愛と重荷

プロローグノベル制作 紀藤トキ納品 2020年12月17日 22時03分21秒

 世の中の物には重さがある。形が無い物にも。例えば、愛。例えば、期待。

 どうしてお父様とお母さまには尻尾が無くて、私には髪の毛が無いのだろう。幼いニワニ(昔の俺)の悩みに答えてくれる者はいなかった。執事もメイドも、聞けば不思議な笑い方をして黙るのだ。両親に聞けば、悲しそうに微笑んで「大きくなったら教えてあげよう」と言う。だから、大きくなるまで待っていた。

 物心ついたときには、貴族の子息に仕えるはずの乳母はいなかった。そもそも、俺が知らなかっただけで乳母は三回変わっていたらしい。貴族の嫡男の乳母として雇われ、期待に胸を膨らませた若い貴族女性が俺を見て受けるショックは、今なら想像がつかないでもない。トカゲに胸を齧られるなど耐えられないと、涙を流して訴える女に無理強いはできまい。口止めの意味も含めてそのたびに多額の金が動き、最終的には、貴族の家では恥ずかしいとされる事だが、母が自分の乳で俺を育ててくれたらしい。乳母が居付かない家の女主人と言われ、母が受けていた侮蔑はいか程の物だったろうか。何も俺に知らされることは無かった。

 幼年期のある日、執事がいなくなった。代々イリエブルク家に仕えた家系の者だった。父に自身の出処進退を賭けて俺の廃嫡を進言したらしい。訴えを退けられたからと言って、恨みに思う事もなく。領地に戻り、粛然として自裁したという事は家を出た後で聞いた。彼は彼なりに良かれと思う事を貫いたのだろう。幼い頃の俺にとっては、厳しくも優しい老人だった。

 メイドが入れ替わった。俺がまだ外の世界を知らなかった頃の事だ。同じころから、領村で母の不貞や父への呪いが噂されたのだという。ふとした口の軽さが災いして、若い女性の人生が変わってしまった。もしかしたら、終わってしまったのやも知れない。貴族社会での醜聞の始末のやり方は時に冷たい物だから。

 世間的には、お披露目のある年代の頃。父は友人を失った。共に学び、共に競い、戦ってきたのだろう。母の兄なのだから、系図上は俺の叔父でもある。もしかしたら、俺と血のつながりがある事こそが許しがたかったのかもしれない。今にしてみれば、想像することもできないのだが。社交界に出しあぐねていた俺を彼は自分の家に招き、父も彼を信じていたからその場を俺の社交デビューの場に選んだ。

 ――そこは悪意でもって用意された舞台だった。俺が通された通路の先は檻の中に通じており、招かれた客人たちは俺を珍獣であるかのように鑑賞しながら談笑していた。俺はといえば、初めてのパーティだ。何もわからないのだから、不快にも思わなかった。ただ静かにしていれば父が褒めてくれると思っていた。

 父は、彼と断交した。母は兄との縁を切った。そして俺は、トカゲという言葉が貴族社会では侮辱となるのだと知った。俺を晒し物にした叔父はその季節の社交界で話題の人となり、両親は噂の種となった。最初は母の浮気を疑われ、トカゲに股を開いた女だのと言われていたらしい。ついで、家系が呪われていると言われるようになった。先祖返りと言う当たり前のことをさも恐ろし気に、呪わし気に語る全ての輩から、俺は守られていた。

 思えば、仲睦まじい両親から弟も妹も産まれなかったのは不自然だ。俺のような失敗作が生まれることを恐れた故ならばよかった。俺を呪われた子だと思っていたのなら良かった。そうではない。父と母は、俺が比較されて疎まれることを恐れたのだ。弟が生まれればそちらを嫡男に。妹が生まれれば婿を取って任せるべき。そういう声が出てくることを知っていた。だから、俺のために他の子供を諦めた。

 そして家名は地に落ちた。イリエブルクの名は失笑と共に語られ、やがて口の端に上る事もなくなった。それでも両親は幸せそうだった。俺は、その歪さを知らなかった。家から出て初めて、それを知った。投げられる石も、浴びせかけられる罵倒も。掛けられる足も、突き飛ばしてくる腕も。全て、俺があの家に生まれたせいだ。俺が只のヒューマンなら無かった。俺が只のリザードマンならば無かった。どうすれば良かったのかなど、わからない。ただ、後から突き付けられた重さから逃げ出したかった。

 形が無い物にも重さはあると最初に言ったな。愛の重さはどうやって量ると思う? 天秤のつり合いを見るんだ。俺が居なければ失われなかった物。俺がいたせいで失われた物。貴族としての評判、忠実な家臣、領民の忠誠、長年の友と親族、そして子供の多い家庭。両親はそのすべてを引き換えにしても、俺を愛した。それを知った時に、伸し掛かった重みがただ怖かった。それだけの事なんだ。俺があの家から逃げ出した理由は。

 それでも、両親がまだこんな俺を愛していると知っている。俺を連れ戻そうともせず、それどころか連絡を取ろうともしない。逃げ出した俺の生き方を許し、認めているんだ。それが今もとても……重い。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0