おじさんの旅立ち
ディレイン・オールドケイジ更新 2024年05月10日 12時33分37秒
SS
旅に出ることは以前から伝えてあったし、湿っぽいのや後ろ髪引かれるのは避けたかったからさ。…挨拶はしないで出てきちゃった。ごめんね。
まあ、君はもしかしたら「そうか」の一言だけで済ませてしまうのかもしれないけど。でも、うん、そうだなぁ…寂しい、とか、ちょっとくらい思ってくれたなら、おじさん冥利につきるよ。
――なんてね。
***
「なんだこれは…」
王国クレビオン領の領主ウォーレス・クレビオンは、目の前にうず高く積まれた紙束に圧倒されていた。
「何って、8割くらいは薬草の標本ですよ。図鑑をめくるだけでは知り得ない情報のかたまり。あとの2割は私の研究メモといったところですか。どちらも教材になると思いましてね」
クレビオン領は薬草を特産としており、その関係で領主一族は代々、医術をおさめてきた。だが人には向き不向きというものがある。そのことをようやく認めるしかなくなったウォーレスが、医術や薬学を志す者のための学校設立に動き出して、いかほど経ったか。予定地の整備や建物の設計が進められていると、ディレインも街中の話題として聞いてきたところだ。
その学校に、ディレインはこれまで集めてきた植物標本や研究結果を提供することにした。旅に持っていける荷物は、マジカルポケットを習得したとはいえ、限られる。診察や治療に必要なものを優先して持ち運び、その他は有用に役立ててもらえるところへ譲れるなら、それが一番だと考えた。
ウォーレスは頭を抱えている。眼前の資料が有用だと判断できるだけに、彼の中で葛藤が起きているのだろう。以前、ディレインが初めて学校への協力を申し出た際にも見た光景だ。やがてはあの時と同じように受け入れるだろうから、これ以上は言うこともない。
カップの中の紅茶を飲み干して、ディレインは席を立った。
「…待て」
背を向けようとしたディレインを、額に油汗を滲ませたウォーレスが呼び止める。視線は相変わらず紙束に向けられたままだったが。
「おまえに連絡をとりたい時はどうすればいい」
そういえば考えていなかったなと、ディレインは立ったまま思案する。友人たちには自分から手紙を出すつもりでいたし、向こうからも届く可能性を想定していたが、一応の協力相手であるはずのウォーレスのことは、旅先で見つけた資料を送りつけるくらいしか想定していなかった。
「そうですね…冒険者ギルドに言付けてください。街に出たら立ち寄るようにします」
送りつけた資料について確認事項が発生することもあるだろう。急ぎの連絡には対応できないかもしれないが、旅人とはそういうものだ。
わかった、と答えたウォーレスは、しかし、まだ何か言いたげだった。
「……冒険者はまだ続けますよ。遍歴医のかたわらでどれだけ依頼を受けられるかはわかりませんがね」
ディレインが察して答える。身分保証、情報収集、移動手段の確保、何より自分が誰かを助けられる可能性。旅をするうえでのメリットは数多く、冒険者を辞めるという選択肢は今のところの彼にはなかった。
回答の間に、どうやらウォーレスは自身を納得させることができたらしい。研究メモの内容確認を始めている。もはや他に意識を割いていない。
ようやく出発できると、ディレインも思考を切り替え、静かに退室する。別れの挨拶を交わすような間柄ではない。
自分にできることを、できるだけ。時にはどうしても手を伸ばしてしまうかもしれないが、伸ばしたいと思ってしまった時にはいつでも伸ばせるように。
首から下げ、今は衣服の下に隠れている識別票。これが役立つことのないようにと願いながら。
――ディレイン・オールドケイジの旅は始まりを告げる。
まあ、君はもしかしたら「そうか」の一言だけで済ませてしまうのかもしれないけど。でも、うん、そうだなぁ…寂しい、とか、ちょっとくらい思ってくれたなら、おじさん冥利につきるよ。
――なんてね。
***
「なんだこれは…」
王国クレビオン領の領主ウォーレス・クレビオンは、目の前にうず高く積まれた紙束に圧倒されていた。
「何って、8割くらいは薬草の標本ですよ。図鑑をめくるだけでは知り得ない情報のかたまり。あとの2割は私の研究メモといったところですか。どちらも教材になると思いましてね」
クレビオン領は薬草を特産としており、その関係で領主一族は代々、医術をおさめてきた。だが人には向き不向きというものがある。そのことをようやく認めるしかなくなったウォーレスが、医術や薬学を志す者のための学校設立に動き出して、いかほど経ったか。予定地の整備や建物の設計が進められていると、ディレインも街中の話題として聞いてきたところだ。
その学校に、ディレインはこれまで集めてきた植物標本や研究結果を提供することにした。旅に持っていける荷物は、マジカルポケットを習得したとはいえ、限られる。診察や治療に必要なものを優先して持ち運び、その他は有用に役立ててもらえるところへ譲れるなら、それが一番だと考えた。
ウォーレスは頭を抱えている。眼前の資料が有用だと判断できるだけに、彼の中で葛藤が起きているのだろう。以前、ディレインが初めて学校への協力を申し出た際にも見た光景だ。やがてはあの時と同じように受け入れるだろうから、これ以上は言うこともない。
カップの中の紅茶を飲み干して、ディレインは席を立った。
「…待て」
背を向けようとしたディレインを、額に油汗を滲ませたウォーレスが呼び止める。視線は相変わらず紙束に向けられたままだったが。
「おまえに連絡をとりたい時はどうすればいい」
そういえば考えていなかったなと、ディレインは立ったまま思案する。友人たちには自分から手紙を出すつもりでいたし、向こうからも届く可能性を想定していたが、一応の協力相手であるはずのウォーレスのことは、旅先で見つけた資料を送りつけるくらいしか想定していなかった。
「そうですね…冒険者ギルドに言付けてください。街に出たら立ち寄るようにします」
送りつけた資料について確認事項が発生することもあるだろう。急ぎの連絡には対応できないかもしれないが、旅人とはそういうものだ。
わかった、と答えたウォーレスは、しかし、まだ何か言いたげだった。
「……冒険者はまだ続けますよ。遍歴医のかたわらでどれだけ依頼を受けられるかはわかりませんがね」
ディレインが察して答える。身分保証、情報収集、移動手段の確保、何より自分が誰かを助けられる可能性。旅をするうえでのメリットは数多く、冒険者を辞めるという選択肢は今のところの彼にはなかった。
回答の間に、どうやらウォーレスは自身を納得させることができたらしい。研究メモの内容確認を始めている。もはや他に意識を割いていない。
ようやく出発できると、ディレインも思考を切り替え、静かに退室する。別れの挨拶を交わすような間柄ではない。
自分にできることを、できるだけ。時にはどうしても手を伸ばしてしまうかもしれないが、伸ばしたいと思ってしまった時にはいつでも伸ばせるように。
首から下げ、今は衣服の下に隠れている識別票。これが役立つことのないようにと願いながら。
――ディレイン・オールドケイジの旅は始まりを告げる。