幕間『名もなき星の美しさ』

ヨル・スレイマンヨル・スレイマン更新 2023年11月17日 16時43分46秒

【学祭】超個人的なエンディング

幕間『名もなき星の美しさ』
 歓声が聞こえる。そしてそれ以上に響く汚い罵詈雑言が、混ざり合って狂乱となり闘技場を満たしている。
 此処は巨大な井戸の底。見上げても空は見えない、薄暗いゴミ溜めである。目の前に居る同類を屠ることでのみ生き残れる、実にわかりやすくシンプルなルールだけが人生だった。
 だから俺はそれが終わるまで、ただひたすらに殺すしか道がなかった。なかったんだ。

●

「終わったな-」
「終わったね……」
 新しい生徒会メンバーを決める選挙が終了し、昼の学食の生徒の入りも比較的落ち着いたように思えた。オープンサンドを齧りながら、俺はしみじみと選挙戦を振り返る。
 気まぐれに庶務へと立候補したナハシュだったが、蓋を開けてみれば結果は落選。だが少なからず票は獲得しており、決して悪いだけの内容ではなかったと言えるだろう。ゴブリンロードである彼を支持する者が、学園に少なからず存在していたということなのだから。
 当然のことながら、ゴブリンに対する差別の念は未だ激しい。演説をする彼に向く視線は好意的なものばかりではなく――むしろ風当たりは確かに冷たいものだった。学園を出てもなおあり続けることは想像に難くない、あれこそがナハシュが生きる上で死ぬまで付きまとう逆風なのだろうと、今から胃が重くなるほどに。
「まあ、ちょうどよかったけどな」
「ちょうどよかった?」
 彼が食べていたのは大きなウィンナーを挟んだホットドッグで、それをようやく呑み込んだ末にそう口にする。首を傾げる俺へ、ナハシュはさらに得意げに顎を上げて言った。
「マジで週一登校は大変だからよ。程良い感じだったんじゃねえの」
「君ねえ……」
 選挙を引っかき回すだけ引っかき回し、満足した顔で楽しげに笑うナハシュは差別のことなどどこ吹く風。自身に向く視線などは、全く意に介してはいないようだ。
 ナハシュは別に鈍い男ではない。人一倍観察力に優れた彼は、そうやって周囲に差を付けられていることをきちんと理解しているはずだ。しかしナハシュにとって、それらはどうでもいいことのようだった。選挙に対してのみ言えば、ゴブリンの自分が立候補することで場を乱すことができると言い放ったほど。きっと重要なのはむしろ其方で、逆風すら体の良い遊びの道具のようにしているのである。

●

 歓声が聞こえる。そしてそれ以上に響く汚い罵詈雑言が、混ざり合って狂乱となり闘技場を満たしている。
 騒々しいことこの上ないのに、なぜかその声ははっきりと俺の耳に届いた。
「地味なのはやっぱな、駄目だと思うんだよな」
 声がした方を見上げたら、ナハシュが此方を見下ろしていた。そのさらに先、高い壁の上から「死ね」とか「殺せ」という叫び声が喧しい。ナハシュは、その壁の中間辺りに胡座をかいて座っていた。器用にエーテルを使い壁や天井を歩くのはナハシュの日常茶飯事だ。そしてそう思うと同時に、これが夢であることに俺は気付いていた。
「同じことを、よく十年もやってられるぜ。でも、なあヨル。そろそろ別の遊びが欲しいと思わねえ?」
「君は何を言ってる?」
 俺は、この場所にナハシュがいるという事実に嫌悪を感じていた。闘技場の客は概ねが醜い。彼らの値踏みするような視線や、狂乱に浮かされた言動がナハシュを捕らえるのが嫌だった。しかし当の本人は何も気にしない様子で、俺だけを見ていた。
「壁は登れんだよ。まあ、お前は俺ほど楽じゃねえだろうが。言っても質屋の屋根まで登るのとそんなに変わらねえはずだ」
「うん……うん?」
「そんでだ。この上には今、まさか自分が斬られるかもしれねえなんざ夢にも思わず威張り散らかしてる奴らがごまんといるだろ? しかも見た感じ全然強くねえ。いいか、登っちまえば皆殺しだって夢じゃない」
 けたけたと、楽しそうにナハシュは笑った。そして、壁に張り付いたままで立ち上がる。
「奴ら、きっとびっくりするだろうなぁ! 何せこんなただ高いだけの結界も何もねえガラ空きの観客席で、下から登ってくる可能性すら考えねえ馬鹿だ。相当驚くと思うぜ。どうだ、面白そうだろ?」
 ナハシュには憤り、恨み、反骨心、正義感――その全てがなかった。そこにはただただ、楽しくて仕方がないという感情だけがあった。そうしてひとしきり笑った後、踵を返し上へと歩き始める。俺の手を引くとか、そういうつもりは無いらしい。むしろ俺が登るだろうと疑ってすらいないような様子で、さも当たり前と言わんばかりに続ける。
「こういうのはな、地味(たいくつ)なのは駄目なんだ。つまんねえから」
 知ってる。そう言おうとした言葉はなぜか、口から出てはくれなかった。知っている。最初から知っていた。この男は、退屈を理由に世界さえ敵に回しかねないゴブリンロードなのだ。

 剣奴の誰もが、壁を登る方法を考えすらしなかった。そりゃあ俺達は授恵者(レシーバー)ではなかったのだから、そう簡単なことではないのだけど、そもそもそれは問題ではないのだ。俺達にとってあの壁はあるのが当然の代物で、俺達以外が何とかしない限りあり続けるのだと思い込んでいたことこそが本質。そうして己の運命を知らず他者に預けることは、服従と何が違うというのだろう。
 俺は、自分達が票を入れて良いことにすら気づけなかった彼らと全く同じだった。運命に翻弄される己を呪うだけで、変えようと考えることができなかった。
 ――ぐしゃり。後方に人が降って、汚い音をたてて潰れる。そこに染み付いた殺意などは微塵もない。ナハシュはいつだって遊ぶように人を殺す。
 俺は壁を掴む。これは夢だ。だからきっと、登ることも難しいことではないだろう。腕に力を込める。大丈夫。
 そうして俺は井戸の底を這い上がる。この上にある空の美しさは、もう知っている。
アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0