【星架】ハルジオンの揺り籠

キャラクターノベル制作 雨月ハジメ納品 2023年02月09日 14時29分38秒

 むせかえるほどの緑の香りに、色とりどりの草花が揺れている。揺らしている主は視界の端をかすめる真っ黒で質素なドレスだ。それは華やかな邸宅内では浮いていたが、この迷路のような庭には不思議と似合っていた。くすくすという笑い声と共にドレスの主が呼びかける。こっち、こっちよという聞き慣れた甘やかな声。踊るような足音から、彼女が本気で逃げるつもりではないことがわかる。それでも子供の足では追いつくのは大変で、ようやく捕まえればほとんど押し倒すような形になった。彼女は声を立てて笑い、そうして待っていたかのように自分を捕まえた少年を見つめる。紫の怪しい光を宿した瞳が緩やかな弧を描いて、淡い唇が何事かを紡いだ。柔らかな唇がゆっくりと少年の唇に近づいてゆく。
 ふわり、と花の香りがした。

 柔らかな日差しが冷たい空気を和らげている。見上げればとぎれとぎれに雲が伸びて青い空を装飾していた。ここシャルガネ居住区はロスガリア大陸の北東にあたる辺境都市群に存在する、遥か東方から流れ着いたとされる黒髪の人々が生活している区画だ。当然のように文化も変わったものが多く、街並みもどこか風変りだった。そんな風変りな街を、黒髪ではないひとりの青年が歩いている。黒を基調とし緑のラインが所々に施された外套を羽織り、ひと房だけ長くなった明るい茶色の頭髪を風になびかせている。革靴を軽やかに鳴らす音からは彼の育ちの良さが感じられた。シャルガネ居住区特有の独特な窓硝子にその相貌が反射すれば、前髪は一部だけ雪が残ったように白く、エメラルド色の瞳は長い睫毛に縁どられていた。その表情にはどことなく気だるげな微笑が浮かんでおり、どこからどう見ても申し分のない美しく気品ある青年だった。そんな彼、ジュスト・ヴェルジーは、しかしその足を華やかな中心部ではなく、街外れへと向けてゆく。彼に見惚れる人も居なくなった辺りまでたどり着いたかと思うとようやく足を止めた。そこは風変りな居住区の中でも更に少し風変りな建築物の前だった。
 建物はシャルガネ居住区には珍しくない階層がひとつしかない構造で、しかし外見はリーンエス王国にもよく見られる明り取り用の大きな窓が多く付けられている。玄関先にはポーチがついており、その屋根がそのまま外回廊を囲んでいた。外回廊の屋根は何本もの質素な柱が支えており、木製の椅子が一脚だけ草花に囲まれてぽつんと立っていた。人が訪れなくなって久しいのか、それとも初めからこうだったのか、建物の周囲には草花が生い茂っている。ポストから生えた白い花が風で揺れてジュストを歓迎していた。
「ここか」
 すこし考えてから、黒い手袋におおわれた手を伸ばして扉を開く。扉は鈍い音をたててゆっくりと開いた。同時にぶわりと緑の香りが漂ってくる。見れば薄暗い室内のほとんどは草花に覆われていた。自然に任せるだけでこうはならないだろう。おそらく最初からこの家の中には大量の草花が飾ってあったのだ。それが野生化してこうして繁茂するようになったのだろう。
「凄い光景だ。だがこの様子では結果は明らか、かな」
 ジュストがここに来たのはとある依頼のためだった。というのも、ここに住んでいた人物が少し前から音信不通になったので確認してきてほしいとのことだった。その人物はここで治療師のかたわら植物の絵を描く仕事をしており、周辺の人々に慕われてはいたもののどこかミステリアスな雰囲気を放っていたそうだ。埃っぽい室内にはいたる所に紙が落ちており、その端々に草花のスケッチと思われるものが認められた。歪んだ窓枠の隙間から吹いてくる風にスケッチが揺れる。風が吹いてきた方向に目を向ければ、何かが横たわっているのが見えた。
「あれか」
 独り言ちて近寄っていけば、足元に積った埃が舞う。近づいてみればそれは寝台であることがわかった。寝台の上に、何かが横たわっている。しかしその何かはジュストが間近まで近寄っても身動きひとつしない。そうしてそのままその何かを覗き込んだ。
 それは花だった。一面の白い花が顔と思わしき部分を覆いつくしている。格好からして女性であろうそれは、腕にひと房の乾いた花束を抱えていた。その種が周囲に飛んで咲いたのだろう。彼女の肌と思しき部分は全て白い花で埋め尽くされていた。
「……貴女は」
 その様子を見て、ジュストは驚いたように少しだけ目を見開く。目や口等分かりやすい穴がある箇所から白い花が吹き出ている。永遠に見つめ返すことのないその顔に、体に、しかしジュストは見覚えがあった。
 ジュストが幼い頃、魔術の名門であるヴェルジー家には大勢の家庭教師がいた。そうして毎日のように彼らからありとあらゆることを教えられた。歴史に計算、教養に地理……そして女性の扱い方。女性の扱い方を学ぶためにとジュストにあてがわれたのが、今目の前に横たわっている女性だった。豊かな黒髪に紫の怪しい瞳。しなやかな黒猫のような肢体を持った彼女は幼いジュストを翻弄した。ジュストが困ると喜び、ジュストを赤面させると必ず笑った。かわいい子、が口癖だった。その言葉には優越感や支配欲がありありと含まれており、発するたび幼いジュストに屈辱を覚えさせた。
 その彼女が今、何も言わずに目の前に横たわっている。ジュストはため息をつくと近くの椅子の埃をはらって腰掛けた。そうして彼女と相対する。幼い頃あれほど耳に馴染んだ声はもう思い出せなかった。
「貴女が亡くなって、俺は正直安堵している」
 落ちるように言葉がこぼれる。乾燥しているのか、腐臭はどこからもしない。ただ返事をするようにカサカサと風で乾いた草花が揺れる。
「ずっとここに住んでいたのか。貴女は……俺達の事を知っていたようだけれど」
 足元に落ちているスケッチを拾い上げる。そこには草花ではなく、自分と最愛の婚約者の横顔が描かれていた。どんな感情で眺めていたのか想像もつかない。なにせ猫のような女性だった。妖艶で、したたかで。だが思い返せば彼女が自分以外の家のものと会話をしている記憶がない。今考えれば当然かもしれないが、おそらくあまり良い扱いをされていなかったのだろう。思えば哀れな女性かもしれなかった。
 しかし今はそのことよりも、彼女が黙ったまま行ってくれたことに安堵していた。今ジュストの心を何よりも占めているのは最愛の婚約者だ。その関係に不安を持ち込む存在はない方が良い。秘め事は隠したままにしておきたい。自分のためにも、愛する彼女のためにも。その気持ちがどうしても先立って、目の前にいる彼女の死を素直に悼むことが出来ない。年齢は確かまだ40代だったはずだ。亡くなるには早すぎる。だが争った形跡や薬の類がないことから死因は自然死なのだろう。だとすれば、花は毎晩抱いて眠っていたのだろうか。幼い頃のほの暗い情事の記憶からは想像もできない姿に、ふと時の流れを感じた。彼女が今の自分のことを何も知らないように、自分も今の彼女のことを何も知らないのだった。彼女の安否を依頼した依頼人の姿が自然と思い出された。ごく普通の隣人を心配する様子だった。ひとりきりで死んだのには間違いないだろうが、孤独ではなかったのかもしれない。
 花の咲き誇る彼女の顔に改めて目をやる。幾重もの細長い真っ白な花弁が黄色く丸い中央部に沿って円を描いている。そうしてじっと見ていると、昔彼女が言っていたことを思い出す。花にはそれぞれ込められた意味があるのだと。毎晩この花を抱いて眠っていたのならば、この花にも何か意味があるのだろうか。怨念のような、あるいは祈りのようなそれを少しだけ考えてやめる。今の彼女について考えるべきなのは、今の彼女を知っている人々だろうと感じたからだった。
 カサカサと思い出したように草花が鳴る。依頼は完遂した。もうここに居る理由はない。遺体が傷まないうちに依頼人へ彼女のことを伝えたほうが良いだろう。ジュストは立ち上がり踵を返そうと振り向いた。
 その途端、バタン! と大きな音がして窓が全て開いた。カーテンが開き、光と風が吹き込んでくる。澄んだ空気にキラキラと埃が舞い、風に揺られて草花がぶわりと舞った。緑の匂いはいっそう濃くなり、まるで緑の空間に包まれているかのようだ。カーテンが踊り、草花が踊り、どこかで駆ける足音がした。
 くすくす、くすくす……。
 忘れたはずの声が踊りだす。視界の端を黒いドレスがかすめた。舞う花びらにつられて見上げれば、かつて庭園で過ごした日々を思い出す。窓から見えた月夜の事を思い出す。組み敷かれるのはいつも自分だった。ひどく甘く、苦い記憶。おそらくもう思い出す事もないであろう思い出。しかしその経験はしっかりと身に付き、ジュストが生きる術のひとつとなった。人生の中で一瞬だけすれ違い、交わることのなかった人生。だがあの頃に残された引っ掻き傷は、少年時代と共にどこかで生きているのだろう。そう思うと、自然と口元が苦笑いの形に歪む。
「本当に貴女は悪戯が好きだな」
 笑うように、踊るように花びらが舞う。再び強い風が吹いて、それらは外へと躍り出た。豊かな緑の広がる中、踊るように青空の下を遠ざかってゆく。ほの暗い場所から明るい世界へ、なによりも自由に。
 それを見送ってジュストも建物を後にする。過ぎ去った過去よりも、気にすべきは現在のことだ。例えば彼女の亡骸をどうするかや、次は婚約者にどんな贈り物をしようか、等。外に出てみれば、ふと肩に花弁が一枚残っていることに気が付いた。それを軽く払って外套を整え再び歩き出す。
 ふわり、と花の香りがした。
 しかしそれはすぐに立ち消えて、後には遠ざかってゆく靴音だけが残される。
 やがてそれも遠くなり幕が閉じるように雲の影になる。
 追憶の愛は形を消して踊る。どこか遠く。きっと誰も知らない場所で。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0