血の誘惑
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年05月30日 09時21分13秒
●
リーンエス王国王都グランスパーダに程近い、とある町の冒険者ギルドにて。
初夏の陽射しがそろそろ強くなり始めてきた頃、ルアンナ・ミュラーは少し歩いただけで額に滲んできた汗をそっと拭いつつ、受付カウンターの端に立った。
受付嬢から依頼票の帳簿を受け取り、依頼完了と依頼料受領のサインを書き込む。
余り難易度の高くない依頼だった為か、依頼料は微々たるものだ。これでは路銀にもならない。ルアンナは続けて別の依頼を受けるべく、受付カウンター横の依頼票掲示板前へと歩を寄せた。
(余り、ぱっとしたのがありませんねぇ……)
冒険者としての活動を始めて、結構な月日を重ねてきたルアンナ。その実力は最早、駆け出しの頃とは大違いだ。今ならひとりで、下位吸血鬼を討伐するぐらいのことはやってのけられる。
そんなことを漠然と考えながら何枚かの依頼票を眺めていると、新たな客が玄関扉をくぐってきた。年若い青年だが、見るからに冒険者ではない。恐らく、依頼を持ち込んできた町の一般市民だろう。
青年は、クリストフと名乗った。
「実は、ちょっと調べて欲しいことがありまして……」
目の前の受付嬢に対し、カウンター越しでその様に訴えるクリストフ。
最初は余り興味をそそられなかったルアンナだが、次にクリストフが放ったひと言で意識が一変した。
「その……僕が結婚を考えている女性が、もしかしたら吸血鬼かも知れないんです」
それまで幾らかぼんやりした表情だったルアンナの美貌が、一気に緊張の色に染まった。ルアンナは掲示板の依頼票からすっかり興味を失い、クリストフの言葉だけに全神経を集中させた。
クリストフはルアンナからの視線にも気付かず、更に言葉を続けた。
「彼女の名はジャネット……とても綺麗なひとです」
幾分、自信無さそうに声をひそめるクリストフ。どうやら、件のジャネット嬢に対する疑いが単なる杞憂で済めば良いのだが、という本音が表情や声のトーンの端々から透けて見える。
誰だって、そうだろう。愛する女性が人外の魔物だなどとは、考えたくもない。
しかし、もしも己の中に芽生えた疑念が本当だったら――その様な不安を抱えるのもまた、人間の性というものだろうか。
クリストフはジャネットと付き合い始めて然程の年月を過ごした訳ではないが、心底惚れているらしい。だからこそ、己が抱いた疑念を晴らし、ジャネットの身の潔白を証明したいと望んでいる様だ。
「良かったら……詳しくお聞かせ願えますか?」
横合いから、ルアンナが静かに声を挟み込んだ。その胸元に光る記章『吸血鬼ハンターの証』を見るなり、クリストフの面はすがる様な顔色に変じた。
●
クリストフがジャネットに対して疑念を抱く様になった理由は、以下の三つ。
一点目。ジャネットとは夜にしか会えず、昼間のデートに誘っても、肌が弱くて日中は出歩けないとの理由で断られ続けていること。
二点目。ジャネットは驚く程に少食で、いつ会っても、出された料理はほんの味見程度にしか口を付けようとしない。だが決して痩せているという訳でもなく、寧ろ魅力的な程に色気たっぷりの肉付きだという。
三点目。過去に一度、クリストフが割れたグラスで誤って指を切ったのだが、出血した際、その流れ出る血をジャネットはうっとりと艶めかしい表情で見つめていた。普通ならば怪我を心配するところだろうが、ジャネットにはその様な気配はまるで見られず、物欲しそうにクリストフの血を見つめ続けていたとの由。
ここまで聞いて、ルアンナは良い観察眼をしていると、内心でクリストフを褒めた。
だが当のクリストフは決して、嬉しくはないだろう。結婚まで考えている相手を、この様な形で疑わなければならない。その一事だけでも、クリストフにとっては抱えきれない苦痛であるに違いない。
ルアンナはしかし、せめて自分だけは心を鬼にしなければならぬと腹を括った。
「もし万が一、ジャネットさんが本当に吸血鬼だった場合は……討伐しても宜しいでしょうか?」
その問いに、クリストフはしばし苦しげな表情を見せて、ただじっと黙り込んだ。恐らく、彼の中で相当に葛藤しているのだろう。どちらに転んでも、導き出された結論は苦しい筈だ。
それでも、いずれかを選ばなければならない。人生は時として、非情な選択を迫られることがある。今がまさにその時であった。
ややあって、クリストフは無言で頷いた。ジャネットを斃しても構わぬと応じた彼の面には、今にも泣き出しそうな悲哀が漂っていた。
「明日の夜、彼女とデートの約束を取り付けてあります。動くなら、その後で……」
何とか必死に声を絞り出したクリストフだが、そこから先は言葉にならなかった。
この時、ルアンナはクリストフが小さな化粧箱を握り締めていることに気付いた。指輪用の箱だった。恐らく中には、ジャネットに対するプロポーズ用の婚約指輪が収められているのではないか。
それ程の想いを寄せている相手への討伐を、認めなければならない。
クリストフの心情、察するに余りある。
●
まだ少し、時間があった。
冒険者ギルドを出たルアンナは、町の中央に鎮座する役所へと出向いた。
行方不明者が報告されていないかを、確かめる為である。
クリストフによる説明に間違いが無ければ、ジャネットはどれだけ短くても数カ月前から、この町に居座っていることになる。その間、全く血を吸わずに済ませることが出来るものだろうか。
答えは、否だ。吸血鬼である以上、必ず誰かを餌にしている筈だ。しかし今のところ、この町の冒険者ギルドに吸血鬼討伐依頼が舞い込んだという実績は無い。
これはルアンナの吸血鬼ハンターとしての勘だが、ジャネットが市井に紛れる吸血鬼ならば、居なくなったところで誰も気に留めない底辺の人間を餌に選ぶのではないか。
この町にもスラム街はあるし、下町には親兄弟を失って自力で生きるストリートチルドレンも少なくない。
狙われるとすれば、間違い無く彼等だろう。
勿論、役所が浮浪者や宿無しの子供達を正確に把握しているかは疑問である。だが、町の治安維持や人口動静把握の為に、ある程度の情報を仕入れていてもおかしくない。
そして事実、ルアンナは役所でそれらしい行方不明者が数日毎、若しくは数週間毎に報告されている事実を掴んだ。
彼らの死体が見つかったという報告も為されていない為、特に事件としては扱われていない。それ故、誰も気に留めなかったのだろう。
何の確証も得た訳では無かったが、ルアンナはジャネットが吸血鬼であると断じた。
その後、ルアンナはスラム街へと足を向けた。ジャネットがひとを襲いそうな位置を推測する為である。
到着してすぐ、至る所に死角が潜んでいることに気付いた。これなら、どこで誰が襲われても町の警備隊はおろか、住民たる浮浪者達ですら気付かないだろう。
それにしても、スラム街の浮浪者や貧民が多い下町の子供達の痩せっぷりは、少々目に余るものがある。だが同時に、ジャネットがクリストフの前で淑女を気取っている理由が、何となく分かった。
(日頃は貧相な食事に耐えているけど、たまには豪勢なディナーにありつきたい、ってなところでしょうか)
豪勢なディナーとは勿論、クリストフのことだ。
平時は栄養状態の悪い浮浪者や下町のストレートチルドレンばかりを食事にしていても、たまには健康な成人の血をたっぷりと味わいたいと願うのは、十分にあり得る話だ。
(婚約までこぎつけて、警戒心を緩めたところで喰い殺す……大方、そんなところでしょうね)
それ程の計算高い狡猾さがなければ、市井に紛れることは不可能だ。
同時にルアンナは、ひとつの確信を抱いた。
間違い無く、斃せる相手だ、と。
●
翌日の夜。
ルアンナはクリストフがジャネットをデートに誘ったというレストランがよく見える街角で、陰に紛れる様にして静かに佇んでいた。
そろそろ食事を終えてお別れのキスを交わす頃合いだろうかと、やや傾き始めた月を見上げた。それから程無くして、クリストフとジャネットが店先に姿を現した。
ジャネットは遠目に見ても分かる程の美人だ。若干化粧が厚めにも感じたが、吸血鬼が血色の悪さを誤魔化す為に偽装するなら、あれぐらい色濃く塗りたくらなければならないだろう。
やがて、ふたりは分かれた。普通は男性が女性の家まで送ってゆくのがマナーの様な気もするが、ジャネットは頑なに拒んでいる様だ。
その後、クリストフは後ろ髪を引かれる様な調子で、去り行くジャネットの後姿を見送っていた。
ここからが、ルアンナの出番だ。吸血鬼ハンターとしてのいでたちに身を包んだルアンナは、人目に触れることも無く、陰から陰へと気配を隠しつつ、ジャネットの後を追った。
(矢張り……そこへ向かいますか)
ルアンナの予想通り、ジャネットはスラム街へと足を向けていた。
普通、結婚相手が決まっている良家の淑女が、夜の食事デートを終えて、そんな物騒なところへ足を運ぶだろうか。一般人の常識から鑑みれば、どう考えても、あり得ない。
(クリストフさんの顔を見たことで、吸血への欲求が高まってしまったんですね)
これから襲われようとしている浮浪者、或いはストレートチルドレンは、喰い損なった極上ディナーの代わりといったところだろうか。
だが、そんなことはどうでも良い。ルアンナは、ジャネットの周囲に付き従う影の有無だけを注目した。
幸いなことに、それらしい影は無い。ジャネットは恐らく、己の眷属を作らない一匹狼タイプなのだろう。
ルアンナはそのまま、ジャネットの後に続いてスラム街へと滑り込んでいった。
討伐には、余り時間をかけるつもりは無かった。
ジャネットがその類稀なる美貌で老年の浮浪者を暗がりへと誘い込んだところで、ルアンナは廃屋の陰からエーテルを凝縮した一撃を浴びせた。
何事かと驚いた様子のジャネットの背後にルアンナは一気に接近。次の瞬間、ノコギリ鉈が薄闇の中で一閃した。
血飛沫が水平方向に噴き起り、ジャネットの左肩から先が失われた。
浮浪者は悲鳴をあげて逃げ出していったが、ジャネットはお構いなしに残る右腕を横薙ぎに振るった。指先には、鋭い鉤爪が伸びていた。ジャネットは背筋が凍る程の美貌の持ち主である為、その憤怒の形相はより一層、不気味さが映えた。
ルアンナはノコギリ鉈で反撃の鉤爪を受け止めた。掌を通して激しい衝撃が伝わってくる。だが、そこまでだった。
最初に左腕を斬り落としたのは正解であったろう。片腕だけならば、手数は同じ。ならば間合いと威力に優る分、ノコギリ鉈の方が有利である。
不意に、スラム街の広場付近で先程の浮浪者が喚くのが聞こえた。ジャネットは焦りの表情で、その方角に美貌を巡らせる。
その一瞬を衝いてルアンナは敵の背後に廻った。視線を戻したジャネットは、謎の襲撃者が忽然と姿を消したことに驚き、慌てた。
が、その直後にはジャネットの首は地に落ちていた。残された体躯は頭部を失った首の断面から盛大な血飛沫を上げて、倒れ伏した。
背後に廻り、魔錆で防御力が紙程に薄くなったジャネットの首を一撃で斬り落としたのである。ルアンナは魔術師ではあるが、技と戦術を駆使すれば接近戦でも対吸血鬼戦に勝利し得ることを証明してみせた。
(下手に欲を出したのが、失敗でしたね)
ルアンナは騒ぎになる前に、スラム街を後にした。浮浪者はルアンナの顔を見ていない為、ジャネットが誰に殺害されたのかも結局、分からないままだった。
翌朝、冒険者ギルドにクリストフが姿を現した。
ルアンナは仮眠がてら、受付カウンター横の休憩エリアに設置されたソファーで微睡んでいた。
僅かに返り血を浴びたルアンナの姿を見て、クリストフは全てを察したらしい。不安げだった面が、見る見るうちに泣き顔へと崩れていった。
「ジャネットは……吸血鬼だったんですね」
「はい、残念ながら」
努めて無表情に、ルアンナは頷き返した。
クリストフは既にそうと予測していたのか、件の婚約指輪を売り払った代金を、依頼料に充てた。
リーンエス王国王都グランスパーダに程近い、とある町の冒険者ギルドにて。
初夏の陽射しがそろそろ強くなり始めてきた頃、ルアンナ・ミュラーは少し歩いただけで額に滲んできた汗をそっと拭いつつ、受付カウンターの端に立った。
受付嬢から依頼票の帳簿を受け取り、依頼完了と依頼料受領のサインを書き込む。
余り難易度の高くない依頼だった為か、依頼料は微々たるものだ。これでは路銀にもならない。ルアンナは続けて別の依頼を受けるべく、受付カウンター横の依頼票掲示板前へと歩を寄せた。
(余り、ぱっとしたのがありませんねぇ……)
冒険者としての活動を始めて、結構な月日を重ねてきたルアンナ。その実力は最早、駆け出しの頃とは大違いだ。今ならひとりで、下位吸血鬼を討伐するぐらいのことはやってのけられる。
そんなことを漠然と考えながら何枚かの依頼票を眺めていると、新たな客が玄関扉をくぐってきた。年若い青年だが、見るからに冒険者ではない。恐らく、依頼を持ち込んできた町の一般市民だろう。
青年は、クリストフと名乗った。
「実は、ちょっと調べて欲しいことがありまして……」
目の前の受付嬢に対し、カウンター越しでその様に訴えるクリストフ。
最初は余り興味をそそられなかったルアンナだが、次にクリストフが放ったひと言で意識が一変した。
「その……僕が結婚を考えている女性が、もしかしたら吸血鬼かも知れないんです」
それまで幾らかぼんやりした表情だったルアンナの美貌が、一気に緊張の色に染まった。ルアンナは掲示板の依頼票からすっかり興味を失い、クリストフの言葉だけに全神経を集中させた。
クリストフはルアンナからの視線にも気付かず、更に言葉を続けた。
「彼女の名はジャネット……とても綺麗なひとです」
幾分、自信無さそうに声をひそめるクリストフ。どうやら、件のジャネット嬢に対する疑いが単なる杞憂で済めば良いのだが、という本音が表情や声のトーンの端々から透けて見える。
誰だって、そうだろう。愛する女性が人外の魔物だなどとは、考えたくもない。
しかし、もしも己の中に芽生えた疑念が本当だったら――その様な不安を抱えるのもまた、人間の性というものだろうか。
クリストフはジャネットと付き合い始めて然程の年月を過ごした訳ではないが、心底惚れているらしい。だからこそ、己が抱いた疑念を晴らし、ジャネットの身の潔白を証明したいと望んでいる様だ。
「良かったら……詳しくお聞かせ願えますか?」
横合いから、ルアンナが静かに声を挟み込んだ。その胸元に光る記章『吸血鬼ハンターの証』を見るなり、クリストフの面はすがる様な顔色に変じた。
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クリストフがジャネットに対して疑念を抱く様になった理由は、以下の三つ。
一点目。ジャネットとは夜にしか会えず、昼間のデートに誘っても、肌が弱くて日中は出歩けないとの理由で断られ続けていること。
二点目。ジャネットは驚く程に少食で、いつ会っても、出された料理はほんの味見程度にしか口を付けようとしない。だが決して痩せているという訳でもなく、寧ろ魅力的な程に色気たっぷりの肉付きだという。
三点目。過去に一度、クリストフが割れたグラスで誤って指を切ったのだが、出血した際、その流れ出る血をジャネットはうっとりと艶めかしい表情で見つめていた。普通ならば怪我を心配するところだろうが、ジャネットにはその様な気配はまるで見られず、物欲しそうにクリストフの血を見つめ続けていたとの由。
ここまで聞いて、ルアンナは良い観察眼をしていると、内心でクリストフを褒めた。
だが当のクリストフは決して、嬉しくはないだろう。結婚まで考えている相手を、この様な形で疑わなければならない。その一事だけでも、クリストフにとっては抱えきれない苦痛であるに違いない。
ルアンナはしかし、せめて自分だけは心を鬼にしなければならぬと腹を括った。
「もし万が一、ジャネットさんが本当に吸血鬼だった場合は……討伐しても宜しいでしょうか?」
その問いに、クリストフはしばし苦しげな表情を見せて、ただじっと黙り込んだ。恐らく、彼の中で相当に葛藤しているのだろう。どちらに転んでも、導き出された結論は苦しい筈だ。
それでも、いずれかを選ばなければならない。人生は時として、非情な選択を迫られることがある。今がまさにその時であった。
ややあって、クリストフは無言で頷いた。ジャネットを斃しても構わぬと応じた彼の面には、今にも泣き出しそうな悲哀が漂っていた。
「明日の夜、彼女とデートの約束を取り付けてあります。動くなら、その後で……」
何とか必死に声を絞り出したクリストフだが、そこから先は言葉にならなかった。
この時、ルアンナはクリストフが小さな化粧箱を握り締めていることに気付いた。指輪用の箱だった。恐らく中には、ジャネットに対するプロポーズ用の婚約指輪が収められているのではないか。
それ程の想いを寄せている相手への討伐を、認めなければならない。
クリストフの心情、察するに余りある。
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まだ少し、時間があった。
冒険者ギルドを出たルアンナは、町の中央に鎮座する役所へと出向いた。
行方不明者が報告されていないかを、確かめる為である。
クリストフによる説明に間違いが無ければ、ジャネットはどれだけ短くても数カ月前から、この町に居座っていることになる。その間、全く血を吸わずに済ませることが出来るものだろうか。
答えは、否だ。吸血鬼である以上、必ず誰かを餌にしている筈だ。しかし今のところ、この町の冒険者ギルドに吸血鬼討伐依頼が舞い込んだという実績は無い。
これはルアンナの吸血鬼ハンターとしての勘だが、ジャネットが市井に紛れる吸血鬼ならば、居なくなったところで誰も気に留めない底辺の人間を餌に選ぶのではないか。
この町にもスラム街はあるし、下町には親兄弟を失って自力で生きるストリートチルドレンも少なくない。
狙われるとすれば、間違い無く彼等だろう。
勿論、役所が浮浪者や宿無しの子供達を正確に把握しているかは疑問である。だが、町の治安維持や人口動静把握の為に、ある程度の情報を仕入れていてもおかしくない。
そして事実、ルアンナは役所でそれらしい行方不明者が数日毎、若しくは数週間毎に報告されている事実を掴んだ。
彼らの死体が見つかったという報告も為されていない為、特に事件としては扱われていない。それ故、誰も気に留めなかったのだろう。
何の確証も得た訳では無かったが、ルアンナはジャネットが吸血鬼であると断じた。
その後、ルアンナはスラム街へと足を向けた。ジャネットがひとを襲いそうな位置を推測する為である。
到着してすぐ、至る所に死角が潜んでいることに気付いた。これなら、どこで誰が襲われても町の警備隊はおろか、住民たる浮浪者達ですら気付かないだろう。
それにしても、スラム街の浮浪者や貧民が多い下町の子供達の痩せっぷりは、少々目に余るものがある。だが同時に、ジャネットがクリストフの前で淑女を気取っている理由が、何となく分かった。
(日頃は貧相な食事に耐えているけど、たまには豪勢なディナーにありつきたい、ってなところでしょうか)
豪勢なディナーとは勿論、クリストフのことだ。
平時は栄養状態の悪い浮浪者や下町のストレートチルドレンばかりを食事にしていても、たまには健康な成人の血をたっぷりと味わいたいと願うのは、十分にあり得る話だ。
(婚約までこぎつけて、警戒心を緩めたところで喰い殺す……大方、そんなところでしょうね)
それ程の計算高い狡猾さがなければ、市井に紛れることは不可能だ。
同時にルアンナは、ひとつの確信を抱いた。
間違い無く、斃せる相手だ、と。
●
翌日の夜。
ルアンナはクリストフがジャネットをデートに誘ったというレストランがよく見える街角で、陰に紛れる様にして静かに佇んでいた。
そろそろ食事を終えてお別れのキスを交わす頃合いだろうかと、やや傾き始めた月を見上げた。それから程無くして、クリストフとジャネットが店先に姿を現した。
ジャネットは遠目に見ても分かる程の美人だ。若干化粧が厚めにも感じたが、吸血鬼が血色の悪さを誤魔化す為に偽装するなら、あれぐらい色濃く塗りたくらなければならないだろう。
やがて、ふたりは分かれた。普通は男性が女性の家まで送ってゆくのがマナーの様な気もするが、ジャネットは頑なに拒んでいる様だ。
その後、クリストフは後ろ髪を引かれる様な調子で、去り行くジャネットの後姿を見送っていた。
ここからが、ルアンナの出番だ。吸血鬼ハンターとしてのいでたちに身を包んだルアンナは、人目に触れることも無く、陰から陰へと気配を隠しつつ、ジャネットの後を追った。
(矢張り……そこへ向かいますか)
ルアンナの予想通り、ジャネットはスラム街へと足を向けていた。
普通、結婚相手が決まっている良家の淑女が、夜の食事デートを終えて、そんな物騒なところへ足を運ぶだろうか。一般人の常識から鑑みれば、どう考えても、あり得ない。
(クリストフさんの顔を見たことで、吸血への欲求が高まってしまったんですね)
これから襲われようとしている浮浪者、或いはストレートチルドレンは、喰い損なった極上ディナーの代わりといったところだろうか。
だが、そんなことはどうでも良い。ルアンナは、ジャネットの周囲に付き従う影の有無だけを注目した。
幸いなことに、それらしい影は無い。ジャネットは恐らく、己の眷属を作らない一匹狼タイプなのだろう。
ルアンナはそのまま、ジャネットの後に続いてスラム街へと滑り込んでいった。
討伐には、余り時間をかけるつもりは無かった。
ジャネットがその類稀なる美貌で老年の浮浪者を暗がりへと誘い込んだところで、ルアンナは廃屋の陰からエーテルを凝縮した一撃を浴びせた。
何事かと驚いた様子のジャネットの背後にルアンナは一気に接近。次の瞬間、ノコギリ鉈が薄闇の中で一閃した。
血飛沫が水平方向に噴き起り、ジャネットの左肩から先が失われた。
浮浪者は悲鳴をあげて逃げ出していったが、ジャネットはお構いなしに残る右腕を横薙ぎに振るった。指先には、鋭い鉤爪が伸びていた。ジャネットは背筋が凍る程の美貌の持ち主である為、その憤怒の形相はより一層、不気味さが映えた。
ルアンナはノコギリ鉈で反撃の鉤爪を受け止めた。掌を通して激しい衝撃が伝わってくる。だが、そこまでだった。
最初に左腕を斬り落としたのは正解であったろう。片腕だけならば、手数は同じ。ならば間合いと威力に優る分、ノコギリ鉈の方が有利である。
不意に、スラム街の広場付近で先程の浮浪者が喚くのが聞こえた。ジャネットは焦りの表情で、その方角に美貌を巡らせる。
その一瞬を衝いてルアンナは敵の背後に廻った。視線を戻したジャネットは、謎の襲撃者が忽然と姿を消したことに驚き、慌てた。
が、その直後にはジャネットの首は地に落ちていた。残された体躯は頭部を失った首の断面から盛大な血飛沫を上げて、倒れ伏した。
背後に廻り、魔錆で防御力が紙程に薄くなったジャネットの首を一撃で斬り落としたのである。ルアンナは魔術師ではあるが、技と戦術を駆使すれば接近戦でも対吸血鬼戦に勝利し得ることを証明してみせた。
(下手に欲を出したのが、失敗でしたね)
ルアンナは騒ぎになる前に、スラム街を後にした。浮浪者はルアンナの顔を見ていない為、ジャネットが誰に殺害されたのかも結局、分からないままだった。
翌朝、冒険者ギルドにクリストフが姿を現した。
ルアンナは仮眠がてら、受付カウンター横の休憩エリアに設置されたソファーで微睡んでいた。
僅かに返り血を浴びたルアンナの姿を見て、クリストフは全てを察したらしい。不安げだった面が、見る見るうちに泣き顔へと崩れていった。
「ジャネットは……吸血鬼だったんですね」
「はい、残念ながら」
努めて無表情に、ルアンナは頷き返した。
クリストフは既にそうと予測していたのか、件の婚約指輪を売り払った代金を、依頼料に充てた。