幕間『厄災来たる』
ヨル・スレイマン更新 2023年01月07日 12時26分33秒
四月一日に見た夢。現実には何も関係しない。
それは、俺達の隊では『厄災』と呼ばれている。
悪魔はその大半が勝手気侭に周囲を滅ぼすものではあるのだが、それを前提としてもなお、彼だけがそう呼ばれるだけの格の違いがあった。
●
「あー、うん。間違いないですね、これは」
礼拝堂が赤に染め上げられていた。白い大理石の床にできた血の海に、数多の人が沈んでいる。内訳を見れば天使半数、悪魔半数。一様に同じような斬撃を受けた痕がある。こうもまあ急所ばかりを正確に狙えるのだから、見事だと思わざるを得ない。
『すぐに引き上げろ。戻せるか?』
通信魔術先で、小さく舌打ちする音が聞こえた。まったくご愁傷様である。とはいえ今は仕事なので、俺も被害の状況を再度確かめることにする。
瀕死ではあるが、まだ呻き声をあげているものもいなくはない。
「うーん、どうでしょうかね。死んでないのは……三分の一くらいはいるか。でもまあ、どうかな。傷を治したところで、使い物になるかどうかは……どうかな」
煮え切らない返事には理由がある。
俺の他者への超回復魔術は、生きてさえいるならそこそこ健常な状態まで回復させることができる。とはいえそれは身体だけの話であり、精神は別だ。一度死の縁を彷徨った者が抱いた、強く焼き付いた恐怖まではどうすることもできない。その場合生きていても幸せにはなれないだろうし、此方としても兵にならない粗大ゴミなので、それならいっそ死んでくれた方が良い。
また、こういう多種の死体が混ざった場所だと、俺の魔術は強すぎて生きた者に死体を混ぜて回復させてしまうこともある。複数の天使や悪魔を繋いだキメラを生産するのは、それはそれで後々面倒なことになるのである。分別作業のコストを考えると、対価はきちんと欲しい事情もあった。
『わかった。判断はお前に任せる』
「はいはい。とりあえず彼がまだいるのか、既に帰った後かにもよりますね。もう少し調べてからにして――」
その時、耳元に重い風切り音が届いた。俺はそこで通信を切った。
●
それは、俺たちの隊では『厄災』と呼ばれている。天使だろうが悪魔だろうが関係なく、それらがどこで何をしていようかも関係なく、ただ出会ったという理由だけで全てを殺してしまうからだ。
「――よぉ!」
場違いに陽気な声と同時、マチェットが俺の心臓を貫いていた。肋の隙間を通すように差し込まれた刃は大動脈を断ち切って、抉り込むような斬撃の後に身体から離れていく。血に濡れた銀に俺の姿が映っていた。その向こうで、無邪気に笑う彼がいた。
「お前も遊びに来たのか? 残念だったな! ここのはもう全部俺のだからな」
「そうかい。それならそれで、もっとしっかり殺してやって欲しいけど。俺の仕事が増えるんだ」
「ん? 生きてた?」
「生きてるのもいたよ」
「でもなあ、動かないのはつまんねえからな-」
そう言った彼が大声で笑って見せる頃には、俺の傷はほぼ完治していた。あの一撃は致命傷に違いなかったが、この程度の戯れであればまだ俺の自己再生魔術の方が早い。
迷いなく振り下ろされる次撃を躱し、俺は自分の剣の柄を握る。見えないように魔術で隠したままの刃が彼の三度目の攻撃を弾くと、相手は臆することなくキラキラとした目を此方に向けた。そしてにっこりと笑う。俺に付けたはずの傷が消えているのを見て、今日もいっぱい斬れそうだな――などと思っている顔だ。
「まあ俺的には全部死んだようなもんだ。帰る前にお前が来て良かったぜ」
「君にそう言われると確かに悪い気はしないな。――ナハシュ」
悪魔ナハシュ。位は推定魔王、ただし能力だけならそれ以上。常に単独で動き、より激しい戦場に誘われるようにやってきては天使も悪魔も構わず葬る、誰にとっても等しく厄災の如き存在。
影を纏ったような褐色の肌に返り血の赤を飾り、無垢な金色の目は輝いている。一片の曇りもなく、そこにただ楽しいという感情だけを浮かべていた。
宙を舞うように飛び退き、血の池に浮かんだ浮島の如く遺体を踏みつけてナハシュはマチェットを構え直す。そのしなやかな一挙手一投足の美しさに、俺は思わず見惚れてしまった。
「相変わらず君は綺麗だな」
天界との通信は切っている。だから、俺は素直な感想を口にした。ナハシュは一度首を傾げて、赤に塗れた大理石を滑るように距離を詰めてくる。
「んなこというのお前だけだぜ」
「言う前に君が殺してしまうからかもしれないね」
瞬の内に近づいてきた褐色の顔の、睫が一度上下した。ナハシュはすぐに楽しそうに笑い、笑ったまま躊躇いなく刃で俺の首筋を掻き切る。躱しきれずに深く開いた傷口は、俺が指で血を拭ってしまう頃には無かったことになっている。その時のナハシュの歓喜に満ちた顔を見ると、俺は俺にこの魔術を齎してくれた神にさえ感謝したくなるのだ。
「好きだよ、ナハシュ」
「すき?」
「だから今度の週末に俺とデートをして欲しいんだけど」
「でーと。デートって何だっけ」
「待ち合わせをして、二人で出かけて楽しいことをする感じ」
「あー、そういう」
柄まで真っ赤に染まったマチェットを再度振り下ろしながら、ナハシュが口を開く。
「それって、今のと何か違うのか?」
「――え、」
完全に思考が止まった俺の胸に、ナハシュの刃が柄まで刺さる。
力の入らなくなった身体がその場に崩れ落ち、俺は俺の血の海に沈んだ。ナハシュは俺の身体に馬乗りになって、再度手に持った刃を構える。血に濡れた頬が綻び、薄らと紅潮していた。死に瀕した俺の身体は危機を痛みとして脳へ伝えるが、その全てがどうでも良くなるほどに見上げた彼は美しかった。
「 」
音の消えた世界で、ナハシュの唇が言葉を紡ぐ。
●
ざりざりと嫌なノイズの音が耳元で鳴っている。
目を覚ました俺が最初に見たのは、礼拝堂のステンドグラスだった。ナハシュの姿はもう無い。しまったな、と俺は小さく呟く。
どうやら、聞こえているノイズは通信魔術を無理矢理に繋ごうとしている故のもののようだ。俺がそれに応じると、すぐに上司の声が脳内に飛び込んできた。
『――ヨルムンレーク! 無事か!?』
「大丈夫でーす。でもすみません、死にかけてる間に逃げられてしまって」
見れば周囲には死体の山。流石にもう生きているものはいないだろう。何から何まであまり良くない。まあ、仕事は楽になったけれども。
『厄災だろう。ならば仕方ない。お前だけでもすぐに帰還せよ』
「了解です。遺体の処理はどうします?」
『後ほど別隊を送る。……あれと相対してお前は生き残ったのか。相変わらず化け物だな』
安堵と嫌みの中間くらいの声色でそう言われ、俺は思わず喉の奥で笑った。
既に消えそうになっている傷の再生を意図的に止める。実のところ、彼に付けられた傷は総じて痛みが強く治りが遅い。無効化の魔術か何か働いているのだと思うのだが、恐らく彼がそれを知ってやっているとは思いにくい。もしかすると――彼が自身の術を無意識ではなく自覚して使用するならば、俺は死んでしまうのかもしれない。そう思うと尚更心臓が高鳴った。
(ああ、好きだなぁ)
彼の付けたこの傷は、消さずに残しておきたいのだ。
無邪気に踊るようにただただ殺す彼が好きだ。ああ、俺が死んだと思って、見損なわれていなければ良いのだけど。俺は俺の親愛なる星へ想いを馳せる。
そうして見上げた夜の空に、星は一つも見えない。けれども、俺の心は清々しく晴れていた。
悪魔はその大半が勝手気侭に周囲を滅ぼすものではあるのだが、それを前提としてもなお、彼だけがそう呼ばれるだけの格の違いがあった。
●
「あー、うん。間違いないですね、これは」
礼拝堂が赤に染め上げられていた。白い大理石の床にできた血の海に、数多の人が沈んでいる。内訳を見れば天使半数、悪魔半数。一様に同じような斬撃を受けた痕がある。こうもまあ急所ばかりを正確に狙えるのだから、見事だと思わざるを得ない。
『すぐに引き上げろ。戻せるか?』
通信魔術先で、小さく舌打ちする音が聞こえた。まったくご愁傷様である。とはいえ今は仕事なので、俺も被害の状況を再度確かめることにする。
瀕死ではあるが、まだ呻き声をあげているものもいなくはない。
「うーん、どうでしょうかね。死んでないのは……三分の一くらいはいるか。でもまあ、どうかな。傷を治したところで、使い物になるかどうかは……どうかな」
煮え切らない返事には理由がある。
俺の他者への超回復魔術は、生きてさえいるならそこそこ健常な状態まで回復させることができる。とはいえそれは身体だけの話であり、精神は別だ。一度死の縁を彷徨った者が抱いた、強く焼き付いた恐怖まではどうすることもできない。その場合生きていても幸せにはなれないだろうし、此方としても兵にならない粗大ゴミなので、それならいっそ死んでくれた方が良い。
また、こういう多種の死体が混ざった場所だと、俺の魔術は強すぎて生きた者に死体を混ぜて回復させてしまうこともある。複数の天使や悪魔を繋いだキメラを生産するのは、それはそれで後々面倒なことになるのである。分別作業のコストを考えると、対価はきちんと欲しい事情もあった。
『わかった。判断はお前に任せる』
「はいはい。とりあえず彼がまだいるのか、既に帰った後かにもよりますね。もう少し調べてからにして――」
その時、耳元に重い風切り音が届いた。俺はそこで通信を切った。
●
それは、俺たちの隊では『厄災』と呼ばれている。天使だろうが悪魔だろうが関係なく、それらがどこで何をしていようかも関係なく、ただ出会ったという理由だけで全てを殺してしまうからだ。
「――よぉ!」
場違いに陽気な声と同時、マチェットが俺の心臓を貫いていた。肋の隙間を通すように差し込まれた刃は大動脈を断ち切って、抉り込むような斬撃の後に身体から離れていく。血に濡れた銀に俺の姿が映っていた。その向こうで、無邪気に笑う彼がいた。
「お前も遊びに来たのか? 残念だったな! ここのはもう全部俺のだからな」
「そうかい。それならそれで、もっとしっかり殺してやって欲しいけど。俺の仕事が増えるんだ」
「ん? 生きてた?」
「生きてるのもいたよ」
「でもなあ、動かないのはつまんねえからな-」
そう言った彼が大声で笑って見せる頃には、俺の傷はほぼ完治していた。あの一撃は致命傷に違いなかったが、この程度の戯れであればまだ俺の自己再生魔術の方が早い。
迷いなく振り下ろされる次撃を躱し、俺は自分の剣の柄を握る。見えないように魔術で隠したままの刃が彼の三度目の攻撃を弾くと、相手は臆することなくキラキラとした目を此方に向けた。そしてにっこりと笑う。俺に付けたはずの傷が消えているのを見て、今日もいっぱい斬れそうだな――などと思っている顔だ。
「まあ俺的には全部死んだようなもんだ。帰る前にお前が来て良かったぜ」
「君にそう言われると確かに悪い気はしないな。――ナハシュ」
悪魔ナハシュ。位は推定魔王、ただし能力だけならそれ以上。常に単独で動き、より激しい戦場に誘われるようにやってきては天使も悪魔も構わず葬る、誰にとっても等しく厄災の如き存在。
影を纏ったような褐色の肌に返り血の赤を飾り、無垢な金色の目は輝いている。一片の曇りもなく、そこにただ楽しいという感情だけを浮かべていた。
宙を舞うように飛び退き、血の池に浮かんだ浮島の如く遺体を踏みつけてナハシュはマチェットを構え直す。そのしなやかな一挙手一投足の美しさに、俺は思わず見惚れてしまった。
「相変わらず君は綺麗だな」
天界との通信は切っている。だから、俺は素直な感想を口にした。ナハシュは一度首を傾げて、赤に塗れた大理石を滑るように距離を詰めてくる。
「んなこというのお前だけだぜ」
「言う前に君が殺してしまうからかもしれないね」
瞬の内に近づいてきた褐色の顔の、睫が一度上下した。ナハシュはすぐに楽しそうに笑い、笑ったまま躊躇いなく刃で俺の首筋を掻き切る。躱しきれずに深く開いた傷口は、俺が指で血を拭ってしまう頃には無かったことになっている。その時のナハシュの歓喜に満ちた顔を見ると、俺は俺にこの魔術を齎してくれた神にさえ感謝したくなるのだ。
「好きだよ、ナハシュ」
「すき?」
「だから今度の週末に俺とデートをして欲しいんだけど」
「でーと。デートって何だっけ」
「待ち合わせをして、二人で出かけて楽しいことをする感じ」
「あー、そういう」
柄まで真っ赤に染まったマチェットを再度振り下ろしながら、ナハシュが口を開く。
「それって、今のと何か違うのか?」
「――え、」
完全に思考が止まった俺の胸に、ナハシュの刃が柄まで刺さる。
力の入らなくなった身体がその場に崩れ落ち、俺は俺の血の海に沈んだ。ナハシュは俺の身体に馬乗りになって、再度手に持った刃を構える。血に濡れた頬が綻び、薄らと紅潮していた。死に瀕した俺の身体は危機を痛みとして脳へ伝えるが、その全てがどうでも良くなるほどに見上げた彼は美しかった。
「 」
音の消えた世界で、ナハシュの唇が言葉を紡ぐ。
●
ざりざりと嫌なノイズの音が耳元で鳴っている。
目を覚ました俺が最初に見たのは、礼拝堂のステンドグラスだった。ナハシュの姿はもう無い。しまったな、と俺は小さく呟く。
どうやら、聞こえているノイズは通信魔術を無理矢理に繋ごうとしている故のもののようだ。俺がそれに応じると、すぐに上司の声が脳内に飛び込んできた。
『――ヨルムンレーク! 無事か!?』
「大丈夫でーす。でもすみません、死にかけてる間に逃げられてしまって」
見れば周囲には死体の山。流石にもう生きているものはいないだろう。何から何まであまり良くない。まあ、仕事は楽になったけれども。
『厄災だろう。ならば仕方ない。お前だけでもすぐに帰還せよ』
「了解です。遺体の処理はどうします?」
『後ほど別隊を送る。……あれと相対してお前は生き残ったのか。相変わらず化け物だな』
安堵と嫌みの中間くらいの声色でそう言われ、俺は思わず喉の奥で笑った。
既に消えそうになっている傷の再生を意図的に止める。実のところ、彼に付けられた傷は総じて痛みが強く治りが遅い。無効化の魔術か何か働いているのだと思うのだが、恐らく彼がそれを知ってやっているとは思いにくい。もしかすると――彼が自身の術を無意識ではなく自覚して使用するならば、俺は死んでしまうのかもしれない。そう思うと尚更心臓が高鳴った。
(ああ、好きだなぁ)
彼の付けたこの傷は、消さずに残しておきたいのだ。
無邪気に踊るようにただただ殺す彼が好きだ。ああ、俺が死んだと思って、見損なわれていなければ良いのだけど。俺は俺の親愛なる星へ想いを馳せる。
そうして見上げた夜の空に、星は一つも見えない。けれども、俺の心は清々しく晴れていた。
風の力天使、ヨルムンレーク⋯⋯長いからヨルでいいよ。さて、単刀直入に訊くけど、君の仲間の潜伏先はどこかな。君も酷い怪我をしてるし、滅茶苦茶に回復されるのは嫌だろ? この後デートだからさ、急いでるんだ。
★
こんな風に相手が死ぬのをじっと見るのは久しぶりだ。そういえば暫く姿も変えてなかったな――などとナハシュは思い出す。そうしたい気分の時は姿を変えることが殆どだ。今の姿であれば、大概は一撃入れると動かなくなってしまう。
刃を突き立てるたびに、温かな血液が吹き出してナハシュの顔を濡らす。馬乗りにした天使は剣撃の痛みからなのか時折酷く呻き、刃に抉られるたび身体が大きく跳ねた。馬鹿みたいに白い服も翼も、今は綺麗な赤色に染まっている。
「血ってさ、赤いのは今のうちだけなんだぜ。放っとくとすぐ黒くなるんだ」
返事は期待していなかったが、意外にも天使はまだ生きていた。ナハシュの方へ手を伸ばし、滴るほどの血に塗れた指でそっと頬を撫でる。そして、聞き逃しそうなほど小さな声を溢した。
「……揃いになるな」
「あっはは! 違いねえ」
ざく。胸へと深く刃を突き立てれば身体が一際大きく跳ねて、そうしてぶつりと糸が切れたように、本当に動かなくなった。
「変な奴」
天使への所感はそれに尽きる。最近妙に良く会うし、ナハシュに会ってもにこにこしている天使は珍しい。口を開けば「好きだ」とか「綺麗」だとかわけのわからないことばかり言う。そういえば名前は知らなかった。何度も聞かされたから、妙に長ったらしいものだったことだけは憶えている。
いつのまにか礼拝堂はしんと静かになっていた。ナハシュは目を閉じてその静寂を聞いた。戦場の賑やかさも、生き物が死に際に発する断末魔も、心が躍るようで嫌いではない。けれど全てが無くなった後の星空の下のような静かさが、ナハシュはいっとう好きだった。
「……流石に死んだか」
無音の中でしみじみと溢す。爪の先まで満たす充足感、心臓は未だドキドキと高鳴っていた。これだけ暴れたので、経験則からいえば暫くは誰も来ないだろう。この甘く蕩けそうな時間をゆっくりと楽しむのも悪くはない――そう思った時、ずるずると何かが這うような音が耳を擽った。
「――?」
飛び散った桃色の肉片が床を這っていた。思わず下敷きにしたままの天使を見れば、それは大凡人型を保ってはいない肉である。しかし、魔力は確かに残っていた。剥き出しの肉が、うぞうぞと気味悪く蠢いている。再生をしようとしている。
「……は、はは。ははは! あははははっ!!!!」
ナハシュは耐えきれずに爆笑した。腹を抱えて笑い転げた。一人の笑い声が、礼拝堂によく響いていた。
「はー! まだ生きてる! すげえなぁー!! 流石に手が疲れたぜこっちはよ」
ここから殺し直すのも悪くはなかった。悪くはなかったが、今日はよく殺したから――少し残しておいてもいいかもしれない。好物の最後の一口を大事にしまい込むような気持ちで、ナハシュは天使の心臓を掬い上げてキスをする。色欲の同胞がそういうのをたまにやっているのを思い出したから。今日は、気分が良かったから。
「そしたら、またな。会えたらだけどな」
ナハシュはそう言って、にっこりと笑った。
こんな風に相手が死ぬのをじっと見るのは久しぶりだ。そういえば暫く姿も変えてなかったな――などとナハシュは思い出す。そうしたい気分の時は姿を変えることが殆どだ。今の姿であれば、大概は一撃入れると動かなくなってしまう。
刃を突き立てるたびに、温かな血液が吹き出してナハシュの顔を濡らす。馬乗りにした天使は剣撃の痛みからなのか時折酷く呻き、刃に抉られるたび身体が大きく跳ねた。馬鹿みたいに白い服も翼も、今は綺麗な赤色に染まっている。
「血ってさ、赤いのは今のうちだけなんだぜ。放っとくとすぐ黒くなるんだ」
返事は期待していなかったが、意外にも天使はまだ生きていた。ナハシュの方へ手を伸ばし、滴るほどの血に塗れた指でそっと頬を撫でる。そして、聞き逃しそうなほど小さな声を溢した。
「……揃いになるな」
「あっはは! 違いねえ」
ざく。胸へと深く刃を突き立てれば身体が一際大きく跳ねて、そうしてぶつりと糸が切れたように、本当に動かなくなった。
「変な奴」
天使への所感はそれに尽きる。最近妙に良く会うし、ナハシュに会ってもにこにこしている天使は珍しい。口を開けば「好きだ」とか「綺麗」だとかわけのわからないことばかり言う。そういえば名前は知らなかった。何度も聞かされたから、妙に長ったらしいものだったことだけは憶えている。
いつのまにか礼拝堂はしんと静かになっていた。ナハシュは目を閉じてその静寂を聞いた。戦場の賑やかさも、生き物が死に際に発する断末魔も、心が躍るようで嫌いではない。けれど全てが無くなった後の星空の下のような静かさが、ナハシュはいっとう好きだった。
「……流石に死んだか」
無音の中でしみじみと溢す。爪の先まで満たす充足感、心臓は未だドキドキと高鳴っていた。これだけ暴れたので、経験則からいえば暫くは誰も来ないだろう。この甘く蕩けそうな時間をゆっくりと楽しむのも悪くはない――そう思った時、ずるずると何かが這うような音が耳を擽った。
「――?」
飛び散った桃色の肉片が床を這っていた。思わず下敷きにしたままの天使を見れば、それは大凡人型を保ってはいない肉である。しかし、魔力は確かに残っていた。剥き出しの肉が、うぞうぞと気味悪く蠢いている。再生をしようとしている。
「……は、はは。ははは! あははははっ!!!!」
ナハシュは耐えきれずに爆笑した。腹を抱えて笑い転げた。一人の笑い声が、礼拝堂によく響いていた。
「はー! まだ生きてる! すげえなぁー!! 流石に手が疲れたぜこっちはよ」
ここから殺し直すのも悪くはなかった。悪くはなかったが、今日はよく殺したから――少し残しておいてもいいかもしれない。好物の最後の一口を大事にしまい込むような気持ちで、ナハシュは天使の心臓を掬い上げてキスをする。色欲の同胞がそういうのをたまにやっているのを思い出したから。今日は、気分が良かったから。
「そしたら、またな。会えたらだけどな」
ナハシュはそう言って、にっこりと笑った。