はここで終わっている。あとは薬のレシピや病についての情報が整然とまとめられていて、まるで教科書のようだ。当初は不明とされた発生原因も最終的には見当がついていたようで、再発生した場合の対処方法まである。
実地体験に基づく得難い情報だ。帰ったらすぐにレシピを試したいと、医者としてのディレインは強く思う。知己の医療者に共有するのもいいだろう。
本当に、そうしたいのに。
一方で、胸に抜けない棘が刺さる痛みを感じる。
あの日ディレインの胸に刺さってから、ずっと抜けない棘が。
紙束を持つ手の指先が、何かしらに触れた。
(……なんだろう、もう一枚ある……?)
紙束を裏返すと、別のものから切り離したものなのか、他の紙よりも小さめで色も異なる紙片が張り付いていた。丁寧に剥がせば、これまででいちばん弱々しい文字が、途切れ途切れに記されていた。
――一人前になったかい?
――母さんは君にシチューを作る夢を見ながら旅立ったよ
――私も、そんな夢を見ながら往きたいものだね
走り書きだ。けれど手紙でもある。宛名などないが、ひとり置いてきた息子への最期の手紙だと、当の息子本人にはわかってしまった。
「……ずるいだろ」
眠りに落ちる瞬間まで笑っていただろう。
あの日の前夜、ディレインがふたりとおやすみを告げ合った、あの時の顔をしていただろう。
「ずるいだろ、こんなの……っ!!」
そうせずにはいられず吐き出す。目からも水がぼろぼろと溢れてくる。
今の今まで、あの夜のふたりを思い返すたびに棘が疼いて仕方なかった。だが今は、柔らかく微笑むふたりが勝手に浮かんでくる。
ようやく棘が抜けた気がした。ようやく。
ひゅうひゅうと、嘆くように。
木材と植物から作られていただろう天井は朽ちてすでになく、石組みの壁は崩れて一部が残るのみ。かろうじて間取りがわかる程度で、家具や小物類も腐り落ちるか苔むすか植物の根が這うか。
一言で表すなら、廃墟。
彼が立つのは、そうした廃墟ばかりが立ち並ぶ、元は集落であった場所。住民が絶えたその理由ゆえに隣の集落の者すら近づくことを避けるというのに、彼は、集落の入り口だった場所に立っている。
「んー……念のため付けておくか」
常備しているバンダナで鼻と口を覆う。不格好にはなるが、他に誰もいないので気にしない。
易々とズレないよう結び目を確認してから、彼は歩き出した。かつては整備されていただろう、今は草が自由に茂る、集落内部への道を。
ディレイン・オールドケイジは医者である。旅をしながら各地をまわり、医療が日常でない人々を助けている。医療とは人を生かすためのもの。彼はそう教わったし、今も異論はない。
だが廃墟に人はいない。少なくとも、医療を必要とする、生きた人は。
建物だった場所を、ひとつずつ確認していく。当然どこも荒れている。打ち捨てられたからというだけではない、まだ人が残っていた頃の切迫した状況をうかがわせるような。
(でも)
(でも、最後まで清潔さを保とうとしたのがわかる)
半分くらいの家屋を見終えてから振り返ると、集落自体が緩やかな斜面にできているのか、各家の軒先に布切れがぶら下がっているのが一望できた。擦り切れているものの、数種類の色があるようだ。草木の汁で染められているのだろう。色には、意味があったはずだ。その家の住人の状態を示すという意味が。
とはいえ、最後には布を付け替える余裕すらなかったのかもしれない。予想があっていれば、実際には全てが同じ色になっていなければおかしいのだから。
先へ進むと、集会所と思しき建物と、その裏手に墓地を見つけた。集会所はひときわ頑丈に作られていたのか屋根が残っていたが、代わりに内にあるものが朽ちる速度も遅かったらしい。扉を開けた途端に流れ出てきた匂いに危機感を覚え、すぐに閉じた。暗く湿った空気の奥に、布で覆われた山のような何かが見えたが、ディレインひとりの手には余るものに違いなかった。
気を取り直して裏手へ移動する。管理する者を失った墓地は、それでも整然と並ぶ墓標が残るだけまだ落ち着く場所だった。墓標に刻まれた銘を確認していく。覚えのある名前はなかった。
ただ墓地の一角、周囲とは植物の育ち具合が異なるその区画には、掘り返せばもしかしたら。
(建物の中かもしれない。でもなぁ……)
いずれにしても顔は判別できない状態であろうから、危険を犯して掘り返したりあの扉の向こうへ歩を進めたりはできない。
何もできない。が、せめて。
(聖職者でも何でもないけど、祈るくらいなら)
どうか。どうかその眠りは安らかであらんことを。
両の目を閉じて、彼は願った。
収穫はなし。そう判断して、集落の入口に戻ろうとしたとき。視界の隅で何色にも染められていない布がはためいた。
その布を掲げる小屋は本当に小さく、けれど屋根まで石造りなことから、もとは倉庫か何かだったのではないかと思われた。だからこそディレインも内部を確認することなく素通りしていたのだが。
他の家々には未染色の布は掲げられていなかった。そのことが彼の気をはやらせた。
蝶番の壊れた扉をそっと押し開けると、中は薄暗いものの集会所のような濁った空気ではなかった。ややひやりとする温度に適度な湿度、壁にぐるりと作りつけられた棚、棚に並ぶ壺や箱、袋など……倉庫で間違いなさそうだ。
ただその一角に、彼が調剤に使う道具と同じものがあった。すっかり枯れた薬草の名残も数種類。
(……そうか。ここで、親父は)
あの日、養父母が持ち出した薬草かもしれない。ディレインは今も肌身離さず持ち歩く手紙のことを思い出す。胸が絞めつけられて、あの時抱かされた想いを振り払うように力なく首を振った。
周囲をもう少し調べることにした。労せずして、油紙で包まれた紙束を見つけた。まとめていた紐をほどき広げれば、懐かしい筆跡が綴られていた。
――到着。現状を確認。
――死者数すでに■名、重症■名、軽症■名。
――最初の発症時期を聞く。広がりが早い。未発症者も時間の問題か。
続けて症状の内容が書かれている。ディレインが眉を顰めるには十分すぎるくらいで、当時の養父も同じ表情をしていたことだろう。感染の広がりが早いうえに症状も重い。養父母がこの集落に到着した時点で、いや、おそらく彼らに話がきた時点で、手遅れだったのだ。
それでも、彼らに動かないという選択肢はなかった。そういう人たちだった。
――■■を使う。患者の表情が幾分やわらぐ。
――駄目だ。根本的な治療にはなっていない。
――せめて原因がわかれば。
紙をめくるたび、筆跡が荒れていく。既知の薬からでは満足な効果が得られず、次第に焦燥感に襲われていく様子がうかがえる。
――妻が倒れた。
ディレインの手がびくりと震えた。紙束を落としそうになったが、すんでのところで耐えた。
――看病のため私より長く患者と接するのだから、予測していた事態ではある。
――とうに覚悟していたつもりだったが、やはり堪える。
――妻の病状進行が早い。
――年には勝てないかと軽口を叩くと、弱々しい声で一喝された。
――集落の外へ使いを出すわけにいかず、外から人を入れることもできない。
――集落の民には苦痛を和らげる処置を。
――新しい調合を試す役割は妻が請け負ってくれた。
――妻がやせ細っていく。
紙束に余計な皺をつけたくないのに、手の震えが止まらない。意識的に力んでいなければ立っていることさえ難しい。
呼吸が浅くなっている。生唾を飲み込んでから次の紙へ進める。
すると、それまでどんどん重くなっていた筆致が急に軽くなった。
――今日試した薬が著効した。
――奇跡だ。奇跡が起きた。
ディレインは己の目を疑った。だが養父の言葉は疑うべくもない。合う薬ができたと、養父が書いているからにはそうなのだろう。
これほどまでに困窮した状況でよくぞと、誇らしいくらいだ。もしも物語のなかであれば幸せな結末へと辿り着けたかもしれない。そう思えるほどに。
しかし現実には、養父母がディレインのもとへ帰ってくることはなかった。未読の紙束も残り少ない。
――だが遅すぎる奇跡でもある。薬の材料はすでに底が見えている。妻の体力も残り少ない。
――もちろん集落の人たちもだ。感染していないと言える者はとっくにいない。
――早晩、私の番が来るだろう。
――それまでにまとめておくとしよう。
――いつか誰かが見つけてくれることを信じて。
記録はここで終わっている。あとは薬のレシピや病についての情報が整然とまとめられていて、まるで教科書のようだ。当初は不明とされた発生原因も最終的には見当がついていたようで、再発生した場合の対処方法まである。
実地体験に基づく得難い情報だ。帰ったらすぐにレシピを試したいと、医者としてのディレインは強く思う。知己の医療者に共有するのもいいだろう。
本当に、そうしたいのに。
一方で、胸に抜けない棘が刺さる痛みを感じる。
あの日ディレインの胸に刺さってから、ずっと抜けない棘が。
紙束を持つ手の指先が、何かしらに触れた。
(……なんだろう、もう一枚ある……?)
紙束を裏返すと、別のものから切り離したものなのか、他の紙よりも小さめで色も異なる紙片が張り付いていた。丁寧に剥がせば、これまででいちばん弱々しい文字が、途切れ途切れに記されていた。
――一人前になったかい?
――母さんは君にシチューを作る夢を見ながら旅立ったよ
――私も、そんな夢を見ながら往きたいものだね
走り書きだ。けれど手紙でもある。宛名などないが、ひとり置いてきた息子への最期の手紙だと、当の息子本人にはわかってしまった。
「……ずるいだろ」
眠りに落ちる瞬間まで笑っていただろう。
あの日の前夜、ディレインがふたりとおやすみを告げ合った、あの時の顔をしていただろう。
「ずるいだろ、こんなの……っ!!」
そうせずにはいられず吐き出す。目からも水がぼろぼろと溢れてくる。
今の今まで、あの夜のふたりを思い返すたびに棘が疼いて仕方なかった。だが今は、柔らかく微笑むふたりが勝手に浮かんでくる。
ようやく棘が抜けた気がした。ようやく。