愛好禄1 エーテルを手繰る事の意味合い


 私の信じるところでは、エーテルと自然は分かち難い。というよりも、世の始まりが澱(エーテル)にある以上私が出会う自然とはエーテルである。それゆえ、自然を観察することはエーテルを観察する事にほかならないと思われる。しかし、エーテルや自然の意味合いはそれ程明らかではない。何故なら、自然という言葉はおおむね3つほどの意味合いで用いられるからである。
 1つ目は、樹に成る葡萄は樹に成る事をその自然な本性とするのであって天空から湧き出る事はそれに反するなど本性に関わる意味。2つ目は、樹に成る葡萄が樹木と果実など諸々の部分から成る全体である事など構造に関わる意味。3つ目は、なぜ葡萄が樹に成ったのかの応答に関する意味である。創造者がそうなさったのか、それともそれが最善かつ経済的であったからそうなったのかは判然としないのであるが……ともあれ、私が自然(またの名をエーテル)の観察を行うとはこの何れかを意味するのである*。すなわち、私がエーテルを手繰るとき云々のうちの何らかであるところのエーテルを手繰っているといえよう。


*その正しさに関しては我らが父祖の「気象論1」の第一部冒頭を参照せよ
2020年09月11日 05時01分19秒 |4

2020年09月12日 05時14分49秒
 まとめに入りましょう。心地よい時間を過ごしたく思い、樹の陰に寄り掛かりながら目を瞑って、そのうごめきを聞こうとする前は「この樹木に欠く事のできない音とはこうしたもの」などと本性に対する推定がある。しかし、いざ聞こうとする際は体を樹の肌にそっと寄せて静かに照準を彼の声に合わせるものである。そして、それからボウォーっと聞こえたとすればまさにそれがその自然の構造に内在する本性であると理解される。それはその本性を最も善く実現するものであるから。
 これとエーテルを手繰る事で実現される魔法も根本的には同様である。私が樹木の肌に体を寄せてその声をじっくりと集中して聞くように、魔法を使う者はエーテルに身を寄せてじっくりと集中してその声を聞くのである。もちろんその声の具合は環境や本人の耳の具合にも左右されるが、しかしそれはその者がその本性に相応しい状況にある事を意味するに過ぎない。それゆえ、エーテルを手繰る事は将に自然の本性と構造が協働しながら世界のなかで実現される過程に参与する事なのである。自然に内在する最善性と経済性――創造者の意図であるところの――によって。
 されば、恵みを受けた私がエーテルを手繰ってより善くある道はこれと善く交渉する事である。エーテルに寄り添い、訴えながら、然るべき道を歩むべきなのである。善く自然を観察して。しかし、まだ明白でない事がある。交渉の仕方や、沿うべき道に関する具体的な内容である。また、このエーテルを手繰る私が何者であるのかの規定に関しても追求すべき点は多い。それゆえ、以上の言及はあくまで暫定的な結論であって最終的なものではない。随時修正されるものである。

2020年09月12日 21時20分09秒
 我らが父祖の伝承を省みるに、その意図は最善性と経済性である。何故なら、父祖は「自然は無駄な事は何もしない」と言うからである。樹木に葡萄がなるのは、それが葡萄と樹木の本質に可能なことのうちで(経済的にも)最も善いことだからなのである。しかし、これに対しては「葡萄の樹木はときに折れるが、それが最善なのだろうか」や「そもそも最善性や経済性の意味が曖昧ではないか」と懐疑されるだろう。
 第一の「葡萄の樹木はときに折れるが、それが最善なのだろうか」に関しては、それは可能性への無謬の信頼に依っていると応答できる。何故なら、人々は折れそうな樹木を見た際それが折れる可能性と折れない可能性をまったく同程度にあり得るとは思っていないからである。そもそもそれでは、葡萄の造形を見ても葡萄ではないかもしれないとけっして判断がつかないであろう。それゆえ、私はこの主張を退ける。
 第二の「そもそも最善性や経済性の意味が曖昧ではないか」に関しては、世界に対する理想に依っている。何故なら、私が葡萄の樹木の本性を知らんと欲するときその観察を通して本性として葡萄が樹に成ることを知る。それゆえ、私が予め葡萄は天空から生えると思っていたとしてもそれは誤りであったと解釈される。すなわち、現に在る有様こそがその本性であり、世界を超えてその本性を成し遂げるに長けた者はいないのである。「いや、以前は違った」などと言ってもそれは変らない。
 以上より、私は「創造者がこの世を作る意図は、最善性と経済性である」と主張する。つまり、私がエーテルを手繰ることは創造者の意図を実現する事を意味すると宣言するのである。結果は兎も角として。

2020年09月12日 21時20分28秒
 残る問題は「何故葡萄は樹木に成ったのか」である。よくある応答としては、「創造者がそのように作り給うた」がある。しかし、私はこれに満足していない。何故なら、創造者の意図に関してはなんら説明していないからである。それゆえ、まだ説明の余地を残しているのである。しかし、これに対しては次のような反論が予想される。「創造者の意図は計り知れぬ」や「他者の意図を確実に知ることはできない」などである。
 第一に、「創造者の意図は計り知れない」に関しては、彼の過大な信念に依っている。何故なら、私は他者の意図を知り得るからである。例えば、葡萄の樹の前で隣人が「この葡萄は大きいな」と私に告げたならばこの言葉の意図が感嘆を共有する事にあることだと察する事ができる。そして、これは多くの者が認めるところなのである。それゆえ、仮にその者が「創造者の意図が図りしれぬ」と言うならば創造者を不可知の地位に付けていると言わざるを得ないのである。このような不可知性は、石が葡萄を知り得ないのと同様の欠如であるというのに。したがって、私はこの主張を退けるのである。
 第ニに、「他者の意図を確実に知ることはできない」に関しては、過大に過ぎた確実性への欲求に依っている。何故なら、私が他者の意図を知る事がすべて妄想に過ぎないと言っているのであればやはりこれは欠損と同様の理屈で退けられ、そしてそれがひどく難しいというのであれば「ああ、そういうことだったのですね」というのみである。それゆえ、私はこの主張も退けるのである。
 以上より、私は「創造者は意図をもってこの世を創造した」との見解にたどり着く。さて、如何な意図であろうか。

2020年09月12日 21時20分46秒
 ただし、この記述はしばしば解釈上の対立を招いてきた。その激戦区は、「自然の第一解釈と第二解釈の何れがより実在的であるか」の問いである。しかし、私見ではこの問い事態が病巣である。何故なら、私が観察したところこの世界において葡萄の葡萄らしさが樹木に実る葡萄といった構造抜きに成立する事は空想であり、葡萄の葡萄らしさなしに樹木に実る葡萄の構造は「その構造を知っても葡萄らしいと感ずる事」があり得ない非葡萄だからである。それゆえ、「自然の第一解釈と第二解釈の何れがより実在的であるのか」に対しては「何れも同程度に実在的である。依存しあっているから」と応答せねばならない。
 さて、となればエーテルを手繰る事の意味は「葡萄を見て、葡萄かどうかを識別する事」とほとんど意味を共有する事となる。違いは知識や対象の有無であり、葡萄が樹木に成る事やその造形、そして食べ方を知っている者は多くともエーテルのなんたるかを技巧的に知っている専門家は少数であることがその行使者の少なさの原因である。ただし、ここで一つの懸念が思い浮かぶ。あらゆる感覚を生来的に欠いている石などは、葡萄の識別など不可能ではないか。
 この懸念は正しい。何故なら、観察している限りでは石が、葡萄を識別していると認めずともその振る舞いを理解可能だからである。同様に、エーテルを知る事や手繰る事の不能者がいる可能性は否定できない。しかし、それはなんらかの欠如である。何故なら、石が葡萄を識別不能でも葡萄は実在するのであるから。雑音のように、現状では識別不能でも。それゆえ、私は第一と第二の解釈の自然の協働によってエーテルを手繰るのである。
アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0