赤い逢瀬
キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2022年12月02日 13時46分48秒
一歩入った道は、寂れた路地だった。昼下がりの怠惰な光の中、既に商売が成り立たず畳んでしまった店が立ち並ぶ。レピド・クロサイトは何故一歩曲がったのか、わからないまま道を行く。
目の前に赤い看板があった。酒場だろう。レピドは妙な納得と共に扉に手をかける。かつてここに来たことがあった。擦り切れた真鍮の取っ手に手をかける仕草も、初めてではない気がする。
やけに重い扉を押して、中に一歩足を踏み入れる。その方が自然だ、と断片にささやかれたゆえに。
店内は薄暗く、内装は簡素であった。宿が併設されているのか細い階段が下に続いている。楽師などはいない。地下から濃い薫香が立ち上る。むせかえりそうになるほどに。
客やオーナーは盗み見るようにレピドを見る。そこには怪訝さとある種の興味があった。レピドは視線を避けるように、端のテーブルに座る。
「『イラクサ』を一杯」
別の生の記憶だ、とレピドは思う。今はもうない『己』の断片。イラクサは、カクテルの名だろう。薬草めいた香りの液体がやって来る。薬草酒なのだろう……。
味わいは薬臭く、甘ったるかった。精はつきそうだが美味ではない。
「兄ちゃん、久しぶりじゃねえか。今夜はこれでどうだ」
ふとテーブルの向こうに視線をやれば、赤葡萄酒を持った黒髪の小男が座っていた。筋肉質だが、妙な気品のある中年であった。四本の指を立てたのは、何かの符号らしい。
が、意味はわからない。しばしの沈黙の後、男はレピドよりも大きな困惑を抱えながら、ささやく。
「ここは出会い酒場だぞ、あんた。流儀を忘れたのか? 赤薔薇は買い手、イラクサは受け手……それも手荒に扱われていい、という意味だ。一番店でキツいコースだっていうのに」
「すまん、知らなかった」
「いや、あの日みたいな思いができると思ったんだが。この調子じゃあの日の逢瀬も覚えていないな。赤い夜だったよ、あんたの目よりも赤い夜だった。血の臭い……忘れ得ぬ感覚……すべては昔だ。ま、似た顔の奴もこの世には何人かいるからな。仕方ない」
小男はため息をついてから赤葡萄酒を飲む。その視線は過去に浸っていた。レピドが求めてもつかめぬ過去を。
「もう一度その夜を繰り返せば、いいのだろうか……そうすれば」
頼む、何をしてもよいから。そういいかけたレピドを男は鼻で笑った。
「お断りだ。赤ん坊の世話をする気にゃならねえな。やる気が失せた。戻んな、間違いが起きたら寝覚めがわるい」
「間違い?」
「あんたがうっかり首絞められて意識不明になるってことだ」
ルバール・コーシェスはため息をつく。ルバールは金に不自由しない下級貴族の子であった。結婚するつもりはなかった。女に興味は持てなかったゆえに。結果姉が爵位を継いだ今は適度な金を貰いながら放蕩三昧という次第。
ルバールの嗜虐趣味はあくまで行為の中でルールをもって礼儀正しく行われる類のもので、何も知らぬ素人と行う趣味はなかった。
「『アンタに会えてよかった』、か」
赤葡萄酒を飲み干す。今日は館で過ごそう――何、おれには小姓たちがいる――。
「人間、記憶がなくなるだけで、ああも変わるのか」
明らかにあれは、記憶の無い奴の目だとルバールはひとりごちる。あまりにも空虚な、未来以外ない目。死んだ目でこそあるが、不在ゆえに澄んだ、童子のような赤い瞳。
かつてルバールを見ていた濁った赤とは違う。深い闇を称えた、昏い目。同一人物が変わるには、奇跡か、過去をすべて忘れるしかない。
ルバールはの両手に名も知らぬ『赤目』の首の感触がよみがえる。締めあげたその首は細くも、筋肉があった。肌はなめらかで冷たかった。まるで日の光から逃げて生きているかのような白……。
男は、ただ、何をしてもいい、といった。
行為を止めるための符号は、最後までいわなかった。
寝台も床も血で赤く染まり、鞭を持つルバールの手は汗でぬるりとなった。
手ひどい愛の後、すべての傷に触れ、軟膏を塗りながらからかった――「物好きだな」と。
「人は、変わるもんだな」
ルバールは軽い酔いの中、思い出す。
うろの中を通る空虚な北風の声。男の声。昏い瞳。「この方がいいんだ、壊されてるみたいで」――そう告げる顔は、嗤っていた。行為に及んだルバールを? それとも苦痛と恥辱に耽る己を?
すべてだ。すべてを嘲笑う人の顔であったとルバールは思う。すべてを壊し、壊されたいと思う人の。
快楽ではなく、破滅を求める顔であった。
(いるんだよな。おれも人のことはいえんが……自分をめちゃくちゃにしたい、ぼろぼろになりたい、おしまいにしたい。ただそれだけのために来るやつが)
ルバールはこつりとグラスを置く。向かいの席の男の気配は、もうない。
「もう、『こっち側』に来るんじゃねーぞ」
爛れた男の酷い祈りだ、とルバールは笑う。
だが、ここしばらくの中で、一番真摯な願いであった。
目の前に赤い看板があった。酒場だろう。レピドは妙な納得と共に扉に手をかける。かつてここに来たことがあった。擦り切れた真鍮の取っ手に手をかける仕草も、初めてではない気がする。
やけに重い扉を押して、中に一歩足を踏み入れる。その方が自然だ、と断片にささやかれたゆえに。
店内は薄暗く、内装は簡素であった。宿が併設されているのか細い階段が下に続いている。楽師などはいない。地下から濃い薫香が立ち上る。むせかえりそうになるほどに。
客やオーナーは盗み見るようにレピドを見る。そこには怪訝さとある種の興味があった。レピドは視線を避けるように、端のテーブルに座る。
「『イラクサ』を一杯」
別の生の記憶だ、とレピドは思う。今はもうない『己』の断片。イラクサは、カクテルの名だろう。薬草めいた香りの液体がやって来る。薬草酒なのだろう……。
味わいは薬臭く、甘ったるかった。精はつきそうだが美味ではない。
「兄ちゃん、久しぶりじゃねえか。今夜はこれでどうだ」
ふとテーブルの向こうに視線をやれば、赤葡萄酒を持った黒髪の小男が座っていた。筋肉質だが、妙な気品のある中年であった。四本の指を立てたのは、何かの符号らしい。
が、意味はわからない。しばしの沈黙の後、男はレピドよりも大きな困惑を抱えながら、ささやく。
「ここは出会い酒場だぞ、あんた。流儀を忘れたのか? 赤薔薇は買い手、イラクサは受け手……それも手荒に扱われていい、という意味だ。一番店でキツいコースだっていうのに」
「すまん、知らなかった」
「いや、あの日みたいな思いができると思ったんだが。この調子じゃあの日の逢瀬も覚えていないな。赤い夜だったよ、あんたの目よりも赤い夜だった。血の臭い……忘れ得ぬ感覚……すべては昔だ。ま、似た顔の奴もこの世には何人かいるからな。仕方ない」
小男はため息をついてから赤葡萄酒を飲む。その視線は過去に浸っていた。レピドが求めてもつかめぬ過去を。
「もう一度その夜を繰り返せば、いいのだろうか……そうすれば」
頼む、何をしてもよいから。そういいかけたレピドを男は鼻で笑った。
「お断りだ。赤ん坊の世話をする気にゃならねえな。やる気が失せた。戻んな、間違いが起きたら寝覚めがわるい」
「間違い?」
「あんたがうっかり首絞められて意識不明になるってことだ」
ルバール・コーシェスはため息をつく。ルバールは金に不自由しない下級貴族の子であった。結婚するつもりはなかった。女に興味は持てなかったゆえに。結果姉が爵位を継いだ今は適度な金を貰いながら放蕩三昧という次第。
ルバールの嗜虐趣味はあくまで行為の中でルールをもって礼儀正しく行われる類のもので、何も知らぬ素人と行う趣味はなかった。
「『アンタに会えてよかった』、か」
赤葡萄酒を飲み干す。今日は館で過ごそう――何、おれには小姓たちがいる――。
「人間、記憶がなくなるだけで、ああも変わるのか」
明らかにあれは、記憶の無い奴の目だとルバールはひとりごちる。あまりにも空虚な、未来以外ない目。死んだ目でこそあるが、不在ゆえに澄んだ、童子のような赤い瞳。
かつてルバールを見ていた濁った赤とは違う。深い闇を称えた、昏い目。同一人物が変わるには、奇跡か、過去をすべて忘れるしかない。
ルバールはの両手に名も知らぬ『赤目』の首の感触がよみがえる。締めあげたその首は細くも、筋肉があった。肌はなめらかで冷たかった。まるで日の光から逃げて生きているかのような白……。
男は、ただ、何をしてもいい、といった。
行為を止めるための符号は、最後までいわなかった。
寝台も床も血で赤く染まり、鞭を持つルバールの手は汗でぬるりとなった。
手ひどい愛の後、すべての傷に触れ、軟膏を塗りながらからかった――「物好きだな」と。
「人は、変わるもんだな」
ルバールは軽い酔いの中、思い出す。
うろの中を通る空虚な北風の声。男の声。昏い瞳。「この方がいいんだ、壊されてるみたいで」――そう告げる顔は、嗤っていた。行為に及んだルバールを? それとも苦痛と恥辱に耽る己を?
すべてだ。すべてを嘲笑う人の顔であったとルバールは思う。すべてを壊し、壊されたいと思う人の。
快楽ではなく、破滅を求める顔であった。
(いるんだよな。おれも人のことはいえんが……自分をめちゃくちゃにしたい、ぼろぼろになりたい、おしまいにしたい。ただそれだけのために来るやつが)
ルバールはこつりとグラスを置く。向かいの席の男の気配は、もうない。
「もう、『こっち側』に来るんじゃねーぞ」
爛れた男の酷い祈りだ、とルバールは笑う。
だが、ここしばらくの中で、一番真摯な願いであった。