愛好禄2 自然とエーテルが同じであること
私は自然とエーテルを同一視している。その理由は、神話に語られる創造者が澱(エーテル)から世界を作った事であると主張した。しかし、その意味はそれ程具体的ではないように思える。何故なら、2つの問題があるからである。
1つ目の問題は自然とエーテルの同一には少なくとも二通りの解釈が存在すること。例えば、創造者が澱から世界を作る事は古びたワインの底に溜まっている澱を取り去って綺麗なワインにする事と同じなのであろうか。それとも、澱を別の角度から眺めているだけなのであろうか。前者ならば根源を同じくし、後者ならば対象を同じくする。いったい何れなのであろうか。2つ目は、神話の出来事を如何に確証すべきかに懐疑があること。例えば、私は実際飲んだかどうかを見ていなくとも自分の革袋に入ったワインの量の減り具合を証拠に「ああ、飲んだのであったな」と判断できる。また、私がどう判断しようとも実際何かによってワインの量が減ったのだと因果関係を主張する事も可能だろう。しかし、神話程前となると一体どうすればよいのだろうか。
以上の問題が自然とエーテルの同一性を語るには立ち塞がっているのである。各々対処するとしよう。
1つ目の問題は自然とエーテルの同一には少なくとも二通りの解釈が存在すること。例えば、創造者が澱から世界を作る事は古びたワインの底に溜まっている澱を取り去って綺麗なワインにする事と同じなのであろうか。それとも、澱を別の角度から眺めているだけなのであろうか。前者ならば根源を同じくし、後者ならば対象を同じくする。いったい何れなのであろうか。2つ目は、神話の出来事を如何に確証すべきかに懐疑があること。例えば、私は実際飲んだかどうかを見ていなくとも自分の革袋に入ったワインの量の減り具合を証拠に「ああ、飲んだのであったな」と判断できる。また、私がどう判断しようとも実際何かによってワインの量が減ったのだと因果関係を主張する事も可能だろう。しかし、神話程前となると一体どうすればよいのだろうか。
以上の問題が自然とエーテルの同一性を語るには立ち塞がっているのである。各々対処するとしよう。
2020年09月14日 00時42分05秒 |chat5
2020年09月18日 01時12分24秒
自然とエーテルはその役割が異なる一方で、「無」としては等しい。そしてその記述は理に叶っていると思われるのである。しかし、今回は「自然を作るために実行される働きの具体的な内容」や「現に実践されている魔法行為のなかでの自然とエーテルの同一性の具体的内容」「実践者の詳細な規定」を紹介していない。また、自然に関する3つの意味を記した「愛好禄1」での内容との接続も薄い。それゆえ、まだ改変の余地がある言及と言わざるを得ない。今後の課題としよう。
ところで、本稿では具体的な応用例をそれ程紹介していない。あくまで自然とエーテルの説明が中心であるから。それゆえ、こうした説明がどのような威力を発揮するのかそれ程明快ではないように思える事もしばしばである。しかし、実際には幾つかの応用がある。例えば、エーテル手繰る事(魔法)とそれ以外の現象の区別は「その流量によって法則を変えるかどうか」とされる事がある。これは、世界の何処か……「隣の部屋から音が聞こえるな」「乱闘か」「確かめてみよう」根拠と判断と結論の末の行動によって確かめられ、その末に「おお、音の原因は乱闘だったな」と発話された際この「原因であるところのもの」と「結果であるところのもの」の関係を「この宿では、私が隣の部屋から音を聞いたら、その原因は乱闘である」と定式化したものの事を法則と呼ぶと規定した際、これを変えるものが魔法であるという意味である。本稿の結論はこの魔法を、「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来するという実践者にとっての時間的枠組みのなかに位置付ける事が可能である。なかなか応用的でもあるのだ。
ところで、本稿では具体的な応用例をそれ程紹介していない。あくまで自然とエーテルの説明が中心であるから。それゆえ、こうした説明がどのような威力を発揮するのかそれ程明快ではないように思える事もしばしばである。しかし、実際には幾つかの応用がある。例えば、エーテル手繰る事(魔法)とそれ以外の現象の区別は「その流量によって法則を変えるかどうか」とされる事がある。これは、世界の何処か……「隣の部屋から音が聞こえるな」「乱闘か」「確かめてみよう」根拠と判断と結論の末の行動によって確かめられ、その末に「おお、音の原因は乱闘だったな」と発話された際この「原因であるところのもの」と「結果であるところのもの」の関係を「この宿では、私が隣の部屋から音を聞いたら、その原因は乱闘である」と定式化したものの事を法則と呼ぶと規定した際、これを変えるものが魔法であるという意味である。本稿の結論はこの魔法を、「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来するという実践者にとっての時間的枠組みのなかに位置付ける事が可能である。なかなか応用的でもあるのだ。
2020年09月18日 01時13分24秒
まとめましょう。「飲むためのもの」である水や「暖をとるためのもの」である火などの自然と「箱庭を作るためのもの」であるエーテルの澱や「力を加えられて自然になるためのもの」である箱庭などひっくるめて「自然を作るためのもの」であるエーテルの類はその意味が違います。この概念をよく理解して実践する者にとって。しかし、「飲むための水を飲む者」や「暖を取るための火で暖を取る者」などその意味を実践する者がすべて息絶えて飲むことや暖を取ることが不可能になるなど正しく実践不能に至ったならばその意味は「無」となります。何故なら、けして飲む者のいない水や暖を取る者のいない火は「飲むための水」や「暖を取るための火」としての役割を果たし得ないからです。それゆえ、実践不能な状況では自然とエーテルは「無」となる事によって等しくなるのです。しかし、実践者である私が「無」と出会う事はありません。何故なら、そのときには息絶えているからです。
それゆえ、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来する事として同一である。実践者にとって。そして、こうして神話を使用しながら自然とエーテルの関係を理の通ったものとする合理化の試みは推論と思考の過程のなかで観察される自然とエーテルの因果的な物事を秩序だって内容を形成する役割を為している。それゆえ、観察できないのではあるまいかなど必要以上に思い悩む必要はない。現在において観察されずともそれでも尚意味があるし、実験データで出ればそれをその因果的な内容として迎え入ればよいだけなのである。それは人々の日常の経験が裏付けているのだから。
それゆえ、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来する事として同一である。実践者にとって。そして、こうして神話を使用しながら自然とエーテルの関係を理の通ったものとする合理化の試みは推論と思考の過程のなかで観察される自然とエーテルの因果的な物事を秩序だって内容を形成する役割を為している。それゆえ、観察できないのではあるまいかなど必要以上に思い悩む必要はない。現在において観察されずともそれでも尚意味があるし、実験データで出ればそれをその因果的な内容として迎え入ればよいだけなのである。それは人々の日常の経験が裏付けているのだから。
2020年09月18日 01時13分50秒
第二に、「神話の出来事を如何に確証すべきかに懐疑があること」に対してはその懐疑は懐疑者の考える確証が過程と結果を理の通ったものとする原因の特定のみであることに依っていると応答できる。何故なら、これを「なぜ革袋のなかのワインは減ったのか」と問われた際に「減っている、私が飲んだのだろうか」と判断して「飲みすぎはやめるか」などと結論して状況を理の通ったものとする理由の関係だとすればこの懐疑は生じないからである。例えば、「なぜエーテルは自然になったのか」に対して「神話にそう記述されているな、創造者がそうなさったのだろうか」と判断する事が可能である。それゆえ、彼の懐疑は原因の特定をあくまで「状況を理の通ったものとするものの一つ」とする事によって解消される。
なるほど「創造者がそうなさったこと」は観察されていない。しかし、状況を理の通ったものとするものとしての価値が失われたわけではない。それゆえ、私が「なぜエーテルは自然になったのか」に対してこの応答をすることは有意味なのである。しかし、これはけっして観察され得ない妄想ではないか。
それは偽である。何故なら、その因果的な内容が観察によって決定される事に否はないからである。例えば、「減っている、私が飲んだのだろうか」との判断はワインが喉を伝って胃のなかに入るなどの因果的な内容とする。それゆえ、それはけっして妄想ではない。むしろ思考・推論において因果的内容を秩序立て、豊かとする役割を為している。かくして、私は確信をもって「なぜエーテルは自然に成ったのか」に対して「神話に記述されているな、創造者がそうなさったのだろうか」と応答する。
なるほど「創造者がそうなさったこと」は観察されていない。しかし、状況を理の通ったものとするものとしての価値が失われたわけではない。それゆえ、私が「なぜエーテルは自然になったのか」に対してこの応答をすることは有意味なのである。しかし、これはけっして観察され得ない妄想ではないか。
それは偽である。何故なら、その因果的な内容が観察によって決定される事に否はないからである。例えば、「減っている、私が飲んだのだろうか」との判断はワインが喉を伝って胃のなかに入るなどの因果的な内容とする。それゆえ、それはけっして妄想ではない。むしろ思考・推論において因果的内容を秩序立て、豊かとする役割を為している。かくして、私は確信をもって「なぜエーテルは自然に成ったのか」に対して「神話に記述されているな、創造者がそうなさったのだろうか」と応答する。
2020年09月18日 01時14分15秒
以上より、「自然とエーテルが同一であること」は自然とエーテルが根源的に同一であることを意味している。たしかに「何かのためのもの」としては異なるが、しかし「無」として同一なのである。実践者の本質ゆえに。しかし、その同一性は「水」が「飲むためのもの」でありながら「水浴びをするためのもの」であるなど多様な側面が同一物に在る事と如何に異なるのであろうか。
この両者は異なる。何故なら、実践主体にとって「無」が到達不能な一方で同一物の多様な側面は到達可能だからである。例えば、自然とエーテルに到来する「無」は「水」を「飲むためのもの」や「水浴びをするためのもの」などの実践を可能としている実践者がそれらの実践が本質的に不可能となることで成立する。しかし、現実的にはある主体の肉が滅されることによってでさえそれは不成立である。何故なら、けして「他者の喉を潤すためのもの」でない「水」、は端的に偽だからである。それゆえ、「水」の各々の側面は他者との実践のなかにあるのである。けして個人の生だけのなかにあるのではない。すなわち、両者は意味が異なる。水の各々の側面は他者からも知られる。しかし、「無」は他者からでは境界の先だと眺める他ないのである。
かくして、「自然とエーテルが同一であること」の意味はそれらが「無」である事となる。根本的に。何故なら、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来することのなかで規定されるからである。不能になり得る実践者にとって。
この両者は異なる。何故なら、実践主体にとって「無」が到達不能な一方で同一物の多様な側面は到達可能だからである。例えば、自然とエーテルに到来する「無」は「水」を「飲むためのもの」や「水浴びをするためのもの」などの実践を可能としている実践者がそれらの実践が本質的に不可能となることで成立する。しかし、現実的にはある主体の肉が滅されることによってでさえそれは不成立である。何故なら、けして「他者の喉を潤すためのもの」でない「水」、は端的に偽だからである。それゆえ、「水」の各々の側面は他者との実践のなかにあるのである。けして個人の生だけのなかにあるのではない。すなわち、両者は意味が異なる。水の各々の側面は他者からも知られる。しかし、「無」は他者からでは境界の先だと眺める他ないのである。
かくして、「自然とエーテルが同一であること」の意味はそれらが「無」である事となる。根本的に。何故なら、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来することのなかで規定されるからである。不能になり得る実践者にとって。
2020年09月18日 01時17分28秒
第一に、「自然とエーテルが同一であること」は「自然とエーテルが同根源であること」を意味している。何故なら、天や地などの自然は創造者*1によって箱庭から形成されたからである(エーテルの澱から創造された箱庭に力を与える事によって)。それゆえ、自然はエーテルの澱が箱庭になったものを材料に制作された創造者の制作物としてエーテルと異なっている。材料と同一の何かたるならば、そもそも「なった*2」と呼ばれないのであるから。
しかし、自然とエーテルは「無」として等しい。何故なら、各々の概念はこれを理解する実践者の不能化にあっては「無」となるからである。例えば、「飲むためのもの」である水や「その澱によって箱庭を創造するためのもの」であるエーテルなどの概念は人間や創造者を含む実践主体の行為と不可分である。その概念使用の実践を「自然の水」や「エーテル」に対してすることがあり得ないならばそれは実践され得ない何かとして空虚だから。それゆえ、自然とエーテルは実践過程で規定されるところのものである。概念として。ただし、実践者は不能者に成り得る。かくして、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来せんとするものなのである。したがって、それらは「無」なのである。根源的に。
*1この場合は創世記『序章』に登場する小さき神々のこと。我々の伝統ではこう記述する
*2霊智(エーテル)は天となり、地となり、光となり、闇となり、火となり、水となりて、最後に生命となった――創世記『序章』より
しかし、自然とエーテルは「無」として等しい。何故なら、各々の概念はこれを理解する実践者の不能化にあっては「無」となるからである。例えば、「飲むためのもの」である水や「その澱によって箱庭を創造するためのもの」であるエーテルなどの概念は人間や創造者を含む実践主体の行為と不可分である。その概念使用の実践を「自然の水」や「エーテル」に対してすることがあり得ないならばそれは実践され得ない何かとして空虚だから。それゆえ、自然とエーテルは実践過程で規定されるところのものである。概念として。ただし、実践者は不能者に成り得る。かくして、自然とエーテルは既に「無になるためのもの」として在りつつある現に「無」として成ることが到来せんとするものなのである。したがって、それらは「無」なのである。根源的に。
*1この場合は創世記『序章』に登場する小さき神々のこと。我々の伝統ではこう記述する
*2霊智(エーテル)は天となり、地となり、光となり、闇となり、火となり、水となりて、最後に生命となった――創世記『序章』より