雑談しながら設定を語る場所2
何処かにある静かな街角。生活音がしないので街角なのか疑られている、私に。
全ての物の本質はエーテルであるか否や
全ての物はエーテルである事を欠くことができないのかどうか。例えば、椅子である限りエーテルである事は欠くことができないとする側に立つ者をエーテル主義、一方で椅子にとってエーテルである事は偶有であるとの立場は非エーテル主義と分類できよう。ところで、さしあたって、たいていわれわれが出会う机を素材によって分ける事はエーテルの用語を使用せずに遂行される。一方、各々の素材がエーテルで構成されている事を受け入れた場合、その全一性ゆえに、われわれは区別を失うかあるいはそのまま区別し続ける事になる。それゆえ、エーテル主義は一元論的に受け取れない。さて、彼らは何者なのか。
ヒトが何かを意識する事は事物と身体を媒体にしているけれども創造者は何を媒体に世界を意識するのだろうか
この問題が私を誘惑する
呪いって何?
行為主体の行為を変化させるものじゃないか?たぶん
授恵者は正体不明の呪いによって50レスを超えると、レスが非表示になったが遂に解呪された。
全ての物の本質はエーテルであるか否や
全ての物はエーテルである事を欠くことができないのかどうか。例えば、椅子である限りエーテルである事は欠くことができないとする側に立つ者をエーテル主義、一方で椅子にとってエーテルである事は偶有であるとの立場は非エーテル主義と分類できよう。ところで、さしあたって、たいていわれわれが出会う机を素材によって分ける事はエーテルの用語を使用せずに遂行される。一方、各々の素材がエーテルで構成されている事を受け入れた場合、その全一性ゆえに、われわれは区別を失うかあるいはそのまま区別し続ける事になる。それゆえ、エーテル主義は一元論的に受け取れない。さて、彼らは何者なのか。
ヒトが何かを意識する事は事物と身体を媒体にしているけれども創造者は何を媒体に世界を意識するのだろうか
この問題が私を誘惑する
呪いって何?
行為主体の行為を変化させるものじゃないか?たぶん
授恵者は正体不明の呪いによって50レスを超えると、レスが非表示になったが遂に解呪された。
2020年10月23日 23時37分10秒 |chat54
2020年10月24日 11時31分30秒
私は、「〜しなければならない」「〜してはいけない」という呪いによる命令は呪われている者にそのような強い「義務感」を与えるものだと解していましたね。
欲望の対象を変更する魔術はまた別のものとなりますが、なるほど恐怖心を植え付ける呪術というものもありそうです。
応答によって得られる答えの真偽ですけど、しかし真のインセンティブを行為者を含めて誰も認識できていないという場合もありそうです。1つの答えが得られたとして、他に隠されているインセンティブがないとも言い切れないのでは……と考えてしまいますね。1つの行為に対して複数のインセンティブが存在するということはありえないのでしょうか?
>エーファさん
創造者についても、創造とこの世界を媒介するものについても興味はありますが、私には大きすぎる問題ですね……。創造者とは一体どのような存在なのか、うむむ……。
>アルフレッドさん
はい! まだ知見も浅い若輩者ですが、よろしくお願いします!!
そうですね、創世記の記述は示唆に満ちていますが、その言説を論の根拠とすることはできません。けれど目の前の現象の機序をひとつひとつ解き明かしていき、理論化していけばいつかは創世記の言説が真であることが論理的にも証明されるかもしないと私は密かに期待していています!
還元論については、理論はなるべく単純であった方が良いと私は考えるんですよね。しかし、それでは豊かな現実の泉を汲みそこねる危険も当然あります。それはつまるところ、次の階層に上がれば打ち捨てられる梯子のようなもので、必要がなくなれば破棄されるものだという事を常に心がけます!
欲望の対象を変更する魔術はまた別のものとなりますが、なるほど恐怖心を植え付ける呪術というものもありそうです。
応答によって得られる答えの真偽ですけど、しかし真のインセンティブを行為者を含めて誰も認識できていないという場合もありそうです。1つの答えが得られたとして、他に隠されているインセンティブがないとも言い切れないのでは……と考えてしまいますね。1つの行為に対して複数のインセンティブが存在するということはありえないのでしょうか?
>エーファさん
創造者についても、創造とこの世界を媒介するものについても興味はありますが、私には大きすぎる問題ですね……。創造者とは一体どのような存在なのか、うむむ……。
>アルフレッドさん
はい! まだ知見も浅い若輩者ですが、よろしくお願いします!!
そうですね、創世記の記述は示唆に満ちていますが、その言説を論の根拠とすることはできません。けれど目の前の現象の機序をひとつひとつ解き明かしていき、理論化していけばいつかは創世記の言説が真であることが論理的にも証明されるかもしないと私は密かに期待していています!
還元論については、理論はなるべく単純であった方が良いと私は考えるんですよね。しかし、それでは豊かな現実の泉を汲みそこねる危険も当然あります。それはつまるところ、次の階層に上がれば打ち捨てられる梯子のようなもので、必要がなくなれば破棄されるものだという事を常に心がけます!
2020年10月24日 12時12分59秒
インセンティブは基本的にいい意味で「行動の対価に報酬を与える」行為として認知されることが多いですが、結局のところ外部刺激である限り「私」である内面がどう対価を捉え行動するかはそれこそ「私」のみにしか知りえない事実であり、応答の結果分かる部分です。意味と因果の分断は、教授が提言した分離可能、というより、そもそも応答では相関上意味的な側面しか観測できず、因果関係は推測や憶測によって導き出される結果です。同義として見ることは軽率であるという意味で分離しました
インセンティブは1「対象が外部刺激を受ける」2「対象が意欲を引き出す」3「対象が成果(結果)を出す」4「結果に応じた報酬を得る」の4つで構成されている一定の行動と結果の関係性のことです。この中で報酬が1~3のどこにもないのは、報酬を認知するのは対象の内部のみであり応答させる以外ではその報酬がなんであるかを確定させる要因は「私」以外にないためです。あるいは契約や約定により事前に通達を受けている場合はそこから報酬を割り出すことが可能になりますが、結果から算出する場合は報酬がなんであるかを確定させるには応答以外にありません
つまり教授の提言に意義はありません。応答の中でしか因果関係は分かりえません
カースワーズ殿の言う通り、インセンティブは複数介在することもあり得ます
1「私はいたずらがしたい」2「だが体罰を受けると通達されている」3「だから私はいたずらをしない」
これもインセンティブです。さらに1のインセンティブとして「誰かからいたずらをされるように命令された」ようなことも考えられるのです
インセンティブは重複します
インセンティブは1「対象が外部刺激を受ける」2「対象が意欲を引き出す」3「対象が成果(結果)を出す」4「結果に応じた報酬を得る」の4つで構成されている一定の行動と結果の関係性のことです。この中で報酬が1~3のどこにもないのは、報酬を認知するのは対象の内部のみであり応答させる以外ではその報酬がなんであるかを確定させる要因は「私」以外にないためです。あるいは契約や約定により事前に通達を受けている場合はそこから報酬を割り出すことが可能になりますが、結果から算出する場合は報酬がなんであるかを確定させるには応答以外にありません
つまり教授の提言に意義はありません。応答の中でしか因果関係は分かりえません
カースワーズ殿の言う通り、インセンティブは複数介在することもあり得ます
1「私はいたずらがしたい」2「だが体罰を受けると通達されている」3「だから私はいたずらをしない」
これもインセンティブです。さらに1のインセンティブとして「誰かからいたずらをされるように命令された」ようなことも考えられるのです
インセンティブは重複します
2020年10月24日 16時02分19秒
私が誰かを殺す以前、何らかの刺激が働いて私が誰かを殺した状況下で友人が私に「貴方は何故彼を殺したのか?」といった質問をしたら私が「彼は私の兄を殺したからだ」と応答した際、この刺激を「彼は私の兄を殺したからだ」と認識し得ない事とその質問に対して「彼が私の兄を殺したからかな、たぶん」と応答するなど現実に認識していない事は違います。一方は元来可能性がなく、もう一方はたんにいま不明なだけです。それゆえ、両者の刺激は可能性の違いによって現実的な在り方に違いが出ます。
さて第一に、真のインセンティブを誰も認識できていない場合は調査か分析の不足で現在不明なだけです。なぜなら、真のインセンティブを誰もわかり得ない事と誰も認識していない事は意味がまったく違うからです。それゆえ、その事は刺激が復讐の為などその潜在的な報酬可能性に基礎付けられている事の反証にはなりません。第二に、私が「彼が私の兄を殺した事」だけではなく「イライラしていたこと」等複数のインセンティブがある事は潜在的な報酬可能性にそれが基礎付けられている事の反証にはなりません。なぜなら、それは現実的に認識していないだけで何か新しいものがあれば上書きするとか付け加えればいいだけですし、認識し得ない事ではありませんから。それゆえ、これも反証にはなりません。第三に、報酬や因果が現に私自身や応答でしかわからない事はインセンティブが外部刺激でしかない事を含意しません。なぜなら、我々の経験において現に復讐の為など報酬である事が成立しているならばそれは可能でなければならないからです。それゆえ、外部刺激が報酬によって基礎付けられる事を反証不能です。
さて第一に、真のインセンティブを誰も認識できていない場合は調査か分析の不足で現在不明なだけです。なぜなら、真のインセンティブを誰もわかり得ない事と誰も認識していない事は意味がまったく違うからです。それゆえ、その事は刺激が復讐の為などその潜在的な報酬可能性に基礎付けられている事の反証にはなりません。第二に、私が「彼が私の兄を殺した事」だけではなく「イライラしていたこと」等複数のインセンティブがある事は潜在的な報酬可能性にそれが基礎付けられている事の反証にはなりません。なぜなら、それは現実的に認識していないだけで何か新しいものがあれば上書きするとか付け加えればいいだけですし、認識し得ない事ではありませんから。それゆえ、これも反証にはなりません。第三に、報酬や因果が現に私自身や応答でしかわからない事はインセンティブが外部刺激でしかない事を含意しません。なぜなら、我々の経験において現に復讐の為など報酬である事が成立しているならばそれは可能でなければならないからです。それゆえ、外部刺激が報酬によって基礎付けられる事を反証不能です。
2020年10月24日 16時02分38秒
ところで、カースワーズ卿に言った私の興味(創造者について)と今回のインセンティブに関する話はパラレルです。なぜなら、物事の因果を考えるときには二通りのやり方があるからです。1つ目は、刺激が私を触発して動かすや物体が坂を転げ落ちるといった作用の因果です。ギ卿のインセンティブ・プロジェクトは此方に属するでしょうね、現実的に存在する刺激があり得る可能性から現実的に存在する物を引き出す事を主張していますから。
2つ目は、そうした作用連関を基礎付ける存在論です。私が思うに、インセンティブ・プロジェクトは無限に遡及可能なのかどうかに関しては応答していません。なぜなら、可能性としては私が触発されて行為するならばどんどん遡っていってついに終わりを発見できないかあるいは創造者の触発に出会うかについては現実的に観測できませんからね。また、刺激が私への触発によって何を行為させるのかについても語りません。なぜなら、応答のなかでしか報酬も因果も分かり得ない事と「報酬と因果が在る」ことは意味が違うからです。実際復讐の場面では私が何と思おうとも私が何らかのインセンティブで殺してしまった事に違いないのです。それゆえ、因果は私たちの応答から経験的には独立です。となると、同様の事が報酬に関しても言えそうではありませんか?報酬は私達の応答から経験的に独立なのです。すなわち我々の応答とは、それを発見する営為だという事になりはしませんか?など、こうした現実的な因果作用と可能的な領野の全般を基礎付けに応答する説明の形式として存在の論が要請されるわけです。
つまり、私は創造者を基礎に置いた存在論に誘惑されているのです。
2つ目は、そうした作用連関を基礎付ける存在論です。私が思うに、インセンティブ・プロジェクトは無限に遡及可能なのかどうかに関しては応答していません。なぜなら、可能性としては私が触発されて行為するならばどんどん遡っていってついに終わりを発見できないかあるいは創造者の触発に出会うかについては現実的に観測できませんからね。また、刺激が私への触発によって何を行為させるのかについても語りません。なぜなら、応答のなかでしか報酬も因果も分かり得ない事と「報酬と因果が在る」ことは意味が違うからです。実際復讐の場面では私が何と思おうとも私が何らかのインセンティブで殺してしまった事に違いないのです。それゆえ、因果は私たちの応答から経験的には独立です。となると、同様の事が報酬に関しても言えそうではありませんか?報酬は私達の応答から経験的に独立なのです。すなわち我々の応答とは、それを発見する営為だという事になりはしませんか?など、こうした現実的な因果作用と可能的な領野の全般を基礎付けに応答する説明の形式として存在の論が要請されるわけです。
つまり、私は創造者を基礎に置いた存在論に誘惑されているのです。
2020年10月24日 16時23分46秒
なので、カースワーズ卿の創造者とはどういった存在なのかの疑問に対しては作用反作用の一覧のような存在者ではなく将にそれらを基礎付ける存在なのだという事を暫定的な応答としておきます。また、おそらく呪術に対してもその存在者の論と存在論で分岐でき……還元論に関しても同様でしょう。観測に依存しない超越論的な論証の強力さとでもいいましょうか。
2020年10月28日 21時04分26秒
存在するとはどういった事であるか……ですか。初心に戻って日常の用語から出発してみましょうか。朝方に私が道を歩いていると水溜りが在り、その水は透明で在った……という場合を想像してみれば存在とは第一に2つの意味があります。時空上に何かが在る事と、その何かがどういった物であるかの性質です。それゆえ、呪術の存在と言った場合には呪術が時空上に在る場合と呪術がどういった物であるかの何れかを意味する事となるでしょう。
ただ、水溜りが在る事はその透明さに潜在します。なぜなら、私が路上に水溜りが在る事を透明さによって正当化する事は透明さが潜在的に水溜りの透明さで有り得なければなりませんからね。それゆえ、時空上に何かが在る事は性質に潜在するのです。同様に、呪術の性質は時空上に呪術が在る事に潜在するはずです。一方呪術の性質を掻き集めてもそれは常に他の物であり得るでしょうね。なぜなら、透明さや液体である事などどれ程挙げていっても水溜りでない何かであり得ますから。
では、時空上に呪術が在るとは何を意味しているのでしょうか。私見では、それは呪術が何になり得るのかといった実現可能性です。なぜなら、時空とは私が一瞥したあの水溜りを水浴びの為の物と見る事はその透明さなどの性質を分析する限りで可能だとしても実際には実現可能ではなかったなどただ一度の時間的推移を含意するからです。それゆえ、呪術の存在論は我々がただ一度の時間的推移のなかで出会う実現可能な呪術たちを可能とする最も自明な条件を探り当てようとする営為です。
私がイメージしているものはこんな感じです。だからカースワーズ卿は既に存在論していますね
ただ、水溜りが在る事はその透明さに潜在します。なぜなら、私が路上に水溜りが在る事を透明さによって正当化する事は透明さが潜在的に水溜りの透明さで有り得なければなりませんからね。それゆえ、時空上に何かが在る事は性質に潜在するのです。同様に、呪術の性質は時空上に呪術が在る事に潜在するはずです。一方呪術の性質を掻き集めてもそれは常に他の物であり得るでしょうね。なぜなら、透明さや液体である事などどれ程挙げていっても水溜りでない何かであり得ますから。
では、時空上に呪術が在るとは何を意味しているのでしょうか。私見では、それは呪術が何になり得るのかといった実現可能性です。なぜなら、時空とは私が一瞥したあの水溜りを水浴びの為の物と見る事はその透明さなどの性質を分析する限りで可能だとしても実際には実現可能ではなかったなどただ一度の時間的推移を含意するからです。それゆえ、呪術の存在論は我々がただ一度の時間的推移のなかで出会う実現可能な呪術たちを可能とする最も自明な条件を探り当てようとする営為です。
私がイメージしているものはこんな感じです。だからカースワーズ卿は既に存在論していますね
2020年10月31日 14時10分29秒
これが存在論……なのですね!
なるほど、実現可能性と性質ですか。たしかに、これらを欠いているものは存在しているとは言えないかもしれません。まったく性質をもたない、つまり何物でもない存在というものは想像できません……。
なるほど、実現可能性と性質ですか。たしかに、これらを欠いているものは存在しているとは言えないかもしれません。まったく性質をもたない、つまり何物でもない存在というものは想像できません……。
2020年11月01日 06時21分18秒
ええ、カースワーズ卿。一応そうなります。ただ、私がそれを想像できない事はそれが存在しない事を帰結しません。なぜなら、私が朝方に「透明な水溜りだ」と捉える以前の何らかは何物でもないでしょうから。というのも、何物かであったならばそれはもう既に私にとって何物かとして捉えられてしまっているからです。それゆえ、そのうち何物かにはなるものの未だ何物でもない存在みたいなものはけっこう在りだと思います。
ギ卿の言う「あの後の反証」とはどれですか?ただ、我々の呪いに関する論点を整理しておくのは有益でしょうね。そもそも、問題となったのは呪いの条件でした。卿はそれを「私が友人に手紙を渡したところ、友人は返却せねばならないと感じて実際そうする」など誰かが誰かに何かを行為させる原因としてのインセンティブと呼んだのでした。卿の場合は特に意欲を強制的に引き出す外部刺激が呪いだとして目的はその報酬に置きましたね。おそらく、外部刺激によって報酬が生じて問答のなかでこれが判明すると考えているのではありませんか。一方、私は呪いの典型例を目的と手段の連関に見ます。それゆえ、私が誰かに何かを行為させる原因としてのインセンティブは目的の事になります。ヒトは目的の為に行為するのですから。つまり、私は報酬によって外部刺激が生じこれが問答のなかで判明するとします。したがって、此処での争点は呪いである処の行為を誘導する原因(インセンティブ)が外部刺激なのか目的なのか、です。それゆえ、卿の言う反証が私のものなら「原因が目的である事」を擁護するものとなっているはずです。
これは感想ですが、ギ卿が考える呪いは大分客観的ですね。
ギ卿の言う「あの後の反証」とはどれですか?ただ、我々の呪いに関する論点を整理しておくのは有益でしょうね。そもそも、問題となったのは呪いの条件でした。卿はそれを「私が友人に手紙を渡したところ、友人は返却せねばならないと感じて実際そうする」など誰かが誰かに何かを行為させる原因としてのインセンティブと呼んだのでした。卿の場合は特に意欲を強制的に引き出す外部刺激が呪いだとして目的はその報酬に置きましたね。おそらく、外部刺激によって報酬が生じて問答のなかでこれが判明すると考えているのではありませんか。一方、私は呪いの典型例を目的と手段の連関に見ます。それゆえ、私が誰かに何かを行為させる原因としてのインセンティブは目的の事になります。ヒトは目的の為に行為するのですから。つまり、私は報酬によって外部刺激が生じこれが問答のなかで判明するとします。したがって、此処での争点は呪いである処の行為を誘導する原因(インセンティブ)が外部刺激なのか目的なのか、です。それゆえ、卿の言う反証が私のものなら「原因が目的である事」を擁護するものとなっているはずです。
これは感想ですが、ギ卿が考える呪いは大分客観的ですね。
2020年11月02日 12時10分06秒
私としては何を論じていたのか忘れていたのでいきなりなんの話をされたのか分からなかっただけですな
まぁ、私からしてみれば呪いとは人が人である限り必ず付き纏う概念だと思っております故。その概念も外部存在がいなければ成立しないと考えています。それは世界でも社会でもいいですが、呪いは人と外部存在との相対的関係性の一種だと考えております。まぁ、無という状態の空間が存在するなら、人単体でも成立しそうですが
まぁ、私からしてみれば呪いとは人が人である限り必ず付き纏う概念だと思っております故。その概念も外部存在がいなければ成立しないと考えています。それは世界でも社会でもいいですが、呪いは人と外部存在との相対的関係性の一種だと考えております。まぁ、無という状態の空間が存在するなら、人単体でも成立しそうですが
2020年11月03日 13時00分01秒
呪いとは生命が発する干渉波のようなものだと考えていますわ。
受恵者でしたら直接エーテルを震わせれば済みますけれど、一般人のもつ強い感情も
同じような干渉波を放つようですわね。
受恵者でしたら直接エーテルを震わせれば済みますけれど、一般人のもつ強い感情も
同じような干渉波を放つようですわね。
2020年11月03日 19時14分54秒
そうですか、ギ卿とバンビ様は勤勉ですね。例えば、1220年のある日、宿にいる私がふと騎士団の元同僚に生存を伝える為に手紙を出したくなりました。そこで私はこの手紙を書く為の紙とペンを取り出し、「我生存セリ」をガリガリと紙に書いて届けられるべき手紙として配達人に渡します。騎士団の元同僚に生存を伝える者として
さて、首尾よく手紙が届けば彼は「おお、生きていたのか」と感じ、「そうだ、私も返事を書かねばならないな」と考え返答を書く為に紙とペンを取り出し、「祝セリ」と書いて配達人に渡す訳です。私……つまりはこのエーファが生存している事の喜びを伝える者として
そして、上手く私に手紙が届けば……そう私も返答をせねばならないのです。かくして手紙は授受され、私と彼を文通相手にしてしまいます。
ところで、この状況変化の全体を観察している卓越した魔法使いがいて、その人はこれらの不変な法則を知る為にこの変化を正確に紙へと記録しました。私すらも朧気な手紙の筆記日時や呼吸を何度したかなど手紙の授受の期間において私と彼の間で生じた全てを時間順に並べて出来事として、です。
そして、その人は気が付きます。その年表において、配達人の必要性等の状況変化に対して不変な項がある事に、です。これをかき集めた処、個別の条件を入力すればそれに応じた結果が出力される対応関係の簡素な式が発見されます。この式の形態は海の波を同様の仕方で分析した際にも見たもので、もしや「海の波」と「手紙授受」は同じ式で表せるのではあるまいか……と考え得るのです。卿等はこの卓越した観察と分析を呪いにおいて実現する者になりたいのですね。
さて、首尾よく手紙が届けば彼は「おお、生きていたのか」と感じ、「そうだ、私も返事を書かねばならないな」と考え返答を書く為に紙とペンを取り出し、「祝セリ」と書いて配達人に渡す訳です。私……つまりはこのエーファが生存している事の喜びを伝える者として
そして、上手く私に手紙が届けば……そう私も返答をせねばならないのです。かくして手紙は授受され、私と彼を文通相手にしてしまいます。
ところで、この状況変化の全体を観察している卓越した魔法使いがいて、その人はこれらの不変な法則を知る為にこの変化を正確に紙へと記録しました。私すらも朧気な手紙の筆記日時や呼吸を何度したかなど手紙の授受の期間において私と彼の間で生じた全てを時間順に並べて出来事として、です。
そして、その人は気が付きます。その年表において、配達人の必要性等の状況変化に対して不変な項がある事に、です。これをかき集めた処、個別の条件を入力すればそれに応じた結果が出力される対応関係の簡素な式が発見されます。この式の形態は海の波を同様の仕方で分析した際にも見たもので、もしや「海の波」と「手紙授受」は同じ式で表せるのではあるまいか……と考え得るのです。卿等はこの卓越した観察と分析を呪いにおいて実現する者になりたいのですね。
2020年11月05日 02時37分27秒
なるほど、未だ何物でもない存在、ですか。たしかにそのようなものも在るかもしれませんね。純粋存在、とでも呼びましょうか……しかし、そのようなものが在ったとしても性質を持たないのであれば私たちが認識することはできないでしょうね。あるいは、私たちより上位の存在なら可能なのでしょうか……例えば、神様など。
干渉波かどうかは分かりませんが、受惠者でなくとも感情が物質やエーテルに作用することもあるというのはその通りだと思います!
干渉波かどうかは分かりませんが、受惠者でなくとも感情が物質やエーテルに作用することもあるというのはその通りだと思います!
2020年11月07日 04時50分49秒
かもしれません、カースワーズ卿。それが何物かだと分別する事を認識だというならば認識できません。むしろ未だ何物でもない純なる存在を、我々が何物かだと認識し得るならば誤りという事になりましょう。しかし、時空において我々が何物かだ感じる方式を取る限りでそれは存在します。我々は未だ何物だとも捉えられていない物を、時間推移のなかで何物かだと発見するのですからね。ただ……私はこれを認識したといってもいい気がします。我々は、それが何物かであるか分別できないと自らの限界を察する事によって却ってこれを知るのです。学ばれた無知、ともいいましょうかね。それゆえ、私は有限なる者たる我々であるがゆえにこれを知るのです。一方上位の存在は、こうしたものを知るかどうか……明言しないでおきましょうか。
ところで、皆様は呪いに関してどういった事実を知りたいのでしょうか。「山羊の乳を飲めば身体に激変が起きる者が、新鮮でない山羊の乳を飲んだ事で死亡した」とする際に「新鮮でない山羊の乳を食べた事が彼の死を引き起こした」と応答する種類の事実で、いわば呪いに関する真なる言明でしょうか。それとも、これを超えて「結果たる彼の死と原因たる新鮮でない山羊を食べた事の結びつきを生み出したのは何か?」と問う事によって獲得される「身体への激変」か「食中毒」などの種類の事実で、いわば呪いについての因果メカニズムでしょうか。はたまた、この因果メカニズムの構成要素の条件でしょうか。「身体への激変」や「食中毒」は医学的ですが……「彼の意志」とその構成要素を社会的なものにする事も可能でしょうからね、この全体に対する制約を求めるのです。
ところで、皆様は呪いに関してどういった事実を知りたいのでしょうか。「山羊の乳を飲めば身体に激変が起きる者が、新鮮でない山羊の乳を飲んだ事で死亡した」とする際に「新鮮でない山羊の乳を食べた事が彼の死を引き起こした」と応答する種類の事実で、いわば呪いに関する真なる言明でしょうか。それとも、これを超えて「結果たる彼の死と原因たる新鮮でない山羊を食べた事の結びつきを生み出したのは何か?」と問う事によって獲得される「身体への激変」か「食中毒」などの種類の事実で、いわば呪いについての因果メカニズムでしょうか。はたまた、この因果メカニズムの構成要素の条件でしょうか。「身体への激変」や「食中毒」は医学的ですが……「彼の意志」とその構成要素を社会的なものにする事も可能でしょうからね、この全体に対する制約を求めるのです。
2020年11月07日 13時03分54秒
なるほど、通常の認識とは異なるかもしれませんが、確かにそのような「発見」はあるように思います!
私が今気になっていることは沢山ありますが……そうですね。
例えば、ある人が弓矢を的に放つとします。本来ではあれば的中する矢が、別の誰かが失敗を願うことで外れたとします。
これもまた一種の呪いと言えますが、ではこの時、「願い」がどのように矢という「物質」に作用したのか? ということですね。
私が今気になっていることは沢山ありますが……そうですね。
例えば、ある人が弓矢を的に放つとします。本来ではあれば的中する矢が、別の誰かが失敗を願うことで外れたとします。
これもまた一種の呪いと言えますが、ではこの時、「願い」がどのように矢という「物質」に作用したのか? ということですね。
2020年11月12日 05時06分04秒
認めますか、カースワーズ卿。いえ、じつはこうして「時空において〈いま〉有限者が、何が在るのかを分別する事は未だ分別されていない純なる存在を分別する事によって成立する。なぜなら、〈いま〉分別する有限者がその以前に分別する事はできないからである。それゆえ、〈いま〉を過ごす我々が分別する事は分別以前の純粋な存在に対峙しつつ分別することを含意している」などと論証していく事が私の主な研究手段なのです。
因果メカニズムですか。その問題は面白いですね。なぜなら、屋外で矢を射る際に的を外した私が「何故か?」と誰かに尋ねられて「挨拶のゆえに」と応答する意図的な記述もあれば「指が痺れて」などの非意図的な記述も有りますし、「今回私が的を外したのは、私が挨拶すると欲求したゆえに」と個別的行為を個別的欲求ゆえに為したと内容(「挨拶する」)よりも媒体(~と欲求した」)に注目して記述の対象を個別的に記述する仕方もあるなどその記述多様性の縮図だからです。しかし、同じ屋外で的を外した行為を対象としても記述の水準で成立している「的を外すことは挨拶になる」一般的論法と記述された物の水準で成立している「的を外すことは挨拶になり、挨拶したい」個別的推論では違います。というのも、記述において昨日と同じ理由から今日同じ行為をする事はあり得ますからね。それゆえ、その射程から両者は分けられます。そこからすれば、願いが物質に如何に作用したか?の問いは後者との関わりが深そうですね。物質を媒体としたその内容が願いでしょうし、術者が彼に何らかの願いを告げて個別的推論に乱れを生じさせ、矢を外させる事が呪いの仕組みかもしれません。
因果メカニズムですか。その問題は面白いですね。なぜなら、屋外で矢を射る際に的を外した私が「何故か?」と誰かに尋ねられて「挨拶のゆえに」と応答する意図的な記述もあれば「指が痺れて」などの非意図的な記述も有りますし、「今回私が的を外したのは、私が挨拶すると欲求したゆえに」と個別的行為を個別的欲求ゆえに為したと内容(「挨拶する」)よりも媒体(~と欲求した」)に注目して記述の対象を個別的に記述する仕方もあるなどその記述多様性の縮図だからです。しかし、同じ屋外で的を外した行為を対象としても記述の水準で成立している「的を外すことは挨拶になる」一般的論法と記述された物の水準で成立している「的を外すことは挨拶になり、挨拶したい」個別的推論では違います。というのも、記述において昨日と同じ理由から今日同じ行為をする事はあり得ますからね。それゆえ、その射程から両者は分けられます。そこからすれば、願いが物質に如何に作用したか?の問いは後者との関わりが深そうですね。物質を媒体としたその内容が願いでしょうし、術者が彼に何らかの願いを告げて個別的推論に乱れを生じさせ、矢を外させる事が呪いの仕組みかもしれません。
2020年11月14日 14時43分35秒
エーファさんの論証はとても緻密ですね。ええ、たしかに言われていることは説得力があるように思えます。
そうですね……呪いが「矢」に作用したか「射手」に作用したかはとても重要だと思います。
呪いの世界の特徴はその「豊かさ」にもありますから、呪いによって作用の仕方はそれぞれ異なるのかもしれませんが。
射手の精神への影響によって矢が外れたというのはまさに有り得そうな話です。私は無意識の精神共感による暗示の可能性というのを考えてみたいですね。
あるいは、「矢」でも「射手」でもなく、「矢が当たる確率」が願いによって操作された、というパターンもあるかもしれません。
そうですね……呪いが「矢」に作用したか「射手」に作用したかはとても重要だと思います。
呪いの世界の特徴はその「豊かさ」にもありますから、呪いによって作用の仕方はそれぞれ異なるのかもしれませんが。
射手の精神への影響によって矢が外れたというのはまさに有り得そうな話です。私は無意識の精神共感による暗示の可能性というのを考えてみたいですね。
あるいは、「矢」でも「射手」でもなく、「矢が当たる確率」が願いによって操作された、というパターンもあるかもしれません。
2020年11月17日 21時12分01秒
そうだと嬉しいのですね。ところで、そのカースワーズ卿の考えは興味深いですね。なるほど確かに「ある人が弓矢を的に放ったところ矢が外れた。原因は別の誰かがそれを願った事だ」で結果と原因を結びつける因果メカニズムは呪いの作用先に応じて異なったものとなりましょう。ただ、「射手」の段階でもその対象によって異なった呪いになり得る可能性が生まれそうですね。というのも、卿は「無意識の精神共感による暗示の可能性」を検討したいそうですが……私は無意識というものをよく知りませんからね。如何なるものでしょうか?
例えば、『1220年のとある日、屋外で、私は部族の者の期待に答える為に矢を射た。前方20ヘクス先に的となる板を「当てるぞ」と期待を込めて見据え、きりきりと弦を引き、ぱっと離すことにより、射手となったのである。しかし、的中はしなかった。弧を描いて飛んでいった矢は的からほんの少しずれ、地面に刺さる事により、私が部族の期待を重く感じる者である事を暴露したのである。それゆえ、私は落胆した。自他の期待に応えられなかったから。ああ……これでは部族の者にも落胆されよう。我々はお前を縛る呪いであったか?……と』等私が部族の者の期待を重く感じて上手く射る事ができなくなってしまった場合にこの事態を自ら察して部族の者に「自分は期待を重く感じる者であるから、暫く射手を止めて、後に復帰する」と告げるか誰かがこれを共感によって察して問題への対処を実行する等、私と他者の交流を可能とする条件の事を無意識と呼んでいるのでしょうか?共感も、この条件が他者と私で共有されているゆえに可能となり、暗示もこれを利用したものだろう……と
例えば、『1220年のとある日、屋外で、私は部族の者の期待に答える為に矢を射た。前方20ヘクス先に的となる板を「当てるぞ」と期待を込めて見据え、きりきりと弦を引き、ぱっと離すことにより、射手となったのである。しかし、的中はしなかった。弧を描いて飛んでいった矢は的からほんの少しずれ、地面に刺さる事により、私が部族の期待を重く感じる者である事を暴露したのである。それゆえ、私は落胆した。自他の期待に応えられなかったから。ああ……これでは部族の者にも落胆されよう。我々はお前を縛る呪いであったか?……と』等私が部族の者の期待を重く感じて上手く射る事ができなくなってしまった場合にこの事態を自ら察して部族の者に「自分は期待を重く感じる者であるから、暫く射手を止めて、後に復帰する」と告げるか誰かがこれを共感によって察して問題への対処を実行する等、私と他者の交流を可能とする条件の事を無意識と呼んでいるのでしょうか?共感も、この条件が他者と私で共有されているゆえに可能となり、暗示もこれを利用したものだろう……と
2020年11月23日 16時32分21秒
「無意識」というのは仮の名称ですが、私が心慮しているのは「我々の意識は我々の精神の主人ではないのではないか?」ということです。
もとより、私の感情や欲望は私の意識とは別個に存在しますし……皆さんも考えるより先に身体が勝手に動いたという経験があるのではないでしょうか。また、意識した行動であっても身体がその通りに動くとは限りません。言い間違えや書き間違えなんかは頻繁に起こりますからね。私はこれらの意識しない行動や錯誤行為に「無意識」という意識とは別の精神領域が関わっていると想定していますが、無意識自体がどのようなものかをはっきりと述べることはまだできないですね。
ただ、その精神領域は閉じられたものではなく、個体を越えて他者の無意識同士で何らかの影響を及ぼし合っているのではないかという着想を私は持っているのですが……まぁ、単なる思いつきであって論拠になるようなものは何もありません。つまり無意識の精神共感が起こりうるというのも一つの仮説にすぎないんですね。
もとより、私の感情や欲望は私の意識とは別個に存在しますし……皆さんも考えるより先に身体が勝手に動いたという経験があるのではないでしょうか。また、意識した行動であっても身体がその通りに動くとは限りません。言い間違えや書き間違えなんかは頻繁に起こりますからね。私はこれらの意識しない行動や錯誤行為に「無意識」という意識とは別の精神領域が関わっていると想定していますが、無意識自体がどのようなものかをはっきりと述べることはまだできないですね。
ただ、その精神領域は閉じられたものではなく、個体を越えて他者の無意識同士で何らかの影響を及ぼし合っているのではないかという着想を私は持っているのですが……まぁ、単なる思いつきであって論拠になるようなものは何もありません。つまり無意識の精神共感が起こりうるというのも一つの仮説にすぎないんですね。
2020年11月23日 16時32分29秒
そして暗示というのもまたただの仮説なのですが、「自分が呪われていると思い込むことは実際に呪いとして機能する」というのが私の説です。これはつまり、実際には呪われてはいなくても、そう思い込んでいれば身体は「呪われている【かのように】動いてしまう」ということですね。
もちろん、射手の例では射手は自分が呪われていることを知りません。ただし、もしも意識以外の精神領域で「自分は呪われている」と思い込んでいたら……それが、願い手との精神共感によって引き起こされていたら……あるいは、本当に呪われているかのような動きをしてしまい、願い手の願いは実際に呪いと同等の結果を齎したと言えるのでは……みたいなことを考えていました。
もちろん、射手の例では射手は自分が呪われていることを知りません。ただし、もしも意識以外の精神領域で「自分は呪われている」と思い込んでいたら……それが、願い手との精神共感によって引き起こされていたら……あるいは、本当に呪われているかのような動きをしてしまい、願い手の願いは実際に呪いと同等の結果を齎したと言えるのでは……みたいなことを考えていました。
2020年11月26日 01時44分51秒
それは興味深い発想ですね。というのも、宿にいるわれわれが手で林檎を掴むときその掴み方を指の配列や力の加減に至るまですべて意識しているのかと言われたならば「そうでない」と意識的な理由による合理化を拒む一方で無意識の理由によって合理化しようとしているからです。それゆえ、おそらく卿の着想は無意識にも2つの層が考えられるのでしょうね。1つ目が個別無意識で、個人にあって個人の行為を無意識の理由によって合理化します。空腹な私が食料を前にして咄嗟に手を出すとき「私は空腹ゆえに」など行為を合理化する理由のうちで、空腹ゆえに手を伸ばした事を意識していない場合が該当するかもしれません。慎重にならないといけませんが。2つ目は、普遍無意識で、われわれにあってわれわれの行為を無意識の理由によって合理化するものです。なんでしょうか……相手の表情によって怒っているのか悲しんでいるのかを察してそれを理由に行為を合理化する事を支える共感能力でしょうか?調べてみたくなりますね。
「呪われている【かのように】動いてしまう」ですか。なるほど、卿の無意識論を基にすれば暗示というものは精神の無意識領域の運用術になりそうですね。というのも、われわれの住まう場所の周囲を奇怪な格好で彷徨き、度々お前は呪われていると大声で叫ぶ怪人物の集団がいたら頭がおかしく……いわば信じ込んでしまい呪いの事を意識していない際でも呪いを受けた者として行為してしまうなど個人的な無意識領域さえも変容しそうですし……反対のこともありそうですからね。それゆえ、呪いと暗示の分類にも使えそうで面白いですね。しかし、この概念は論文化するつもりなのですか?
「呪われている【かのように】動いてしまう」ですか。なるほど、卿の無意識論を基にすれば暗示というものは精神の無意識領域の運用術になりそうですね。というのも、われわれの住まう場所の周囲を奇怪な格好で彷徨き、度々お前は呪われていると大声で叫ぶ怪人物の集団がいたら頭がおかしく……いわば信じ込んでしまい呪いの事を意識していない際でも呪いを受けた者として行為してしまうなど個人的な無意識領域さえも変容しそうですし……反対のこともありそうですからね。それゆえ、呪いと暗示の分類にも使えそうで面白いですね。しかし、この概念は論文化するつもりなのですか?
2020年12月11日 13時18分16秒
無意識の2つの層ですか、なるほどそのように整理するのは良いですね。参考になります!
論文化についてはいずれしたい思っていますね。私は今は各地に伝わる呪いやその文献を収集しているのですが、資料が集まってきたら無意識論によってそれらをどのように解釈できるか、という本を出してみたいです。
論文化についてはいずれしたい思っていますね。私は今は各地に伝わる呪いやその文献を収集しているのですが、資料が集まってきたら無意識論によってそれらをどのように解釈できるか、という本を出してみたいです。
2020年12月21日 00時13分07秒
検討の余地がある整理方法ですけれどもね、カースワーズ卿。というのも、私は個別と普遍と名付けましたが……個別の抽象化が普遍物であるだとか普遍の分岐が個別であるだとかの論争がありますからね。それゆえ、ある程度議論が必要でしょう。しかし、その呪いの文献を無意識論によって解釈する試みは面白そうですね。本が出たら私もそれについて論を書いてみるのも楽しいかもしれません。
2020年12月26日 16時46分39秒
精神領域をうまく地図のように図式化して整理できれば良いのですけれど、これはまだ難しそうですね。
「普遍」概念もまた難しい問題ですね……どちらの立場にも理はあるように思えます。
ですが、エーファさんの論文には興味がありますからね。必ずいつか本を書いてみましょう!
「普遍」概念もまた難しい問題ですね……どちらの立場にも理はあるように思えます。
ですが、エーファさんの論文には興味がありますからね。必ずいつか本を書いてみましょう!
2020年12月30日 16時42分39秒
ええ、カースワーズ卿。それだけに卿がどのような精神の図式を展開するか現在から楽しみですね。というのも、われわれが宿で扉を開けようと扉に接近する際に視野のなかで扉の両端が外側に広がっていき……その広がり方が目の高さで最も速い事は天球を記述する新しい幾何の始まりを予感させるなど精神の追求は新たな研究の端緒となるからです。
はい、おそらく……普遍概念についての論争はいずれも理があるゆえに仮説を立ててそれを経験的な証拠によって実証する手法では決着しないタイプの問題でしょうから。しかし、前提が違っているのかもしれません。つまり普遍林檎や個物の林檎が在るのではなく、「私は林檎を食べた」といった他者との会話での概念使用が在り、その部分として「原理的に複数の例に当て嵌まるような林檎(普遍林檎)」や「この林檎(個物)」が成立しているのです。われわれが、普遍概念がどういったものなのか疑われて喧々諤々と議論する際もつねに会話は前提されていなければなりませんから。してみれば……「普遍陣営と個物陣営がお互いを刺し合っているところ」を整理できそうです。普遍の分岐が個物である事は概念がけっこう細かく使用されているという事ですし、個物の抽象が普遍である事は概念を曖昧にしようするという事になりましょうか。概念使用がそれらの根本に在るのですからね。それゆえ、彼らの前提を取っ払ってしまえば結構上手くいくと考える事もできます。とはいえ、これは問題が生じないよう前提を取っただけですから彼らのお気には召さないかもしれません。
ゆっくりで構いませんよ、なにせ私はエルフなものですから。
はい、おそらく……普遍概念についての論争はいずれも理があるゆえに仮説を立ててそれを経験的な証拠によって実証する手法では決着しないタイプの問題でしょうから。しかし、前提が違っているのかもしれません。つまり普遍林檎や個物の林檎が在るのではなく、「私は林檎を食べた」といった他者との会話での概念使用が在り、その部分として「原理的に複数の例に当て嵌まるような林檎(普遍林檎)」や「この林檎(個物)」が成立しているのです。われわれが、普遍概念がどういったものなのか疑われて喧々諤々と議論する際もつねに会話は前提されていなければなりませんから。してみれば……「普遍陣営と個物陣営がお互いを刺し合っているところ」を整理できそうです。普遍の分岐が個物である事は概念がけっこう細かく使用されているという事ですし、個物の抽象が普遍である事は概念を曖昧にしようするという事になりましょうか。概念使用がそれらの根本に在るのですからね。それゆえ、彼らの前提を取っ払ってしまえば結構上手くいくと考える事もできます。とはいえ、これは問題が生じないよう前提を取っただけですから彼らのお気には召さないかもしれません。
ゆっくりで構いませんよ、なにせ私はエルフなものですから。
2021年01月18日 14時43分19秒
天球の記述と眼前の扉という2つの遠近感の異なる領域に何か通じるものがあるということでしょうか、面白いですね。
根底にある概念使用、というのは呪術にも関わりがありそうな話です。「普遍林檎」や「個物林檎」の成立-存在を前提とせずに「私は林檎を食べた」と語ることができるのか……いずれにせよ「林檎」と呼ばれるようになる何らかの実体は必要であるとするならば、それはどのようなものか……興味は付きません。
ありがとうございます。理論も大事ですが、実際の呪術の現場を調査することも大事なので、まずは依頼がてら各地を旅して地方の呪術を調査収集しようとしているところです。なので、本としてまとめることができるのはかなり先になるかもしれませんね。
根底にある概念使用、というのは呪術にも関わりがありそうな話です。「普遍林檎」や「個物林檎」の成立-存在を前提とせずに「私は林檎を食べた」と語ることができるのか……いずれにせよ「林檎」と呼ばれるようになる何らかの実体は必要であるとするならば、それはどのようなものか……興味は付きません。
ありがとうございます。理論も大事ですが、実際の呪術の現場を調査することも大事なので、まずは依頼がてら各地を旅して地方の呪術を調査収集しようとしているところです。なので、本としてまとめることができるのはかなり先になるかもしれませんね。
2021年01月25日 19時09分39秒
はい、両方ともわれわれが見るものであるということです。天球でも、眼前の扉でも、それがわれわれの見るものであるならば、われわれが接近すると視野のなかで物体の両端は外側に広がっていきその広がり方は目の高さで最も速いといったルールは変わらないのです。というのも、われわれに見られていない星も扉も見ることができませんから。それゆえ、こうして精神を探検すればわれわれにとって天球がどのように見えるかをより深く知ることができるようになるのです。万物が照応しているとはこのことです。
ええ、興味深い問題です。ただ、実体が何であるのかは検討の必要があります。というのも、われわれは「林檎とは何か?」と問われたら手のひらに「あのしゃくりと噛むと甘くて美味しい果実」を載せ、「ほらこれだ」と示せば相手は、われわれの目論見通りに林檎が何かわかってくれると思っている節がありますが……それは偏見だからです。手の方を林檎だと思うかもしれませんし、われわれが林檎の皮だと思っているものを林檎だと思うかもしれませんからね。それゆえ、実体は未知として立ち現れ得るものでなければならないでしょう。
存分に調べてください。私はそうですね……むかしよく見た「夢の解き明かし」の資料を集めてみましょうか。というのも、卿の無意識を聞くとかなり似通って事がそこでは行われているようですから。しかし、呪術……呪術……あの国家というものは呪ですね。大地から収奪した富が人を増やし、増えた人を養う為にさらなる富を大地から取り立てる必要に駆られる事を、あれほどの能率で熟すのですから。
ええ、興味深い問題です。ただ、実体が何であるのかは検討の必要があります。というのも、われわれは「林檎とは何か?」と問われたら手のひらに「あのしゃくりと噛むと甘くて美味しい果実」を載せ、「ほらこれだ」と示せば相手は、われわれの目論見通りに林檎が何かわかってくれると思っている節がありますが……それは偏見だからです。手の方を林檎だと思うかもしれませんし、われわれが林檎の皮だと思っているものを林檎だと思うかもしれませんからね。それゆえ、実体は未知として立ち現れ得るものでなければならないでしょう。
存分に調べてください。私はそうですね……むかしよく見た「夢の解き明かし」の資料を集めてみましょうか。というのも、卿の無意識を聞くとかなり似通って事がそこでは行われているようですから。しかし、呪術……呪術……あの国家というものは呪ですね。大地から収奪した富が人を増やし、増えた人を養う為にさらなる富を大地から取り立てる必要に駆られる事を、あれほどの能率で熟すのですから。
2021年02月15日 15時38分50秒
ふむふむ。世界は私の認識の仕方によって、異なる対象であっても共通のルールの下に置かれているのですね……面白いです。
たしかに、それは偏見と言えそうです。あるいはここで再び「習慣」の語を登場させて呼び替えることもできそうです。
夢……ですか。予知夢など元々、魔術的には非常に興味深い研究テーマですが……なるほど、言われてみれば夢と無意識との間には何らかの関係がある気がします。流石ですね。
だとすれば……「家」そのものが呪いなのかもしれないですね。「国家」の場合はその規模と影響が大きくなったというだけの話で。あるいは、感情を持つ人と人が存在し、彼らが言語を使う時、そこにつねにすでに呪いはあるのかもしれません。
さて、私はまた地方の呪文化の調査に行ってきますね。またすぐこちらに戻ってきます。
エーファさんの「夢の解き明かし」についての研究結果も楽しみにしてますね!
たしかに、それは偏見と言えそうです。あるいはここで再び「習慣」の語を登場させて呼び替えることもできそうです。
夢……ですか。予知夢など元々、魔術的には非常に興味深い研究テーマですが……なるほど、言われてみれば夢と無意識との間には何らかの関係がある気がします。流石ですね。
だとすれば……「家」そのものが呪いなのかもしれないですね。「国家」の場合はその規模と影響が大きくなったというだけの話で。あるいは、感情を持つ人と人が存在し、彼らが言語を使う時、そこにつねにすでに呪いはあるのかもしれません。
さて、私はまた地方の呪文化の調査に行ってきますね。またすぐこちらに戻ってきます。
エーファさんの「夢の解き明かし」についての研究結果も楽しみにしてますね!
2021年03月07日 02時57分39秒
そうですね、カースワーズ卿。ただ、世界が私の認識の仕方によって共通のルールの下に置かれているのは何故でしょうか?言い換えると、世界は何故私に理解可能なのでしょうか?興味深い問題ですよね。
ええ、その点でも習慣とは実に興味深い概念です。卿の慧眼とも言えますね。
はい、カースワーズ卿。私の夢に美味しい料理が現れたのは何故か、と自らに問いかれば暫く食べてないから願望が反映されたのだろうか……私は別段そんな事を見せろと命じた覚えはないが……と思うものですからね。
その視点は興味深いですね。そうなってくると、文法を学ぶ事は呪いの法を学ぶ事なのかもしれませんね。といっても、文法の整理方法はかなり種類があるので単一の方があるわけではありませんが。
いってらっしゃいませ、カースワーズ卿。気長に待っていてください。
ええ、その点でも習慣とは実に興味深い概念です。卿の慧眼とも言えますね。
はい、カースワーズ卿。私の夢に美味しい料理が現れたのは何故か、と自らに問いかれば暫く食べてないから願望が反映されたのだろうか……私は別段そんな事を見せろと命じた覚えはないが……と思うものですからね。
その視点は興味深いですね。そうなってくると、文法を学ぶ事は呪いの法を学ぶ事なのかもしれませんね。といっても、文法の整理方法はかなり種類があるので単一の方があるわけではありませんが。
いってらっしゃいませ、カースワーズ卿。気長に待っていてください。
2021年07月13日 01時16分38秒
すべてが夢であることは、私が出会う如何なる出来事をも夢と考えるゆえに、覚めていても寝ていても夢を見ている事になります。一方、夢を見ていない場合、それが夢以外を想定しているゆえに、もはやすべてが夢である事を維持できていません。それゆえ、すべてが夢であることは経験に合致しません。
また、すべてが現実であることは、私が出会う如何なる出来事をも現実であると考えるゆえに、寝ても覚めても現実でしかないことになります。しかも、寝て夢を見る場合、それが現実でないゆえに、現実だけでないことになります。それゆえ、すべてが現実であることは経験に合致しません。
以上より、すべてが夢であることやすべてが現実であることは、それが私の出会う何者をも夢か現実にしてしまうがゆえに、私の経験から現実あるいは夢をこそぎ落としてしまいます。一方、こそぎ落とさない場合は、それが夢以外や現実以外を想定しているゆえに、この種の考えを維持できません。それゆえ、私はすべてが夢でもなければ現実でもない経験をしているわけです。
とはいえ、このことは、それが私が経験で夢にも現実にも出会うだけであるゆえに、私が眠りによって夢に落ちる一方でそれから覚める事で現実に戻ることを述べるだけです。換言すれば、その説明をしません。私は「何故貴方は、夢と現の区別がつかないのか?」や「何故貴方は、寝ないのか?」あるいは「何故貴方は、起きないのか」と尋ねるのであって、そうでない……つまり「’何故貴方は、夢と現実の区別ができるのか?」や「何故貴方は、寝ることができるのか?」あるいは「何故貴方は、起きることができるのか?」と尋ねはしないからです……。
また、すべてが現実であることは、私が出会う如何なる出来事をも現実であると考えるゆえに、寝ても覚めても現実でしかないことになります。しかも、寝て夢を見る場合、それが現実でないゆえに、現実だけでないことになります。それゆえ、すべてが現実であることは経験に合致しません。
以上より、すべてが夢であることやすべてが現実であることは、それが私の出会う何者をも夢か現実にしてしまうがゆえに、私の経験から現実あるいは夢をこそぎ落としてしまいます。一方、こそぎ落とさない場合は、それが夢以外や現実以外を想定しているゆえに、この種の考えを維持できません。それゆえ、私はすべてが夢でもなければ現実でもない経験をしているわけです。
とはいえ、このことは、それが私が経験で夢にも現実にも出会うだけであるゆえに、私が眠りによって夢に落ちる一方でそれから覚める事で現実に戻ることを述べるだけです。換言すれば、その説明をしません。私は「何故貴方は、夢と現の区別がつかないのか?」や「何故貴方は、寝ないのか?」あるいは「何故貴方は、起きないのか」と尋ねるのであって、そうでない……つまり「’何故貴方は、夢と現実の区別ができるのか?」や「何故貴方は、寝ることができるのか?」あるいは「何故貴方は、起きることができるのか?」と尋ねはしないからです……。
2021年07月13日 01時32分40秒
すなわち、ある晩、宿屋に戻って眠り、夢のなかで、故郷の土の香りを感じていたところ、朝日の輝きによって、大気の香りを嗅ぐことになったことに関して、何故そうなっているのかと誰かが私に尋ねる事は、その相手の経験に対する構えが私と異なっている事を顕にしているのです。いえ……、故郷の土の香りを夢に見るほどになったのはいったい何故なのかを尋ねられている可能性はあるのですが。
2021年07月13日 02時02分16秒
とはいえ、こうして私は、夢と現実を分けている者の制約を取り出せた訳です。つまり、こうした者は、明らかにこれを当然としているのであって、そうである事に理由がないし、不要だという事です。そして、これが夢と現実を取り扱う魔術の、法則なのです。
2021年07月13日 21時57分18秒
ところで、法則とは、普遍的な規則です。規則とは、経験的なものを制約するものです。つまり、法則とは経験的なものを普遍的に制約するものです。ただし、法則を経験的なものによって制約する者もいます。
とはいえ、経験的なものによって法則が制約される場合、その経験が法則を制約するゆえに、法則を必然的なものから偶然的なものにしてしまいます。一方、法則が必然的ならば、それが如何なる場合であれ必然的に成立するゆえに、経験的なものによって法則が制約されません。それゆえ、法則が経験的なものによって制約されることは法則の思考上の運用に一致しないのです。
かといって、経験的なものを制約する法則が思考されるだけのものであることは、その思考されるだけのものが経験を通さないことのゆえに、法則を実践されるものから言葉の弄びにしてしまいます。一方、法則が確かに実践される場合、その法則が経験を通して知られる事のゆえに、法則が考えられるだけのものであることはありません。それゆえ、経験的なものを制約する法則が思考されるだけのものであることは、氣のせいです。
すなわち、法則が経験を制約しないことや考えに過ぎない事は、その法則が偶然的なものや経験を通さないゆえに、法則から必然性と実践性を剥奪してしまいます。一方、法則が充実している場合、それが必然的であって経験を通して知られるゆえに、法則が経験を制約しないことや考えに過ぎない事を維持できません。それゆえ、法則とは経験を制約するものであって経験を通して知られるものなのです。魔術の法則もまた、こうしたものです。
とはいえ、経験的なものによって法則が制約される場合、その経験が法則を制約するゆえに、法則を必然的なものから偶然的なものにしてしまいます。一方、法則が必然的ならば、それが如何なる場合であれ必然的に成立するゆえに、経験的なものによって法則が制約されません。それゆえ、法則が経験的なものによって制約されることは法則の思考上の運用に一致しないのです。
かといって、経験的なものを制約する法則が思考されるだけのものであることは、その思考されるだけのものが経験を通さないことのゆえに、法則を実践されるものから言葉の弄びにしてしまいます。一方、法則が確かに実践される場合、その法則が経験を通して知られる事のゆえに、法則が考えられるだけのものであることはありません。それゆえ、経験的なものを制約する法則が思考されるだけのものであることは、氣のせいです。
すなわち、法則が経験を制約しないことや考えに過ぎない事は、その法則が偶然的なものや経験を通さないゆえに、法則から必然性と実践性を剥奪してしまいます。一方、法則が充実している場合、それが必然的であって経験を通して知られるゆえに、法則が経験を制約しないことや考えに過ぎない事を維持できません。それゆえ、法則とは経験を制約するものであって経験を通して知られるものなのです。魔術の法則もまた、こうしたものです。
2021年07月13日 23時45分47秒
とはいうものの、私の経験が夢と現実に関する法則(眠る事によって夢に落ち、起きる事によって現実に戻ること)に制約されていることは、それが世界のなかで実現しているゆえに、様々な在り方をします。例えば、疲れてしまったときは眠りが恋しい一方でどうしてもやらなければならない事があるときは眠りが忌々しいのです。すなわち、法則は状況毎に多様な在り方をします。これはちょうど、果物が多様な果物をその側面とするのと同じであり、魔術の法則もまたこれを免れません。
2021年07月14日 00時07分08秒
が、しかし、法則が多様な在り方をしないと考える者もいます。経験的なものを普遍的に制約するものは、その普遍性ゆえに、個別性がない……というわけです。
かといって、個別性なき法則は、それが個別の事例を含まないゆえに、法則を具体的な在り方をするものから抽象的な在り方だけのものにしてしまいます。一方、法則が具体的な在り方をもする場合、それが個別の事例を含むゆえに、個別性のある法則となります。それゆえ、法則には個別性があります。別言すれば、多様な在り方をします。
かといって、個別性なき法則は、それが個別の事例を含まないゆえに、法則を具体的な在り方をするものから抽象的な在り方だけのものにしてしまいます。一方、法則が具体的な在り方をもする場合、それが個別の事例を含むゆえに、個別性のある法則となります。それゆえ、法則には個別性があります。別言すれば、多様な在り方をします。
2021年07月14日 18時29分41秒
つまるところ、ここで、法則が私を従わせる事は、この法則が自らの従うべき法則か否を判断する事はおろか表象することにさえ先行しています。すなわち、法則が私を従わせる事は、判断とそれを支える表象を貫通して私に感覚されています。しかし、やるべきことを残しているもののひどく眠い私は、眠るべきかどうか葛藤する。つまり、法則が私を従わせることは、判断かもしれません。
されど、私に判断される場合にだけ法則が私を従わせることは、その服従が私の判断でしかないゆえに、私がいつの間にか眠ってしまったことを睡魔への屈服から私の潜在的判断にしてしまう。一方、私が睡魔に屈した場合、それが私の判断でないゆえに、法則が私を従わせることは前判断です。
といっても、法則が私を従わせる事は、私に表象されていることであるゆえに、私に表象されている場合にしか成立しないのではないか。
けれども、私に表象される場合にだけ法則が私を従わせる事は、その服従が私に表象されるものでしかないゆえに、眠りを誘われたものから表象された目的への到達にしてしまう。一方、私が眠りに誘われる場合、眠りが表象されると限らないゆえに、法則が私を従わせる事は表象というわけでもない。それゆえ、法則が私を従わせる事は前表象です。
以上より、法則が私を従わせる事は判断と表象に先行しています。しかも、私は眠りに誘われている事を何事もなければ心地よく感じる一方で何かしたい事があれば忌々しくも感じるのです。それゆえ、法則は私の感覚から表象、そして判断を貫通しているのです。ただし、これは語彙の獲得前と後で異なった様相を示します。
されど、私に判断される場合にだけ法則が私を従わせることは、その服従が私の判断でしかないゆえに、私がいつの間にか眠ってしまったことを睡魔への屈服から私の潜在的判断にしてしまう。一方、私が睡魔に屈した場合、それが私の判断でないゆえに、法則が私を従わせることは前判断です。
といっても、法則が私を従わせる事は、私に表象されていることであるゆえに、私に表象されている場合にしか成立しないのではないか。
けれども、私に表象される場合にだけ法則が私を従わせる事は、その服従が私に表象されるものでしかないゆえに、眠りを誘われたものから表象された目的への到達にしてしまう。一方、私が眠りに誘われる場合、眠りが表象されると限らないゆえに、法則が私を従わせる事は表象というわけでもない。それゆえ、法則が私を従わせる事は前表象です。
以上より、法則が私を従わせる事は判断と表象に先行しています。しかも、私は眠りに誘われている事を何事もなければ心地よく感じる一方で何かしたい事があれば忌々しくも感じるのです。それゆえ、法則は私の感覚から表象、そして判断を貫通しているのです。ただし、これは語彙の獲得前と後で異なった様相を示します。
2021年07月14日 18時29分58秒
そうはいっても、法則が私を従わせる事は、言葉によって、元々私がそうしてものに従っていたのだと発見されます。しかも、それ以前は、法則が私を従わせるとか、いないとかさえ不明なのです。それゆえ、法則が私を従わせる事は、言語で捉えられる場合にだけあるのではないかとも考えられます。
とはいえ、言語で捉えられ得る場合だけ法則が私を従わせる事は、その服従が私の言語使用でしかないゆえに、眠りという語彙を持たない赤子が眠る事を蠱惑的な眠りに誘われている事からはっきりと言語化されたものにしてしまいます。一方、赤子が蠱惑的な眠りに誘われているならば、それが言葉を学ぶ前に遂行されているゆえに、法則を私が従わせる事は言葉のなかに閉じ込める事ができません。それゆえ、法則が私を従える事は前言語的でもあるのです。
とはいえ、言語で捉えられ得る場合だけ法則が私を従わせる事は、その服従が私の言語使用でしかないゆえに、眠りという語彙を持たない赤子が眠る事を蠱惑的な眠りに誘われている事からはっきりと言語化されたものにしてしまいます。一方、赤子が蠱惑的な眠りに誘われているならば、それが言葉を学ぶ前に遂行されているゆえに、法則を私が従わせる事は言葉のなかに閉じ込める事ができません。それゆえ、法則が私を従える事は前言語的でもあるのです。
2021年07月14日 22時07分07秒
こうして、夢と現実に関する法則(眠る事によって夢に落ち、起きる事によって現実に戻ること)は、私を迷わし、目指させ、惹き付けます。言語以前から以後までも。つまり、法則が魂の在り方を制約しているのです。ただし、魂は、決断し、目指し、運動します。言語以前から以後までも。すなわち、魂が法則の在り方を制約しています。それゆえ、法則と魂は相互に浸透し合っています。もっとも、私はしばしば寝るまいと思っても実現できない程度に弱いのですが……
2021年07月15日 23時13分24秒
ただし、私の判断が法則にさせられたものでしかなく、表象が法則に生み出されたものに過ぎず、感覚が法則に押し付けられたものに限られ……しかも、それは言語以前も以後も変わらないとし……それゆえ、言語以前から以後まで私が決断し、目指し、運動することはけっきょく法則にさせられたものでしかない、すなわち法則が魂の在り方を制約するのでしかない、と考える者もいます。
しかし、法則が魂の在り方を制約するのでしかないことは、魂が動く理由を法則だけとするゆえに、私が眠る事を私のしたことから私がさせられたことにしてしまいます。そして、これは経験に反しています。それゆえ、法則は魂の在り方を必要なだけ制約します。
また、ここで、法則が魂の在り方を制約するのでしかないならば、魂が法則の在り方を制約するのでしかないのではないかと考える者もいます。
しかし、その者は、法則が働く理由を魂だけとするゆえに、私が眠らされる事を私がさせられた事から私がした事にしてしまいます。これもまた経験に反しています。それゆえ、魂は法則の在り方を必要なだけ制約しています。
以上より、法則と魂のうち一方がもう一方を制約し尽くす事は、それが働きの理由を法則あるいは魂に尽くしてしまうゆえに、経験に合致しません。一方、働きの理由が法則と魂の何れかに尽くされない場合は、それが働きの理由を不足させないゆえに、経験に合致するのです。それゆえ、法則と魂は互いの在り方を理由付けるかたちで制約しています。
しかし、法則が魂の在り方を制約するのでしかないことは、魂が動く理由を法則だけとするゆえに、私が眠る事を私のしたことから私がさせられたことにしてしまいます。そして、これは経験に反しています。それゆえ、法則は魂の在り方を必要なだけ制約します。
また、ここで、法則が魂の在り方を制約するのでしかないならば、魂が法則の在り方を制約するのでしかないのではないかと考える者もいます。
しかし、その者は、法則が働く理由を魂だけとするゆえに、私が眠らされる事を私がさせられた事から私がした事にしてしまいます。これもまた経験に反しています。それゆえ、魂は法則の在り方を必要なだけ制約しています。
以上より、法則と魂のうち一方がもう一方を制約し尽くす事は、それが働きの理由を法則あるいは魂に尽くしてしまうゆえに、経験に合致しません。一方、働きの理由が法則と魂の何れかに尽くされない場合は、それが働きの理由を不足させないゆえに、経験に合致するのです。それゆえ、法則と魂は互いの在り方を理由付けるかたちで制約しています。
2021年07月15日 23時23分14秒
とはいえ、私が「何故先日は夢を見なかったのか」と自問することは、それが夢を見なかったことに理由を求めているゆえに、夢を見る事が当然の立場に立っています。しかも、私が夢を見た場合は、それが当然であるゆえに、「何故先日夢を見たのだろうか」と問いません。それゆえ、私は当然でないことをしたゆえに理由を求めます。言い換えれば、法則から逸脱した魂の働きに理由が請求されているのです。
2021年07月15日 23時59分31秒
つまり、法則の下にある魂は、法則から逸脱するまで法則を透かしています。そして、法則から逸脱した途端、そのことに「何故か?」と理由が請求され、魂は「態とだ」だとか「いや、させられたのだ」と法則が偽なのではなく、たんに成立条件を満たしていなかっただけだと法則を弁護するわけです。法則と魂が互いの在り方を理由付けるかたちで制約するためには、そもそも魂が法則の下にいなければならない、というわけです。
2021年07月17日 02時12分28秒
別の言い方をしてみます。夜半、私が眠って故郷の湖で舟遊びをする夢を見ることは、没頭のなかで遂行されます。しかも、その私は、舟遊びが夢に過ぎない事にさえ気が付かないのです。つまり、夢見る私はそれが夢だと反省しません。一方、朝方その夢から覚めた私は、舟遊びが夢に過ぎなかった事を察します。床が硬くて痛い事、昨日床に就いた記憶が蘇った事、嗅ぐ香りが明らかに湖畔でないこと等など、様々な経緯からです。すなわち、夢から覚めた私はそれが夢だったと反省します。それゆえ、私はまず夢に没頭し、然る後にあれは夢だったと反省するのです。そして、逆順は無意味です。そもそも夢に過ぎなかったと察する夢がないからです。したがって、夢への没頭が夢への反省に先行します。
また、私が眠って故郷の湖で舟遊びをし、あれは夢に過ぎなかったと察する毎日を送っているとします。しかし、今夜は見なかったとしましょう。そうなってくると、私は訝しみます。いったい何故今夜に限って見なかったのか、と。探って見れば、理由が色々浮かびます。私が疲れていたとか、故郷への関心が薄れたとか、今夜は見ないと決心したから等など。つまり、まず夢もなく睡眠へと没頭し、然る後に夢がなかったと反省され、その理由が探られているのです。そして、ここでも逆順は無意味です。そもそも探求される夢のない睡眠、がないからです。それゆえ、夢のない睡眠への没頭がその反省と、理由探しに先行します。
かくして、私はまず没頭し、次に反省し、そこで一見して法則に反した事が生じたなら、それはその法則の間違いではなく、何か未知の理由があるに違いないとし、世界をこの方針で解釈するのです。
また、私が眠って故郷の湖で舟遊びをし、あれは夢に過ぎなかったと察する毎日を送っているとします。しかし、今夜は見なかったとしましょう。そうなってくると、私は訝しみます。いったい何故今夜に限って見なかったのか、と。探って見れば、理由が色々浮かびます。私が疲れていたとか、故郷への関心が薄れたとか、今夜は見ないと決心したから等など。つまり、まず夢もなく睡眠へと没頭し、然る後に夢がなかったと反省され、その理由が探られているのです。そして、ここでも逆順は無意味です。そもそも探求される夢のない睡眠、がないからです。それゆえ、夢のない睡眠への没頭がその反省と、理由探しに先行します。
かくして、私はまず没頭し、次に反省し、そこで一見して法則に反した事が生じたなら、それはその法則の間違いではなく、何か未知の理由があるに違いないとし、世界をこの方針で解釈するのです。
2021年07月18日 01時57分11秒
さて、ところで、毎日舟遊びの夢を見ていた私が、ある日突然ぱたりとその夢を見なかった場合に、宿で首を傾げながら一人呟きます。何故私は、今夜に限って夢を見なかったのか?と。理由は様々に出てきますが、しかし声に出して言ってみると、笑いがこみ上げてきます。それは、如何にも毎日舟遊びの夢を見る事が当然の様に聞こえる、と。私は狼狽し、別の論理を使い出します。例えば、当然じゃなければおかしい、だとか、です。つまり、噴水の様に湧き出す「今夜に限って夢を見なかった理由」は、当然性のなかに潜んでいる本来の意外性を発見すると、止まってしまいます。それゆえ、法則の意外性に気がついた者は未知の理由を探しません。代わりに、それ以外の立場を排斥するのです。言い換えれば、法則を心得ている者が世界を解釈する仕方は未知だけではありません。
では、この者にとって未知などないのでしょうか?そんな事はありません。
ある日、眠って、船に乗り込み、ふところにいれた詩集を取り出し、ふと岸をのほうを見ると、若い男のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ています。口を小さく開けていますが、まだ言葉を発していない……そんな印象的な夢を見たとします。起きたら、私はその夢を色々な人に話します。しかし、相手の反応はたいてい冷淡です。この印象深さが共有され難いものだからです。なので、私は幾度も言葉を重ねます。若い男のひとの佇まいが、独特の沈黙と静止を……だとか、飛び立ちそうだった、とかです。換言すれば、私は表現すべき的確な言葉のない体験をし、やむおえず直喩を繰り返します。この体験が未知でなくてなんでしょうか……
では、この者にとって未知などないのでしょうか?そんな事はありません。
ある日、眠って、船に乗り込み、ふところにいれた詩集を取り出し、ふと岸をのほうを見ると、若い男のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ています。口を小さく開けていますが、まだ言葉を発していない……そんな印象的な夢を見たとします。起きたら、私はその夢を色々な人に話します。しかし、相手の反応はたいてい冷淡です。この印象深さが共有され難いものだからです。なので、私は幾度も言葉を重ねます。若い男のひとの佇まいが、独特の沈黙と静止を……だとか、飛び立ちそうだった、とかです。換言すれば、私は表現すべき的確な言葉のない体験をし、やむおえず直喩を繰り返します。この体験が未知でなくてなんでしょうか……
2021年07月20日 01時17分43秒
そして、こうして名状し難い夢を見た私が、これを言い表す為に、やっきになり、ああでもない、こうでもないと工夫していると、そのうち、おかしくなってきます。まるで、これまで見てきた舟遊びの夢がたんに舟遊びをしていただけの様だからです。私は慌てふためき、ここでも別の筋を使い出すわけです。先日の夢は特別なのだ、と。すなわち、ぎこちなく紡がれる「名状し難い夢の表現」は、名状し難さの当然性が察されると、一旦停止します。そして、直ちに、その当然性が否定されるのです。それゆえ、名状し難さの当然性に気がついた者はその否定に駆り出されるわけです。
ただし、その否定はそれほど実を結ぶものではありません。というのも、昨夜、私一人だけが、たった一回しか体験したことがない事柄には名前がついていない事のみならず、そもそも同じ湖でも、それを眺める場所や時間、身体の調子、季節などによって、見え方が違います。私は、二度と同じ湖の景色を見ないのです。つまり、舟遊びの夢はたんに舟遊びの夢である一方で常に名状し難いのです。言い換えれば、法則とは標準あるいは典型でしかありません。
また、明くる日に夢のなかで乗船したのは中宵になって間もないうちの事だとします。方角もよくわかりませんし、地理などは役に立ちません。まるで巣穴の兎が草原の真ん中へ放り出された様な心持ちでした。外を向けば、波にさらわれるかと思い、船底で縮こまればいつひっくり返るかと疑い、安心できませんでした。すなわち、名状し難さに直面した私が行う直喩のなかにはその事に関する補足でなく、情の記述があります。換言すれば、未知との対決は表情豊かなのです。
ただし、その否定はそれほど実を結ぶものではありません。というのも、昨夜、私一人だけが、たった一回しか体験したことがない事柄には名前がついていない事のみならず、そもそも同じ湖でも、それを眺める場所や時間、身体の調子、季節などによって、見え方が違います。私は、二度と同じ湖の景色を見ないのです。つまり、舟遊びの夢はたんに舟遊びの夢である一方で常に名状し難いのです。言い換えれば、法則とは標準あるいは典型でしかありません。
また、明くる日に夢のなかで乗船したのは中宵になって間もないうちの事だとします。方角もよくわかりませんし、地理などは役に立ちません。まるで巣穴の兎が草原の真ん中へ放り出された様な心持ちでした。外を向けば、波にさらわれるかと思い、船底で縮こまればいつひっくり返るかと疑い、安心できませんでした。すなわち、名状し難さに直面した私が行う直喩のなかにはその事に関する補足でなく、情の記述があります。換言すれば、未知との対決は表情豊かなのです。
2021年07月22日 00時29分59秒
まとめてみましょう。まず、私はふだん何事もなく過ごしています。法則の事を気にする事もありません。しかし、法則に一見して反する事柄が発見された場合は違います。このとき、私は法則を維持したまま世界を解釈する方針で探求を行います。もっとも、それは長続きしません。そのうち方針の潜在的な意外性を察し、他の立場を排斥する事に心奪われるからです。そのため、私はいきつくところまで行くとたんに排他的な者となります。
しかし、まったく救いがないわけでもありません。自らの語彙では表せない事態には、異なった対処が求められるからです。その場合、私は名状し難いものを表す為に労苦しながら反省し、直喩を繰り返します。つまり、ほんの一瞬私はたんなる排斥者ではなくなるわけです。けれども、これもすぐに終わります。体験自体の潜在的な筆舌に尽くし難さに感づき、これを否定する事に血道を挙げることになるからです。したがって、私はいっときの体験を特別視する者となるわけです。
それでも、まだ手は残っています。世界のなかの事態はたんにその一つの言葉で呼ばれるである一方常に何とも言い様がないからです。言い換えれば、これまでもこれからも名状し難いものに浸かる機会はいくらでもあります。だから、非生産的行為から抜け出すことはいつでも可能です。さらに、言葉にならない事態の只中に放り出されることは、まるで魂が震えている様なのです。それゆえ、こうしたある種の体制から言い表し難い状況下へと放り出される事は将に魂が故郷から放逐されることなのです。しばしば語られる旅が魂を鍛える、とはこのことかもしれません……。いえ、違うかもしれませんが。
しかし、まったく救いがないわけでもありません。自らの語彙では表せない事態には、異なった対処が求められるからです。その場合、私は名状し難いものを表す為に労苦しながら反省し、直喩を繰り返します。つまり、ほんの一瞬私はたんなる排斥者ではなくなるわけです。けれども、これもすぐに終わります。体験自体の潜在的な筆舌に尽くし難さに感づき、これを否定する事に血道を挙げることになるからです。したがって、私はいっときの体験を特別視する者となるわけです。
それでも、まだ手は残っています。世界のなかの事態はたんにその一つの言葉で呼ばれるである一方常に何とも言い様がないからです。言い換えれば、これまでもこれからも名状し難いものに浸かる機会はいくらでもあります。だから、非生産的行為から抜け出すことはいつでも可能です。さらに、言葉にならない事態の只中に放り出されることは、まるで魂が震えている様なのです。それゆえ、こうしたある種の体制から言い表し難い状況下へと放り出される事は将に魂が故郷から放逐されることなのです。しばしば語られる旅が魂を鍛える、とはこのことかもしれません……。いえ、違うかもしれませんが。
2021年07月28日 01時05分58秒
ときに、ここで「魂」という言葉を使用しました。ところが、これまで「魂」が何であるのかを明確にしていないのです。その理由は、この用語が日常表現であり、その定義よりもそれに関する知識が肝心だからなのですが……その一方で、まったく述べないというのもおかしな話です。なので、簡単に素描してみることにします。
しばしば私達は「何故悪霊やアンデットがいるのか」と他者に尋ねます。そして、それに対する常識的な応答は「死した後、肉体を喪失してしまった魂は、マトリクス界に行くあるいはマテリアル界に還る事ができない。しかし、何らかの理由でマテリアル界に留まったならば、別である。クリーパーなどは魂を捕らえて、悪霊やアンデットにしてしまうのだ」です。つまり、魂とは身体に自然学的に含有されているもの、すなわち手足や胴体、頭部……のうちの一つです。
ただし、自然の事実に即し、別の考えもできます。魂は、ひとが帽子を脱ぐ様にして分離される、身体から独立のものだということ。あるいは、魂は、畔にある祖父の家と述べられたときの畔と家の関係の如く、定かでない場合もあり得ます。したがって、魂とは自然学に即すれば、これらを包括して、身体と隣接の関係にあるもの……もしくはその全体を現実的に分解した際に出てくるものとしたほうがよさそうです。
かといって、ある者の寸法を測って切り出されたものだけが魂なわけではありません。換言すれば、背丈の比較が無意味になる場合もあります。
しばしば私達は「何故悪霊やアンデットがいるのか」と他者に尋ねます。そして、それに対する常識的な応答は「死した後、肉体を喪失してしまった魂は、マトリクス界に行くあるいはマテリアル界に還る事ができない。しかし、何らかの理由でマテリアル界に留まったならば、別である。クリーパーなどは魂を捕らえて、悪霊やアンデットにしてしまうのだ」です。つまり、魂とは身体に自然学的に含有されているもの、すなわち手足や胴体、頭部……のうちの一つです。
ただし、自然の事実に即し、別の考えもできます。魂は、ひとが帽子を脱ぐ様にして分離される、身体から独立のものだということ。あるいは、魂は、畔にある祖父の家と述べられたときの畔と家の関係の如く、定かでない場合もあり得ます。したがって、魂とは自然学に即すれば、これらを包括して、身体と隣接の関係にあるもの……もしくはその全体を現実的に分解した際に出てくるものとしたほうがよさそうです。
かといって、ある者の寸法を測って切り出されたものだけが魂なわけではありません。換言すれば、背丈の比較が無意味になる場合もあります。
2021年07月28日 01時50分49秒
姿形の大きさ比べが無意味な場合とは、たとえば、魂とは、私のものまたは、父のものまたは、祖父のものまたは……と述べられているとき、言い換えれば、魂が魂と呼ばれるべき存在物の集まりの一部であると考えられている場合です。なぜなら、一つの「魂」という現物は一つの「身体」という現物より小さく、それに含まれるかもしれないのですが、しかし〈魂〉という意味の大きさと〈身体〉の意味の大きさは無関係だからです。どうしても比べたければ、たぶん集まり同士で比較する事になりますが、同程度になる可能性さえあります。詰まる所、〈身体〉と〈魂〉の意味は、隣接して共存する関係にあるだけで、見たままの大小関係には関わりがないわけです。
なので、『魂』にはざっくりと二つあることになります。1つ目は、ある者を解剖したものです。身体に内蔵されているとか、独立だとか、不定だったりします。2つ目は、魂を分類したものです。魂が私のものだとか、父のものだとか言われます。
また、魂の分類を如何にするのか、といえば、死した場合にマトリクス界に至るかどうか、神々の祝福を受けてマテリアル世界にエーテルとして還るかどうか……などの、存在物を魂と認める為の基準となる性質・資格条件を、満たしているものを、かき集める事によってです。おまけに、魂の基準を決定したければ、魂の集団に含まれている者たちが独占的に専有している特性を列挙すればいいわけです。
このため、魂を分類したものには2点あることになります。一点目は、魂の集まりです。類で括って、そのなかの一種とするものですね。二点目は、魂の基準です。マトリクス界に至るかどうかとかですね。
なので、『魂』にはざっくりと二つあることになります。1つ目は、ある者を解剖したものです。身体に内蔵されているとか、独立だとか、不定だったりします。2つ目は、魂を分類したものです。魂が私のものだとか、父のものだとか言われます。
また、魂の分類を如何にするのか、といえば、死した場合にマトリクス界に至るかどうか、神々の祝福を受けてマテリアル世界にエーテルとして還るかどうか……などの、存在物を魂と認める為の基準となる性質・資格条件を、満たしているものを、かき集める事によってです。おまけに、魂の基準を決定したければ、魂の集団に含まれている者たちが独占的に専有している特性を列挙すればいいわけです。
このため、魂を分類したものには2点あることになります。一点目は、魂の集まりです。類で括って、そのなかの一種とするものですね。二点目は、魂の基準です。マトリクス界に至るかどうかとかですね。
2021年07月30日 01時56分20秒
とりわけ、魂の類は「それは何か」と尋ねられる局面で、魂の種は「その魂は誰のか」と問われる状況下で明らかになります。しかし、これだけが魂という言葉の使用法ではありません。質問に応答するだけではなく、種の代わりに類の名を用いる、あるいはその逆、の場合があります。
第一に、種の代わりに類の名を用いるものは、「魂」と名指してもいい場合に、故意に「同胞のだ」と言う場合です。より具体的には、たとえば、ここ最近、大陸は、帝国の崩壊とか領土の奪還作戦とか難民とかメドゥの指先とか、わざわいがつづいて、大平原は荒廃しています。そんなある雨の晩、大森林から逃げ出してきたエルフがひとり、巡礼者の群れからも逸れ、廃棄されたとある都市の家へ夜を明かしにきます。そして、部屋へあがってみると、いくつかの死骸がほうってあり、そのあいだに一匹のおぞましいクリーパーがうずくまって、同胞のものを捉えているとしましょう。
エルフが実際に眼にしたのは、存在物としては、魂です。とすると、ここでは、魂という種をそのまま名指すかわりに、同胞のものという類的表現が用いられるわけです。何故か、といえば、「魂」より「同胞のもの」のほうが正確だったからです。これは、「同胞のもの」を「……」にしておいて、あらためてその空白部分へ「魂」と「同胞のもの」と二通りの表現を代入して比較してみればすぐに明らかとなります。
空欄に「魂」と入れたならば、それは魂というものを全面的に均一に意味するだけです。すなわち、この言葉は、集合的には魂という存在物を表すだけであり、その基準としては魂のもつありとあらゆる性質をすべて均等に意味するに過ぎません。
第一に、種の代わりに類の名を用いるものは、「魂」と名指してもいい場合に、故意に「同胞のだ」と言う場合です。より具体的には、たとえば、ここ最近、大陸は、帝国の崩壊とか領土の奪還作戦とか難民とかメドゥの指先とか、わざわいがつづいて、大平原は荒廃しています。そんなある雨の晩、大森林から逃げ出してきたエルフがひとり、巡礼者の群れからも逸れ、廃棄されたとある都市の家へ夜を明かしにきます。そして、部屋へあがってみると、いくつかの死骸がほうってあり、そのあいだに一匹のおぞましいクリーパーがうずくまって、同胞のものを捉えているとしましょう。
エルフが実際に眼にしたのは、存在物としては、魂です。とすると、ここでは、魂という種をそのまま名指すかわりに、同胞のものという類的表現が用いられるわけです。何故か、といえば、「魂」より「同胞のもの」のほうが正確だったからです。これは、「同胞のもの」を「……」にしておいて、あらためてその空白部分へ「魂」と「同胞のもの」と二通りの表現を代入して比較してみればすぐに明らかとなります。
空欄に「魂」と入れたならば、それは魂というものを全面的に均一に意味するだけです。すなわち、この言葉は、集合的には魂という存在物を表すだけであり、その基準としては魂のもつありとあらゆる性質をすべて均等に意味するに過ぎません。
2021年07月30日 02時01分56秒
ところがその空欄に「同胞のもの」を投入すれば、その語句は、元来の意味全てを保ちながら、その上、流れに誘導されて、魂をも意味します。換言すれば、そこで「同胞のもの」は本来の意味としては同胞のもの一切を、そして臨時の意味として魂を意味する働きをしています。
これは興味深い事です。一般に、集合が大きければ基準は緩く、厳しければ集合が小さいものです。「同胞のもの」類の集合は、「魂」という種の集合より大きく、各々の基準を観察すれば、これもまた「同胞のもの」は「魂」より小さいです。「同胞のもの」の特性は「同胞のもの」だけですが、「魂」の特性は「同胞のもの」「死ぬと体から出る」「マトリクス界に行く」とか色々ありますから。
まとめれば、「同胞のもの」は本来と臨時の二重の意味を発現しているわけですし、集合的に「同胞のもの(としての)魂」という二重の表現を代入したのと同じ効用を発揮しています。
この為、「同胞のもの」という表現を集合的に観察した場合は、「同胞のもの」は類ですから、種としての「魂」を含み、魂の意味の周囲を魂以外のありとあらゆる同胞のもので包囲している事になります。そして、その基準からすれば、「同胞のもの」は魂のもつさまざまな特性のなかで魂へと灯りを当てている事になっているわけです。
となれば、けっきょく、あの日、クリーパーが捉えていたのは、「魂」ではなく、「魂の同胞性」なのです。言い換えれば、魂といっても、別段純粋に、ただただ魂であるわけじゃない事になります。というより、こうした性がなければ私がこの悲惨に動揺する事もない……ということになるかもしれません。
これは興味深い事です。一般に、集合が大きければ基準は緩く、厳しければ集合が小さいものです。「同胞のもの」類の集合は、「魂」という種の集合より大きく、各々の基準を観察すれば、これもまた「同胞のもの」は「魂」より小さいです。「同胞のもの」の特性は「同胞のもの」だけですが、「魂」の特性は「同胞のもの」「死ぬと体から出る」「マトリクス界に行く」とか色々ありますから。
まとめれば、「同胞のもの」は本来と臨時の二重の意味を発現しているわけですし、集合的に「同胞のもの(としての)魂」という二重の表現を代入したのと同じ効用を発揮しています。
この為、「同胞のもの」という表現を集合的に観察した場合は、「同胞のもの」は類ですから、種としての「魂」を含み、魂の意味の周囲を魂以外のありとあらゆる同胞のもので包囲している事になります。そして、その基準からすれば、「同胞のもの」は魂のもつさまざまな特性のなかで魂へと灯りを当てている事になっているわけです。
となれば、けっきょく、あの日、クリーパーが捉えていたのは、「魂」ではなく、「魂の同胞性」なのです。言い換えれば、魂といっても、別段純粋に、ただただ魂であるわけじゃない事になります。というより、こうした性がなければ私がこの悲惨に動揺する事もない……ということになるかもしれません。
2021年08月04日 01時42分23秒
第二に、類の代わりに種の名を用いるものは、たとえば……ある日の暮れ方のことです。一人の同胞が、廃墟で雨やみを待っていました。そこへ突然クリーパーが襲いかかり、辺りには臓物が食い散らかされます。このとき、たまたま通りがかった私が「魂が貪られている」と言った、とかです。
この場合実際に貪られているのは彼の魂だけではなく、腕や腹、臓物、その他多数です。となれば、ここでは、同胞という類を使う代わりに魂という種が使用されていることになります。もちろん使った理由は、それが状況に対して適切だったからです。第一と同様にテストすれば、これは「魂」が本来の「魂」の意味を維持しながら「同胞」を臨時的に意味する事になります。したがって、この場でクリーパーに貪られているのは「同胞」ではなく、「同胞の魂性」になりましょう。
かくして、魂の類と種の使用法は各々2つあることになります。1つ目は、質疑応答の場面です。「それは何か」や「その魂が誰のものか」と尋ね、「魂です」や「同胞のものです」と応答します。2つ目は、いわゆる提喩的な場合です。クリーパーに「魂の同胞性」を捉えられたり、「同胞の魂性」を貪られたりするやつですね。
ところで、同胞とは大地に生えている植物の事でもあります。そのため、あの惨状を前にして、魂と言う代わりに同胞のものとし、更に重ねて同胞のものと呼ぶ代わりに、「花」と言う事があります。換言すれば、二段構えの場合あるいは隠喩的な場合もあり得ます。ただし、これは一段のものよりも遥かに通じ難い傾向にあります。同胞といえば思想的共鳴者をイメージするひとがかなりいるからです。状況を一層選ぶ訳ですね。
この場合実際に貪られているのは彼の魂だけではなく、腕や腹、臓物、その他多数です。となれば、ここでは、同胞という類を使う代わりに魂という種が使用されていることになります。もちろん使った理由は、それが状況に対して適切だったからです。第一と同様にテストすれば、これは「魂」が本来の「魂」の意味を維持しながら「同胞」を臨時的に意味する事になります。したがって、この場でクリーパーに貪られているのは「同胞」ではなく、「同胞の魂性」になりましょう。
かくして、魂の類と種の使用法は各々2つあることになります。1つ目は、質疑応答の場面です。「それは何か」や「その魂が誰のものか」と尋ね、「魂です」や「同胞のものです」と応答します。2つ目は、いわゆる提喩的な場合です。クリーパーに「魂の同胞性」を捉えられたり、「同胞の魂性」を貪られたりするやつですね。
ところで、同胞とは大地に生えている植物の事でもあります。そのため、あの惨状を前にして、魂と言う代わりに同胞のものとし、更に重ねて同胞のものと呼ぶ代わりに、「花」と言う事があります。換言すれば、二段構えの場合あるいは隠喩的な場合もあり得ます。ただし、これは一段のものよりも遥かに通じ難い傾向にあります。同胞といえば思想的共鳴者をイメージするひとがかなりいるからです。状況を一層選ぶ訳ですね。
2021年08月06日 23時42分55秒
より具体的には、私があのとき「クリーパーがうずくまって、同胞のものを捉えている」と言うべきところを、「クリーパーがうずくまって、花を毟っている」と言い換えたとしましょう。そうなると、さながら「花」という語が「同胞のもの(魂の同胞性)」に完全にとって代わり、その本来の意味はかき消すように視界から退き、臨時的に魂の同胞性に変身して姿を現すとでも言うように聞こえます。言うべきところを、そう言わなかったのですからね。
しかし、この考えには2つの問題点があります。
第1に、たんなる代用品なら最初から「同胞のもの」といった方が早いのでそうする、ということです。したがって、この場合は、魂の同胞性と同胞の花性が生きていて二重写しになり、そこに魂の同胞的花性とも表現できる新しい意味が出現することになります。
第2に、当該語句だけが問題にされるならば、「花」の変身した臨時の意味がはたして「同胞のもの」なのか、それとも「雄々しい男性」、ひょっとして「都市」なのか、聞く者には見当がつかない事、です。すなわち、魂の同胞的花性は、ある一定の状況のなかに位置付けられているわけですね。語だけじゃないのです。
このため、「クリーパーがうずくまって、花を毟る」場面ならば、「クリーパーがうずくまって同胞のものを捉えている」と表現されるよりも、素直に表した方が適切です。魂の同胞性ではなく、魂の同胞的花性なのですからね。しかも、それさえ確立すれば、クリーパーは魂を「捉える」ではなく、「毟る」のです。すると、魂と同胞と花が別種であることは脇に置かれ、あたかも花を話題にしているかの様に、言葉を続けていけます。
しかし、この考えには2つの問題点があります。
第1に、たんなる代用品なら最初から「同胞のもの」といった方が早いのでそうする、ということです。したがって、この場合は、魂の同胞性と同胞の花性が生きていて二重写しになり、そこに魂の同胞的花性とも表現できる新しい意味が出現することになります。
第2に、当該語句だけが問題にされるならば、「花」の変身した臨時の意味がはたして「同胞のもの」なのか、それとも「雄々しい男性」、ひょっとして「都市」なのか、聞く者には見当がつかない事、です。すなわち、魂の同胞的花性は、ある一定の状況のなかに位置付けられているわけですね。語だけじゃないのです。
このため、「クリーパーがうずくまって、花を毟る」場面ならば、「クリーパーがうずくまって同胞のものを捉えている」と表現されるよりも、素直に表した方が適切です。魂の同胞性ではなく、魂の同胞的花性なのですからね。しかも、それさえ確立すれば、クリーパーは魂を「捉える」ではなく、「毟る」のです。すると、魂と同胞と花が別種であることは脇に置かれ、あたかも花を話題にしているかの様に、言葉を続けていけます。
2021年08月06日 23時45分20秒
これは、「クリーパーがうずくまって、花を毟る。互いに離れ独立した花冠を一枚ずつ丁寧に引き千切り、かつてミツバチを誘引していたものが、辺りに散らかる事になった」とかになりますね。換言すれば、2つの物語が平行するわけです。一方は表現されずに了解され、もう一方は表現されて了解されるわけですね。
ところで、花の物語は魂のたとえ話に過ぎないのでしょうか?別の言い方をすれば、引き千切られる花冠やミツバチ、そして散らばるものと対応する魂の物語を、それ花の物語抜きのそれ自体で語り得るのでしょうか。当然、魂の物語だけで!
いったい何なのでしょうね。知っている人がいれば教えて欲しいものです。また、魂に花弁があるなどということはないですし、そのために誘引されるミツバチなんかもいないはずです。われわれの普段の用法からはだいぶ隔たりがありますからね。つまり、これが諷喩であることは間違いないなさそうです。となれば、魂の表現者は、在る種の本名がない事柄を語ろうとしていたことになります。そこでは、花の物語が魂の物語の代わりに実話の役割を果たすことになるのです……。
なれば、花の物語はそれ自体では語り得ぬことを、たとえ話でかろうじて表現していたことになります。たしかに、魂に何事かが生じているのですが、しかしその実態に見合うそれ自体の記述が不成立なのです。それは、どこからどこまでが花弁で、茎で、雄花で……といった仕切り、すなわち構造が見えず、本名を連ねてそれ自体を語ることのできない何かなのでしょう。要するに、魂は花の構造性が反映されることによってはじめてその実態が把握されるものなのです。
ところで、花の物語は魂のたとえ話に過ぎないのでしょうか?別の言い方をすれば、引き千切られる花冠やミツバチ、そして散らばるものと対応する魂の物語を、それ花の物語抜きのそれ自体で語り得るのでしょうか。当然、魂の物語だけで!
いったい何なのでしょうね。知っている人がいれば教えて欲しいものです。また、魂に花弁があるなどということはないですし、そのために誘引されるミツバチなんかもいないはずです。われわれの普段の用法からはだいぶ隔たりがありますからね。つまり、これが諷喩であることは間違いないなさそうです。となれば、魂の表現者は、在る種の本名がない事柄を語ろうとしていたことになります。そこでは、花の物語が魂の物語の代わりに実話の役割を果たすことになるのです……。
なれば、花の物語はそれ自体では語り得ぬことを、たとえ話でかろうじて表現していたことになります。たしかに、魂に何事かが生じているのですが、しかしその実態に見合うそれ自体の記述が不成立なのです。それは、どこからどこまでが花弁で、茎で、雄花で……といった仕切り、すなわち構造が見えず、本名を連ねてそれ自体を語ることのできない何かなのでしょう。要するに、魂は花の構造性が反映されることによってはじめてその実態が把握されるものなのです。