雨月、夢の跡
キャラクターノベル制作 弓月 蒼納品 2022年07月06日 08時17分37秒
●帰郷前夜
――――どうも最近、自分の事以外で嘆息する事が増えた気がする。
イヴェール・イリュジオン、18歳の夏。故郷のラシーヌ村まで残り1日と言う『王国』行脚の途上。
最終日位はと借りた宿の一室。水桶を借り身を清め、寝台の上に身を横たえる。
天井掛けの洋燈に透かした指輪を見つめ。そんな事を思った矢先からまた一つ息を吐いた。
(そう、“指輪”――――)
イヴェールとて年頃の少女。その装飾品が少々特別である事は知っている。
誰かに指輪を贈るとなれば、例え同性であった所で大いに悩む事になるだろうことは決して想像に難くない。
その“意味”が。“重み”が。その一線を越えることを躊躇わせるだろう……とは、容易に思い浮かべられる範疇だ。
余程仲が良くとも。況や――――それを“異性に渡す”となれば――――と。
其処まで考えて、じっと見つめ続けていた指輪を掌に握り胸元へ寄せる。上手く思考が纏まらない。
……もやもやする。形容し難い感情だった。いや、正直北方辺境の一件以降、色々と思い悩む事が増えてはいる。
剣なり槍なりを振っていれば、ある程度物を考えなくても事が片付いてた頃は良かった。
自分で自分の正義を、自らの天秤の確からしさを信じられた間はこれほどあれこれと考えを巡らせずにいられた。
けれどいつまでもそうはいかない。彼女は自分自身の決断と。自ら決めて穢した両の手と向き合うべき時に来ていた。
その為に一度故郷へ戻る必要があった。心中穏やかでない部分は有れ、後悔しないよう覚悟して来た。
――――が、それとこれとは話が別と言うか。冷徹たらんとする自分の内側に直視出来ない感情がある。
本来、故郷へ戻ったらどうするか……を、今こそ真摯に考えないといけないタイミングで。
現在進行形で寝転がって預かり物を眺めている時点で、もう既に何かおかしいのは間違いないのだから。
と、そこではたと気付いて身を起こす。そうだ。明らかにおかしい。色々考えることはあった筈だ。
「そう、でした……先ず、戻ったら」
曾祖父の元へ行って、真実を確認して、それで……それで――――
……――――掌の指輪へ視線を落とす。本来は、宝石などが嵌められている場所に据えられた精緻な細工。
“弦月と剣”の家紋。それは北方辺境伯家直系の証明。『王国』では公爵家に次ぐ高位貴族。
世に2つしかない家紋印の指輪。その片割れが今手元にあると言う事を再確認し、その意味を考える。
没落貴族『幻日』に生を受け、自分自身をあくまで“農家の娘”と認識しているイヴェールは。
当然のように貴族教育を十分受けられる環境には無かった。貴族界隈の常識は大抵彼女にとっての非常識だ。
けれど、冒険者としての日々で幾らか貴族と接する事も。或いは貴族令嬢、令息と友誼を結ぶ事などもあり。
彼女の中には断片的な貴族についての、かなり大雑把な知識が積み上がっている。
その基準に則れば――――家紋印とは“公的にすら通じ得る身分証明証”であることが、何となく理解出来てしまう。
何せ公文書に捺す正規印だ。家族以外の人間がおいそれを手に出来る物である訳が無く――――
(――――“家族”……って!!)
何気なく考えていた中で突如浮上したその単語に、思いがけない戦慄が走る。
家族という言葉が、北方辺境伯家でどれほど重い物か。つい先日叱責してみせたイヴェールが一番良く分かっている。
その一件が有ったからこそ彼女は帰省しなければと思い至った訳であるのだし。
彼女とて、血の繋がりだけが家族を定義する物では無いと言う自分の発言に対し無責任であるつもりはない――――が。
何を罷り間違ってかその単語に自分に当て嵌めそうになった事実に、急激な羞恥が押し寄せる。
もだもだする。思わず身悶えしてしまう謎の恥ずかしさに苛まれ勢い余って北方の方角に八つ当たりしたくなる。
(いえ、いえいえいえいえいえいえ。そういう事ではないのです。一般論。そう、一般論です。それ程貴重な物と言う!)
果たして誰に言い訳しているのか自分でも良く分からないままに強く注釈を入れる物の。
ともあれ、一瞬回線が混乱した思考を立て直そうと、指輪を寝台横に置く。戦いでは冷静さを欠いた者から死ぬのだ。
しかし少なくとも。軽々に人に預けられる物ではない。果たして親しくして貰っている銀月の伯爵令嬢なら何というだろう。
ただごとではない。位の事はイヴェールにだってすら分かるのだから……
「やはり……驚かれるでしょうか」
実の所。貴族の常識に当て嵌めれば他家の人間に――——例えば婚約者ほどまで親しい間柄であったとしても。
家紋印を渡すなどと言うのは正気の沙汰ではなく。通り一辺倒の貴族なら“誰が相手であれ”有り得る行いではない。
意味合い的には、騎士が忠誠を誓う際に抜いた剣の切っ先を己の喉に。柄を自らの主へ向ける行為に等しい。
即ち、己の忠を疑うならばその柄を押して自らの命脈を絶って欲しいと言う。儀礼上では最上位と言える誓約である。
家長以外触れる事すら赦されない家も少なくはなく。夫婦で家紋印を分けて所有していたら余程固い信頼で結ばれている。
少なくとも王国社交界であればそう見られて不思議ではない――――と、備に説明されたら果たしてどうなっていたろう。
当人すら自覚無しにまた指輪を見ていたイヴェールは、不意に右手指先でその装飾を引き寄せると。
じっと自らの左手と見比べる。剣を握るに慣れた指。中指、なら丁度良さそう。薬指だと少し大きい……だろうか。
……であれば、ここはもう魔が差した――――と言うべきなのだろう。それは本当にささやかな興味本位だった。
試しに。ほんの試しに。他意は無く。好奇心に誘われて。預けられた指輪を自身の左手薬指に、通して、みようと、してみたとして。
あ、何かするっと入ってしまいそう。と思った瞬間――――不意に正気に戻って右手を左手で抑えた。
(!? !?!? !!!???)
――――わああああああああああああああああああああああああああ!!! 脳内は自我を放棄し勝手に全力で絶叫していた。
きゃあとか可愛らしい感じでは断じてなかった。脳裏一面を埋め尽くしたのは完全にわああああ!!! だった。
最早誰がと言えば自分が一番信用ならない。え、何? 今何しようとしてました? ち、ちが、ちがう、ちがいます……!
待って下さい待って下さい。違う。違う違う違う違う。そんな特別な、意味無いので。指輪と言うのは本来指に通す物で。
そう、つまり指輪の本懐とは飾るだけでは果たせない物なので。だから違います。してない。私は未だ何もしてない……っ!!!!
いまだかつてない気恥ずかしさに襲われて寝台を大いにごろごろした挙句、その際勢い余って肝心の指輪を落っことし。
宿に据えられた箪笥の影に転がっていったのを蒼褪めて必死に探し、結果心身ともに大層疲れ切ったイヴェールは。
帰郷前夜であるにも関わらず、翌日の予定を何も見定められないまま突っ伏して。翌朝までぐっすり眠りに落ちたと言う。
●『幻日』の黎明
――――始まりの百家、『幻日』は、古い家系である。文字通り、王国建国時からの生粋の貴族。
その異名である幻日とは『王国』北方で雪の日などに極々稀に見られる“日の無い場所に日が映る”と言う現象である。
その際虹の様な光彩を放ち、太陽と並んで輝くため――――並び立つもの――――と言う意味合いが強く。
かつて『幻日』の初代は、王国の“太陽”たる王家を支え“傍らに在る者”であると、自らの家門を定義したのだろう。
「準備にはどの位かかりそうですか?」
「家財も、持ち出す物も多くはない。明日には出られるだろう」
初夏故か、外は雨が降っていた。しとしとと響く雨音には何処か郷愁を誘われる。
荷造りを進めるイヴェールの祖父は、未だ矍鑠としていて年齢相応の衰えらしきものは見られない。
ある程度長期の旅程も十分こなせるだろうと、彼女はその行き先を『同盟』と見定めていた。
外道の法で以てまで“授恵者”を求めた『幻日』には、必然的に神の祝福を賜った者が多く生まれて来た。
本来百人に一人と言われる割合を完全に超過している彼らは、『王国』から旅立つとしたとて一定の余裕がある。
けれどそれでも尚、現在の『帝国』に合流出来る程の戦力は無く。治安と物資、両面で以て危険が過ぎる。
と言って大陸北東の辺境都市群に引っ越すには距離が問題、他種族の都市はこれも文化の違いが厳しい。
食糧事情では追随を許さない『王国』ほど余裕はないにせよ、『同盟』には広い受け皿と機会がある。
国を出た――――いわゆる流民の立場で、個人の才覚による成功を掴もうと思えば。大陸でこれ以上の条件は望み難い。
「しかし……まさかこの歳になってイグノ砂漠を横断する事になるとはなあ」
くつくつと笑う祖父はまるで少年の日を思い出したかの様であり。その面白がる様な仕草には若干の安堵を憶えるが。
さりとて師弟が愛したラシーヌ村の黄金の海とは、恐らく今生の別れということになるだろう。
そこに未練が無いと言えば、恐らく嘘になる。幼い頃から見続けてきたイヴェールにとっての原風景だ。
日々あくせく働き漸く実る稲穂で満ちた村の姿が好きだった。叶うなら、其処に生きる人々を護りたかった。
けれど今は、この国を護る意義が見出せない。王権が“太陽”だとするなら、彼女の『幻日』は落陽と共に地に堕ちた。
(……或いは、これも至るべくして至った答えだったのかも)
それでも、後悔はない。少なくとも確かに一つの区切りが付いた事に、ほっとしていたのも本音なのだから。
かつて見た夢は最早叶わない。しかし今を生き、これからも生きていく以上。取り返しがつかない事もそうは無い物だ。
何も知る事が出来ず、ただ額面通りに受け取るまま夢を叶えていたら。例えばそれは一見幸せだったかもしれない。
だがイヴェールは自分が決して器用な性質ではない事を知っている。その正義には、ゆとりが欠けている事を、知っている。
もしも王に剣を捧げた上で真実に触れてしまったなら、彼女は自らの主に剣を向ける他無かったろう。
そして、それを為した自分自身をすらも断じて赦せなかっただろう。それを思えば――――不運であったとも言い難い。
改めて、自らの掌を見つめる。問題はこれから……そして、新たに振って湧いた“事実”の方だ。
(――――『幻日』は、短命の血族)
過去、病死を除いてですら同血統の当主の大半が齢50を超えられない。病による死をも数えるなら、平均寿命は30半ば。
彼女は既に18を迎えている――――その呪われた血がイヴェールを蝕むならば。時はあと、10年と少々。
死が――――恐ろしいわけでは無い。命が――――惜しいわけでも、無い。ただ、心の何処かがとても寂しいと訴える。
帰郷の結果明らかになった事実は、彼女に残酷な迄の事実を突き付ける。その視線の先に見えた“終わり”は遠くない。
一方で脳裏を過ぎるのは、彼女が面識を持った人間の中でも“枠組みを超えた”とされる幾人かの人物達だ。
或いは“英雄”、或いは“魔人”、或いは“禁忌”――――それは、確かに授恵者が持つ可能性の一側面なのだろう。
これだけ実例があればもう偶然とは言えない。彼らは皆等しく“寿命”と言う概念の外側に居た。
ある剣士はあたかも王国黎明期からの記憶を有する様に振る舞い、ある魔女は二世紀以上前に没落した公爵家の当主を名乗る。
幼子の様な姿で齢50年を優に超える魔法使いも居た。人が人のまま生きられる、その頸木が抜けているとしか思えない。
それらに共通するのは、授恵者であっても確かにある筈の上限を超えた“力”だ。
イヴェールとて剣に澱を宿す位の芸当は成る。だが、だからといって抜剣一閃で城壁を両断出来たりはしない。
幾人か魔法に秀でている知人も居る。だが彼ら、彼女らが一都市を市民ごと根こそぎに出来るかと言えば不可能だろう。
それは、何か。彼女の中にも確かにある、はっきりとした越え難い壁を破壊したと言う明確な証左と言える。
(つまり――――私もまた――――その境地に至ったなら)
――――短命の呪いなど如何程の問題にもならない。生きたいだけ生きられる。別れを寂しがり足を竦ませる必要も無い。
何より、血筋や身分、立場などといった――――“人の世の枠組み”すら、きっと、意味も形も色褪せることだろう。
「――――ル。――――イヴェール」
「……! はい、どうしましたお祖父様」
「どうしたとは此方の台詞だ。雨を眺めて物思いに耽るのも良いが、そろそろ日が暮れる」
「あ……そう、ですね」
意識が何処かへ持ってかれていた自覚があるのか。僅かに恥じらう様にして窓の外から視線を外す。
故郷の風景に懐かしさは確かに憶えるが。彼女にとってその感傷は既に過ぎ去った物、置いていく物でしかなかった。
かつて両親や曾祖父らと大喧嘩の末旅立ってから、過ぎた時その物は決して長い物では無かったけれど。
そんな中でも無数の出会いが有り、幾つかの別れが有り、重ねた時間以上のものを抱え込んだ。
イヴェール・イリュジオンは“正義”の信徒である。自分自身の無力さを悔いた事も幾多有る。
助けられなかった人も居る。だからこそ、彼女はこれまで一心不乱に正しい事を為せる“力”を求めてきた。
で――――あるならば。たとえこれから帰る場所を失うのだとしても。進むべき道は変わらない。
或いは、間に合わないかもしれないと言う臆病な自分。諦観を抱く自分が居る事は理解した上で、それでも尚。
「ところでイヴェール。お前は荷造りは終わっているのかね」
祖父から掛けられた声に、はっきりと頷く。元より、故郷へ置いていった物などほんの僅かだ。
精々が、最初にこの村で抱いた始まりの夢。荷物と言うには大き過ぎて、抱え続けるには重過ぎた。
自ら捨てたわけではなくとも、これ以上引きずり続け最初のそれと見分けられない程壊してはあまりに哀しい。
別れの時が来たならば。そっと故郷へ還すのも供養と言う物ではないだろうか。
せめて前を向き、これからも正しく在る事を望もう。夢を置き去りにしても、そこだけはきちんと持っていこう。
そうしてもしも、自らの信じる“力”が血の呪いに打ち勝ったとしたなら――――
――――それはきっと、望んで至った場所の筈だから。
「はい、ずっと前に」
雨、空は生憎の曇り空。銀色の月は咽って見えず、黄金の光も射すことは無い。最初から、太陽は無かった。
けれど確かに、王国の『幻日』はこの地に在ったのだと。少女の足跡だけがそれを証明する。
1222年――――雨月の暮れ。未だ、旅の途上のことである。
――――どうも最近、自分の事以外で嘆息する事が増えた気がする。
イヴェール・イリュジオン、18歳の夏。故郷のラシーヌ村まで残り1日と言う『王国』行脚の途上。
最終日位はと借りた宿の一室。水桶を借り身を清め、寝台の上に身を横たえる。
天井掛けの洋燈に透かした指輪を見つめ。そんな事を思った矢先からまた一つ息を吐いた。
(そう、“指輪”――――)
イヴェールとて年頃の少女。その装飾品が少々特別である事は知っている。
誰かに指輪を贈るとなれば、例え同性であった所で大いに悩む事になるだろうことは決して想像に難くない。
その“意味”が。“重み”が。その一線を越えることを躊躇わせるだろう……とは、容易に思い浮かべられる範疇だ。
余程仲が良くとも。況や――――それを“異性に渡す”となれば――――と。
其処まで考えて、じっと見つめ続けていた指輪を掌に握り胸元へ寄せる。上手く思考が纏まらない。
……もやもやする。形容し難い感情だった。いや、正直北方辺境の一件以降、色々と思い悩む事が増えてはいる。
剣なり槍なりを振っていれば、ある程度物を考えなくても事が片付いてた頃は良かった。
自分で自分の正義を、自らの天秤の確からしさを信じられた間はこれほどあれこれと考えを巡らせずにいられた。
けれどいつまでもそうはいかない。彼女は自分自身の決断と。自ら決めて穢した両の手と向き合うべき時に来ていた。
その為に一度故郷へ戻る必要があった。心中穏やかでない部分は有れ、後悔しないよう覚悟して来た。
――――が、それとこれとは話が別と言うか。冷徹たらんとする自分の内側に直視出来ない感情がある。
本来、故郷へ戻ったらどうするか……を、今こそ真摯に考えないといけないタイミングで。
現在進行形で寝転がって預かり物を眺めている時点で、もう既に何かおかしいのは間違いないのだから。
と、そこではたと気付いて身を起こす。そうだ。明らかにおかしい。色々考えることはあった筈だ。
「そう、でした……先ず、戻ったら」
曾祖父の元へ行って、真実を確認して、それで……それで――――
……――――掌の指輪へ視線を落とす。本来は、宝石などが嵌められている場所に据えられた精緻な細工。
“弦月と剣”の家紋。それは北方辺境伯家直系の証明。『王国』では公爵家に次ぐ高位貴族。
世に2つしかない家紋印の指輪。その片割れが今手元にあると言う事を再確認し、その意味を考える。
没落貴族『幻日』に生を受け、自分自身をあくまで“農家の娘”と認識しているイヴェールは。
当然のように貴族教育を十分受けられる環境には無かった。貴族界隈の常識は大抵彼女にとっての非常識だ。
けれど、冒険者としての日々で幾らか貴族と接する事も。或いは貴族令嬢、令息と友誼を結ぶ事などもあり。
彼女の中には断片的な貴族についての、かなり大雑把な知識が積み上がっている。
その基準に則れば――――家紋印とは“公的にすら通じ得る身分証明証”であることが、何となく理解出来てしまう。
何せ公文書に捺す正規印だ。家族以外の人間がおいそれを手に出来る物である訳が無く――――
(――――“家族”……って!!)
何気なく考えていた中で突如浮上したその単語に、思いがけない戦慄が走る。
家族という言葉が、北方辺境伯家でどれほど重い物か。つい先日叱責してみせたイヴェールが一番良く分かっている。
その一件が有ったからこそ彼女は帰省しなければと思い至った訳であるのだし。
彼女とて、血の繋がりだけが家族を定義する物では無いと言う自分の発言に対し無責任であるつもりはない――――が。
何を罷り間違ってかその単語に自分に当て嵌めそうになった事実に、急激な羞恥が押し寄せる。
もだもだする。思わず身悶えしてしまう謎の恥ずかしさに苛まれ勢い余って北方の方角に八つ当たりしたくなる。
(いえ、いえいえいえいえいえいえ。そういう事ではないのです。一般論。そう、一般論です。それ程貴重な物と言う!)
果たして誰に言い訳しているのか自分でも良く分からないままに強く注釈を入れる物の。
ともあれ、一瞬回線が混乱した思考を立て直そうと、指輪を寝台横に置く。戦いでは冷静さを欠いた者から死ぬのだ。
しかし少なくとも。軽々に人に預けられる物ではない。果たして親しくして貰っている銀月の伯爵令嬢なら何というだろう。
ただごとではない。位の事はイヴェールにだってすら分かるのだから……
「やはり……驚かれるでしょうか」
実の所。貴族の常識に当て嵌めれば他家の人間に――——例えば婚約者ほどまで親しい間柄であったとしても。
家紋印を渡すなどと言うのは正気の沙汰ではなく。通り一辺倒の貴族なら“誰が相手であれ”有り得る行いではない。
意味合い的には、騎士が忠誠を誓う際に抜いた剣の切っ先を己の喉に。柄を自らの主へ向ける行為に等しい。
即ち、己の忠を疑うならばその柄を押して自らの命脈を絶って欲しいと言う。儀礼上では最上位と言える誓約である。
家長以外触れる事すら赦されない家も少なくはなく。夫婦で家紋印を分けて所有していたら余程固い信頼で結ばれている。
少なくとも王国社交界であればそう見られて不思議ではない――――と、備に説明されたら果たしてどうなっていたろう。
当人すら自覚無しにまた指輪を見ていたイヴェールは、不意に右手指先でその装飾を引き寄せると。
じっと自らの左手と見比べる。剣を握るに慣れた指。中指、なら丁度良さそう。薬指だと少し大きい……だろうか。
……であれば、ここはもう魔が差した――――と言うべきなのだろう。それは本当にささやかな興味本位だった。
試しに。ほんの試しに。他意は無く。好奇心に誘われて。預けられた指輪を自身の左手薬指に、通して、みようと、してみたとして。
あ、何かするっと入ってしまいそう。と思った瞬間――――不意に正気に戻って右手を左手で抑えた。
(!? !?!? !!!???)
――――わああああああああああああああああああああああああああ!!! 脳内は自我を放棄し勝手に全力で絶叫していた。
きゃあとか可愛らしい感じでは断じてなかった。脳裏一面を埋め尽くしたのは完全にわああああ!!! だった。
最早誰がと言えば自分が一番信用ならない。え、何? 今何しようとしてました? ち、ちが、ちがう、ちがいます……!
待って下さい待って下さい。違う。違う違う違う違う。そんな特別な、意味無いので。指輪と言うのは本来指に通す物で。
そう、つまり指輪の本懐とは飾るだけでは果たせない物なので。だから違います。してない。私は未だ何もしてない……っ!!!!
いまだかつてない気恥ずかしさに襲われて寝台を大いにごろごろした挙句、その際勢い余って肝心の指輪を落っことし。
宿に据えられた箪笥の影に転がっていったのを蒼褪めて必死に探し、結果心身ともに大層疲れ切ったイヴェールは。
帰郷前夜であるにも関わらず、翌日の予定を何も見定められないまま突っ伏して。翌朝までぐっすり眠りに落ちたと言う。
●『幻日』の黎明
――――始まりの百家、『幻日』は、古い家系である。文字通り、王国建国時からの生粋の貴族。
その異名である幻日とは『王国』北方で雪の日などに極々稀に見られる“日の無い場所に日が映る”と言う現象である。
その際虹の様な光彩を放ち、太陽と並んで輝くため――――並び立つもの――――と言う意味合いが強く。
かつて『幻日』の初代は、王国の“太陽”たる王家を支え“傍らに在る者”であると、自らの家門を定義したのだろう。
「準備にはどの位かかりそうですか?」
「家財も、持ち出す物も多くはない。明日には出られるだろう」
初夏故か、外は雨が降っていた。しとしとと響く雨音には何処か郷愁を誘われる。
荷造りを進めるイヴェールの祖父は、未だ矍鑠としていて年齢相応の衰えらしきものは見られない。
ある程度長期の旅程も十分こなせるだろうと、彼女はその行き先を『同盟』と見定めていた。
外道の法で以てまで“授恵者”を求めた『幻日』には、必然的に神の祝福を賜った者が多く生まれて来た。
本来百人に一人と言われる割合を完全に超過している彼らは、『王国』から旅立つとしたとて一定の余裕がある。
けれどそれでも尚、現在の『帝国』に合流出来る程の戦力は無く。治安と物資、両面で以て危険が過ぎる。
と言って大陸北東の辺境都市群に引っ越すには距離が問題、他種族の都市はこれも文化の違いが厳しい。
食糧事情では追随を許さない『王国』ほど余裕はないにせよ、『同盟』には広い受け皿と機会がある。
国を出た――――いわゆる流民の立場で、個人の才覚による成功を掴もうと思えば。大陸でこれ以上の条件は望み難い。
「しかし……まさかこの歳になってイグノ砂漠を横断する事になるとはなあ」
くつくつと笑う祖父はまるで少年の日を思い出したかの様であり。その面白がる様な仕草には若干の安堵を憶えるが。
さりとて師弟が愛したラシーヌ村の黄金の海とは、恐らく今生の別れということになるだろう。
そこに未練が無いと言えば、恐らく嘘になる。幼い頃から見続けてきたイヴェールにとっての原風景だ。
日々あくせく働き漸く実る稲穂で満ちた村の姿が好きだった。叶うなら、其処に生きる人々を護りたかった。
けれど今は、この国を護る意義が見出せない。王権が“太陽”だとするなら、彼女の『幻日』は落陽と共に地に堕ちた。
(……或いは、これも至るべくして至った答えだったのかも)
それでも、後悔はない。少なくとも確かに一つの区切りが付いた事に、ほっとしていたのも本音なのだから。
かつて見た夢は最早叶わない。しかし今を生き、これからも生きていく以上。取り返しがつかない事もそうは無い物だ。
何も知る事が出来ず、ただ額面通りに受け取るまま夢を叶えていたら。例えばそれは一見幸せだったかもしれない。
だがイヴェールは自分が決して器用な性質ではない事を知っている。その正義には、ゆとりが欠けている事を、知っている。
もしも王に剣を捧げた上で真実に触れてしまったなら、彼女は自らの主に剣を向ける他無かったろう。
そして、それを為した自分自身をすらも断じて赦せなかっただろう。それを思えば――――不運であったとも言い難い。
改めて、自らの掌を見つめる。問題はこれから……そして、新たに振って湧いた“事実”の方だ。
(――――『幻日』は、短命の血族)
過去、病死を除いてですら同血統の当主の大半が齢50を超えられない。病による死をも数えるなら、平均寿命は30半ば。
彼女は既に18を迎えている――――その呪われた血がイヴェールを蝕むならば。時はあと、10年と少々。
死が――――恐ろしいわけでは無い。命が――――惜しいわけでも、無い。ただ、心の何処かがとても寂しいと訴える。
帰郷の結果明らかになった事実は、彼女に残酷な迄の事実を突き付ける。その視線の先に見えた“終わり”は遠くない。
一方で脳裏を過ぎるのは、彼女が面識を持った人間の中でも“枠組みを超えた”とされる幾人かの人物達だ。
或いは“英雄”、或いは“魔人”、或いは“禁忌”――――それは、確かに授恵者が持つ可能性の一側面なのだろう。
これだけ実例があればもう偶然とは言えない。彼らは皆等しく“寿命”と言う概念の外側に居た。
ある剣士はあたかも王国黎明期からの記憶を有する様に振る舞い、ある魔女は二世紀以上前に没落した公爵家の当主を名乗る。
幼子の様な姿で齢50年を優に超える魔法使いも居た。人が人のまま生きられる、その頸木が抜けているとしか思えない。
それらに共通するのは、授恵者であっても確かにある筈の上限を超えた“力”だ。
イヴェールとて剣に澱を宿す位の芸当は成る。だが、だからといって抜剣一閃で城壁を両断出来たりはしない。
幾人か魔法に秀でている知人も居る。だが彼ら、彼女らが一都市を市民ごと根こそぎに出来るかと言えば不可能だろう。
それは、何か。彼女の中にも確かにある、はっきりとした越え難い壁を破壊したと言う明確な証左と言える。
(つまり――――私もまた――――その境地に至ったなら)
――――短命の呪いなど如何程の問題にもならない。生きたいだけ生きられる。別れを寂しがり足を竦ませる必要も無い。
何より、血筋や身分、立場などといった――――“人の世の枠組み”すら、きっと、意味も形も色褪せることだろう。
「――――ル。――――イヴェール」
「……! はい、どうしましたお祖父様」
「どうしたとは此方の台詞だ。雨を眺めて物思いに耽るのも良いが、そろそろ日が暮れる」
「あ……そう、ですね」
意識が何処かへ持ってかれていた自覚があるのか。僅かに恥じらう様にして窓の外から視線を外す。
故郷の風景に懐かしさは確かに憶えるが。彼女にとってその感傷は既に過ぎ去った物、置いていく物でしかなかった。
かつて両親や曾祖父らと大喧嘩の末旅立ってから、過ぎた時その物は決して長い物では無かったけれど。
そんな中でも無数の出会いが有り、幾つかの別れが有り、重ねた時間以上のものを抱え込んだ。
イヴェール・イリュジオンは“正義”の信徒である。自分自身の無力さを悔いた事も幾多有る。
助けられなかった人も居る。だからこそ、彼女はこれまで一心不乱に正しい事を為せる“力”を求めてきた。
で――――あるならば。たとえこれから帰る場所を失うのだとしても。進むべき道は変わらない。
或いは、間に合わないかもしれないと言う臆病な自分。諦観を抱く自分が居る事は理解した上で、それでも尚。
「ところでイヴェール。お前は荷造りは終わっているのかね」
祖父から掛けられた声に、はっきりと頷く。元より、故郷へ置いていった物などほんの僅かだ。
精々が、最初にこの村で抱いた始まりの夢。荷物と言うには大き過ぎて、抱え続けるには重過ぎた。
自ら捨てたわけではなくとも、これ以上引きずり続け最初のそれと見分けられない程壊してはあまりに哀しい。
別れの時が来たならば。そっと故郷へ還すのも供養と言う物ではないだろうか。
せめて前を向き、これからも正しく在る事を望もう。夢を置き去りにしても、そこだけはきちんと持っていこう。
そうしてもしも、自らの信じる“力”が血の呪いに打ち勝ったとしたなら――――
――――それはきっと、望んで至った場所の筈だから。
「はい、ずっと前に」
雨、空は生憎の曇り空。銀色の月は咽って見えず、黄金の光も射すことは無い。最初から、太陽は無かった。
けれど確かに、王国の『幻日』はこの地に在ったのだと。少女の足跡だけがそれを証明する。
1222年――――雨月の暮れ。未だ、旅の途上のことである。