愛好禄2.5 実践者の条件
「愛好禄2」において、私は実践者の具体的な条件を提示していない。例えば、けして「飲む者」のいない「飲むための水」は「飲むための水」ではないと言明する際の「飲む者」は実践者である。しかし、その条件を明らかにはしていない。それゆえ、実践者の具体的な振る舞いもいまいちはっきりはしていないのである。本稿では、この問題を取り扱うことを目的とする。
ところで、問題を具体的にするため状況を設定しておこう。
乾いた大気が喉を乾かせ、私は思わず自分の革袋のなかの水を喉に流し込んだ。渇きを癒やすために。しかし、何かおかしい。喉の渇きは収まったが、期待した味ではなかった。そこでもう一杯飲んでみた、なるほどそういえばワインにしていたのだったな……水ではなく。水を流し込んだとは勘違い、おかしいはずだ。そうしたければ、横着せず鞄の道具を使うべきだった、私は。そこではたと周囲を見渡す、やってしまったな。あの目!あれは迂闊な者を見る目だ。道すがら水で渇きを癒やす者ではなく。かくして、私は自らが何者であるかを察し今後は気を付けようと感じたのである。
以上である。実践者たる私の条件は何であるのか、順に記述する。
ところで、問題を具体的にするため状況を設定しておこう。
乾いた大気が喉を乾かせ、私は思わず自分の革袋のなかの水を喉に流し込んだ。渇きを癒やすために。しかし、何かおかしい。喉の渇きは収まったが、期待した味ではなかった。そこでもう一杯飲んでみた、なるほどそういえばワインにしていたのだったな……水ではなく。水を流し込んだとは勘違い、おかしいはずだ。そうしたければ、横着せず鞄の道具を使うべきだった、私は。そこではたと周囲を見渡す、やってしまったな。あの目!あれは迂闊な者を見る目だ。道すがら水で渇きを癒やす者ではなく。かくして、私は自らが何者であるかを察し今後は気を付けようと感じたのである。
以上である。実践者たる私の条件は何であるのか、順に記述する。
2020年09月19日 23時36分15秒 |chat3
2020年09月22日 00時26分00秒
第1に、実践者の成立条件は実践可能性の有無である。例えば、私が「喉の渇きを癒やすため、道すがら水を飲む者」として成立するためには、喉の乾きを癒すために道すがら水を飲む可能性が私に備わっていなければならない。何故なら、成立には可能性が必要だからである。それゆえ、実践者には実践可能性がなければならない。
ただし、実践者に可能性が在れども水や喉などの事物に「渇きを癒やすためのもの」の可能性がなければ成立不能である。何故なら、喉や水などの事物が喉の乾きを癒やすものに成る事で「喉の渇きを癒やすこと」は成立するのだから。けして喉の乾きを癒やす事のない水や喉は、渇きの水や呪いの類だろう。それゆえ、実践者が成立するためには実践可能性が私と事物になければならない(つまり、あのときの失敗は革袋のなかのワインと私などの組み合わせに、私を道すがら水飲む者とする可能性がなかったこと)。
第2に、実践者の成立条件は実践可能性を感じる事である。例えば、私が革袋を見て「これは渇きを癒やすための水が入っている」と感じる事がけしてなければ私はそもそも渇きを癒やすためにそれを喉に流し込んだりはしない。何故なら、それが成立すると感じなかったのだから。それゆえ、実践者は革袋を「これは乾きを癒やすため水が入っている」と感じるよう訓練されていなければならない。ただし、実践者が過ちを「……なるほど」と感じ取って探り出す可能性がなければ訓練されたと呼ばれない。何故なら、これをけして探り出せない事は成立不能な事を感じる実践不能者であるに等しいから。それゆえ、実践者は周囲から実践可能性を感じ続けねばならない。
ただし、実践者に可能性が在れども水や喉などの事物に「渇きを癒やすためのもの」の可能性がなければ成立不能である。何故なら、喉や水などの事物が喉の乾きを癒やすものに成る事で「喉の渇きを癒やすこと」は成立するのだから。けして喉の乾きを癒やす事のない水や喉は、渇きの水や呪いの類だろう。それゆえ、実践者が成立するためには実践可能性が私と事物になければならない(つまり、あのときの失敗は革袋のなかのワインと私などの組み合わせに、私を道すがら水飲む者とする可能性がなかったこと)。
第2に、実践者の成立条件は実践可能性を感じる事である。例えば、私が革袋を見て「これは渇きを癒やすための水が入っている」と感じる事がけしてなければ私はそもそも渇きを癒やすためにそれを喉に流し込んだりはしない。何故なら、それが成立すると感じなかったのだから。それゆえ、実践者は革袋を「これは乾きを癒やすため水が入っている」と感じるよう訓練されていなければならない。ただし、実践者が過ちを「……なるほど」と感じ取って探り出す可能性がなければ訓練されたと呼ばれない。何故なら、これをけして探り出せない事は成立不能な事を感じる実践不能者であるに等しいから。それゆえ、実践者は周囲から実践可能性を感じ続けねばならない。
2020年09月22日 00時29分24秒
第3に、実践者の成立条件は当人に感じられている実践可能性が目的性を組織していること。例えば、私が「やってしまったな」と感じたのは私が自らを「道すがら水を飲む者」と了解しながらも実際はそれが破綻していた事を発見したからである。「喉の渇きを癒すための水」として喉に流し込んだのはワインであり、喉の渇きを癒やすためのものではあれど水ではなく、それを為す者として自らがなれたのは「道すがら水を飲む者」とする者ではなく、それになるべくしてなれなかったうっかりものであるなどと。観察を通して。それゆえ、実践者当人に感じられている実践可能性の体系はそれを為す目的となる性を組織している。けして目的と成る性を組織しない実践可能性の体系は行為者の有り得ぬ行為の集まりであり、語義が壊れているのではないか。
第4に、実践者の成立条件は目的性が公共(コムーネ)的であること。例えば、私は他者の目を見て自らが他者からうっかり者に見られ得るのかを察した。何をごそごそとしているのだろうか、ああさては何か間違えて飲んだな。確認すれば避けられたものを、迂闊な……と。そして、それによって私は自らを恥じたのである。今度は気をつけよう……と。それゆえ、その際の私の目的となる性は「道すがら水を飲む者と他者に見られる者」である。他者が私と出会われるのだから。私を「何者かと見るための者」として。この都市で。すなわち、実践者の成立条件はその目的性が他者と共存する場所で成立することである。けして他者と共存しない目的性は、誰かに見られる事を察する事がそもそも為し得ない元の状態からすれば在る種の呪いにかかった状態なのではあるまいか。
第4に、実践者の成立条件は目的性が公共(コムーネ)的であること。例えば、私は他者の目を見て自らが他者からうっかり者に見られ得るのかを察した。何をごそごそとしているのだろうか、ああさては何か間違えて飲んだな。確認すれば避けられたものを、迂闊な……と。そして、それによって私は自らを恥じたのである。今度は気をつけよう……と。それゆえ、その際の私の目的となる性は「道すがら水を飲む者と他者に見られる者」である。他者が私と出会われるのだから。私を「何者かと見るための者」として。この都市で。すなわち、実践者の成立条件はその目的性が他者と共存する場所で成立することである。けして他者と共存しない目的性は、誰かに見られる事を察する事がそもそも為し得ない元の状態からすれば在る種の呪いにかかった状態なのではあるまいか。
2020年09月26日 23時47分14秒
第5に、実践者の成立条件は目的性が身体的であること。例えば、私は何か変だと感じてその奇妙さを明らかとするために革袋を手に取った際その中に入っている液体のちゃぷちゃぷとした音を聞きながら熱を帯びた小石のような香りを嗅ぎ、その源を喉に流し込む事によってさらなる探索へとのめり込んだ。明らかさを最大化するために。そうすると、源は人肌程度の温度で滑らかな噛み心地で、促されるように口内で思う存分に転がすと、黄金葉や龍涎の匂いが奥から湧き上がるのが感じられた。皮膚や歯茎、舌などによって。そして、遂には次のように結論する。うまい……しかしこれは水ではない。何故なら、水であればこの味、この風味であるはずがないのだから……と。けして音や温度、触り心地のない香りや匂いだけのワインなどの物は空虚であり、またけして感覚される事なしに行われるワインと水の区別は空想と呼ばれるであろう。
それゆえ、私が「これは水ではないな」とその奇妙さを実際に明らかとした事の成立条件は「奇妙さを明らかとする者」である私が「奇妙さを明らかとするための」諸感覚が浸透し合う身体で「奇妙さを明らかとするための」事物と出会う事である。何故なら、「奇妙さを明らかとする者」が「奇妙さを明らかとする事」は身体と事物の’「奇妙さを明らかとするための」実践可能性によって成立するのだから。したがって、その何かをする実践者の目的性は身体的によって制約される。何か変だと感じられてもけしてそれを明らかとするためのものにならない事物は訓練不足か見当違いであり、その身体は欠如したものであり、それを為す実践者などはその目的性を喪失しているのであるまいか。
それゆえ、私が「これは水ではないな」とその奇妙さを実際に明らかとした事の成立条件は「奇妙さを明らかとする者」である私が「奇妙さを明らかとするための」諸感覚が浸透し合う身体で「奇妙さを明らかとするための」事物と出会う事である。何故なら、「奇妙さを明らかとする者」が「奇妙さを明らかとする事」は身体と事物の’「奇妙さを明らかとするための」実践可能性によって成立するのだから。したがって、その何かをする実践者の目的性は身体的によって制約される。何か変だと感じられてもけしてそれを明らかとするためのものにならない事物は訓練不足か見当違いであり、その身体は欠如したものであり、それを為す実践者などはその目的性を喪失しているのであるまいか。