学級裁判 ~整理整頓清掃清潔躾~
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年05月04日 10時18分14秒
●
パンクリアース学園二年次学級の、ゲルトが所属するクラス。
放課後を迎えたその教室内は、平時であれば生徒の姿も閑散としている筈であったが、この日は違った。
リーンエス王国シトリン男爵の令嬢クリステルが起こした、窃盗容疑の学級裁判。その審理が、執り行われていたのである。
教室の前半分に法廷の様な形で机と椅子を配置し、被告人席にはゲルトが、そして検察席にはリーンエス王国フォルマー伯爵家の嫡男アンゼルムがそれぞれ腰を落ち着けた。
教壇には裁判長役として、某侯爵子息の男子生徒が座っている。この裁判長役の男子生徒は、クラスの誰からも公平な感覚の持ち主であると信頼されており、今回の学級裁判でも、アンゼルム自らが指名して裁判長役に抜擢していた。
アンゼルムとしては正々堂々、公平な裁判でゲルトを打ち負かし、そしてこの緑色の肌を持つゴブリンを神聖なるパンクリアースの敷地から叩き出してやろうと画策していたのである。
尤も、本来であればパンクリアース学園生徒には司法権も裁判権も与えられていない。この日行われている学級裁判も、法的には何の根拠も無く、この場で何らかの判決が下されたからといって、被告人はその判決内容に従う必要も無い。
にも関わらず、被告人ゲルトはこの学級裁判を受けて立つことにした。
クリステルが担任教師から借りたという大事な文献をゲルトが盗んだという濡れ衣に対し、皆の前で堂々と潔白を証明したい。そうしなければもう二度と、この学び舎の門をくぐることが出来ない。
少なくともゲルトは、その様に考えた。今ここで逃げてしまっては、絶対に後悔する。その想いが、ゲルトを法廷勝負に掻き立てたといって良い。
そして現在。
審理は一時中断し、10分間の休憩に入っている。
裁判開始当初は証言台に立ったクリステルからの証言を得て、検察役アンゼルムがゲルトを攻め立てるという構図に終始した。
途中、ゲルトがクリステルの証言に対し疑問点を抱き、その矛盾を突くという反撃に出たものの、結局それは失敗に終わり、攻防逆転には至らなかった。
いよいよ以って窮地に陥ろうとしていたゲルトを救ったのは、クラスメイトで平民出身の女子生徒エミリー・バレンタインであった。
エミリーが女子トイレに忘れていたハンカチが、クリステルの証言に疑義を生じせしめたのである。
「ねぇクリステルさん。事件があった日、あなたホントに、トイレに居たの?」
証言台ではなく、敢えて被告人席に陣取ったエミリーがクリステルに放ったこのひと言が、全てを振り出しに戻した。
アンゼルムはクリステルの態度に異変を感じ、裁判長役の男子生徒に申し入れて、10分間の休憩を取ることにしたのである。
しかし、ゲルトの胸中には裁判開始当初の様な暗鬱とした空気は漂っていない。寧ろ、逆転勝利への希望の光が兆し始めていた。
勝負は、ここからだ――ゲルトは、表情を引き締めた。敗勢に傾きつつあった己の弱気を一切廃し、必ず勝ち切ってやるという意思を抱いて審理再開に臨む決意であった。
●
一時的に法廷スタイルの配置となっている教室内だが、休憩時間の間は傍聴者と化していた他の生徒達も教室内や廊下を自由に行き交っている。
そんな中で、ゲルトとエミリーは改めて今回の事件の背景に思考を巡らせていた。
クリステルがトイレ掃除をサボっていたことが事実なら、掃除の時間中に文献が盗まれたという訴えそのものが成立しないし、トイレの前に鞄は無かったというゲルトの記憶とも一致する。
では、クリステルがゲルトを窃盗犯に仕立て上げてまで、この様な訴えに踏み切った理由とは如何なるものなのか。
必ず何か理由がある筈だ。どの様な犯罪にも動機が存在するのと同じで、クリステルがゲルトを陥れようとした行為にも、彼女なりの事情があると考えて然るべきであろう。
と、ここでゲルトはある男子生徒を手招きして呼び寄せた。事件当日、ゲルトと一緒に掃除当番に当たっていた、あの男子生徒である。
「なぁ、頼みがあるんだが」
「ん? 何? 俺にも出来そうなことか?」
その男子生徒は、最初からゲルトに協力する気でいたらしい。嫌な顔ひとつ見せず、ゲルトの頼みを素直に聞いてやろうという姿勢が伺えた。
「ちょっと、大図書館まで走ってくれないか。あることを、調べてきて欲しいんだ」
「良いよ。任せてくれ。戻ってくるのは、休憩時間が終わってからになっちゃうけどな」
件の男子生徒は大急ぎで教室を飛び出していった。
その彼と入れ替わる様にして、アンゼルムとクリステルが別室から引き返してきた。ふたりとも、その表情には緊張の色が濃い。学級裁判開始当初の勝ち誇った様子は、微塵にも感じられなかった。
ふたりのあの様子では、作戦会議は思った様には進まなかったのかも知れない。
だがゲルトは、敢えてアンゼルムとクリステルの表情を気にかけない様にした。あのふたりが如何なるいい分を用意してきたとしても、ゲルトは己が導き出した推論を信じて真っ直ぐ突き進むのみである。
最早、この期に及んで迷っている場合ではなかった。
そして、10分間の休憩時間が終了した。
アンゼルムが検察人席に着席し、クリステルも証言台の椅子に腰を落ち着けたところで、裁判長役の男子生徒が審理再開を宣言した。
そしてここでゲルトが誰よりも早く、手を挙げた。アンゼルムが何かを仕掛けてくる前に、こちらから起死回生の一撃を叩き込んでやる為だ。
「裁判長、審理再開の前にひとつ、良いですか?」
「はい、伺いましょう」
許可を得たゲルトはゆっくりと立ち上がり、証言台で表情を強張らせているクリステルに一瞥を与えてから、大胆不敵な台詞を放った。
「では申し上げます。わたくしゲルトは、今証言台に座っているクリステル・シトリン嬢を逆告訴致します。罪状は偽証、及び詐欺。更には学園所有文献紛失という罪状も加わるかも知れませんが、これは確証を得てからに致します」
「何だと?」
驚いて立ち上がったのは、アンゼルムであった。クリステルは証言台で凍り付いたまま、ひと言も発することが出来ない。
●
教室内は、一気にざわつき始めた。
傍聴者としてこの学級裁判の行方を見守っていた他のクラスメイト達は、思わぬ展開に冷静ではいられなくなっていた。
「……どういう論拠があるのか、聞かせてもらおうじゃないか」
しかしアンゼルムは、ゲルトを不敬だと斬って捨てる様な真似はしなかった。
飽くまでも公平な裁判を、というのがアンゼルムの矜持でもあったからだ。公平な裁判を貫き通した上でゲルトを叩きのめし、学園から追放する。それが、アンゼルムが構築したプランだったのである。
「クリステルさんは確かな証拠も無いまま、ゲルト君を窃盗罪で訴えました。逆をいえば、ゲルト君の論拠に筋が通っているなら逆告訴も有効です。それで良いですね?」
裁判長役の男子生徒は淡々と告げた。アンゼルムは自らが任じた裁判長役であるだけに、ぐうの音も返せなかった。
「では申し上げます。逆告訴に至った推論は、次の通りです」
ゲルトは努めて感情を抑えて、静かに語り始めた。
曰く、そもそも窃盗事件など発生していない。これは全てクリステルが保身の為に起こした狂言に過ぎない、と。
クリステルがゲルトを犯人役として事件をでっち上げたのは、ある事実を隠す為。
それは、借用した文献を紛失した、もしくは破損なり汚すなりして返却出来ない状態にしてしまった、ということではないのか。
トイレ掃除に来なかったのは恐らく文献を探す、もしくは修復を試みる等でぎりぎりまで時間を使い、粘りに粘っていたのだろうが、結局は上手くいかなかったと推察される。
学園所有の文献貸出を許可した担任教師は、備品管理に関しては凄まじく厳しい。まかり間違っても、貴重な文献を紛失したなどとはいえず、もし知られてしまえば強く叱責されることは間違いない。
今は偶々実家の都合で学園を離れているが、担任教師は明日には戻ってくる。それまでに文献の返却が叶わなければ、それ相応の釈明が必要となるだろう。
そして昨日。
クリステルは自身とゲルトが掃除当番で、更にもうひとりの女子トイレ清掃登板の生徒が休みという都合の良い状況が出来ていたことを利用しない手は無いと考えた。
即ち、己の失態をゲルトに押し付けようとした、という訳である。
「それは……推測の域を……」
そこまでいいかけて、アンゼルムは口を閉じた。
既にクリステル本人が、実は女子トイレの掃除には入っていなかったという事実が突きつけられている上に、クリステルがゲルトを窃盗犯だといい始めたのも、それ自体が推論どころかただのでっち上げだという結論がほぼ確定しつつある。
そんな状況で、アンゼルムはゲルトの告発内容だけが事実無根だと決めつけることが出来なかった。そんなことをいってしまえば、彼が掲げる公平性が一瞬にして崩れ落ちてしまうのである。
正直、アンゼルムは内心で大いに焦っていた。このままでは、負ける。だが、矜持を捻じ曲げてまでゲルトに反撃しようという行為は、己のプライドが許さない様であった。
●
重苦しい沈黙が漂い始めた教室。誰も、口を開こうとはしない。
するとそこへ、ゲルトの頼みを聞いて大図書館に走っていた男子生徒が引き返してきた。
「裏、取れたよー。あの日、クリステルさんは大図書館には来てなかったってさー」
どこかあっけらかんとした軽い調子に、教室内は更なる緊張感に覆い尽くされたが、ゲルトとエミリーだけは何ともいえない苦笑を浮かべた。
だが、男子生徒の報告はそれだけにはとどまらなかった。
「あぁそれから、クリステルさん前科あるんだって? 何かさ、大図書館の司書さんがぶつぶつ文句いってたっけ。前にも大図書館所蔵の資料本を紛失したことがあるみたいじゃん」
これが、決定打となった。
矢張りそういうことか――ゲルトとエミリーが抱いていた疑惑は今この瞬間、確信へと変わった。
大図書館所蔵の資料本に続いて倉庫の文献も、となれば、もう後が無い。司書の話によれば、大図書館所蔵の資料本はシトリン男爵家が弁償することで事無きを得たらしい。
だが、今回で二度目だ。最早弁解の余地は無い。クリステルは実家から大目玉を喰らう、という程度の話では済まなくなるだろう。
ここでアンゼルムが気力を奮い立たせて、必死に声を上げた。
「そ、その前科とやらは、本件の審理とは関係無いだろう。裁判長、先程飛び込んできた情報は、参考にはしないで貰いたい……」
しかしアンゼルムの台詞は、そこで途切れた。
証言台のクリステルが泣きながら、もう良いです、といって彼を止めたのである。どうやらクリステルは、最早いい逃れは出来ぬと観念した様子だった。
ゲルトは何となく拍子抜けした様に、木椅子に腰を下ろした。
(何ともお粗末な話だな……オレを陥れるなら、せめて自分のアリバイぐらい、しっかり用意しとこうよ)
クリステルの余りに杜撰な手口に、ゲルトは怒りを覚えるよりも、ただ呆れた。貴族といえば陰謀と詐術が渦巻く世界だというのがゲルトの持つ印象だったが、今回のクリステルの告発は、兎に角穴が多い。
それだけ、本来の貴族の世界――大人の世界、といい換えても良い――には全く慣れていない、ということであろうか。
ところが、どういう訳か傍らのエミリーは泣きじゃくるクリステルに憤怒の視線を叩きつけていた。
何をそんなに怒っているのかと訊くと、思わぬひと言が返ってきた。
「だってクリステルさん、女子トイレの掃除、サボってたんだよ? そんなこと、許される?」
「え……怒るとこ、そこなのか?」
エミリーの意外な一面を見た様な気がしたゲルトだったが、学級裁判そのものは、もうこれで終わりで良いとも思っていた。
「クリステルさん、ゲルト君への告訴は取り下げますか?」
裁判長役の男子生徒が訊いた。クリステルはハンカチで顔を押さえたまま、小さく頷き返した。
すると、今度はアンゼルムが検察席を立って被告席に足を運んできた。
「ゴブリン、どうする? 貴様が告訴を取り下げなければ、私は貴様と共に彼女を追及することになる」
全く予想外の方向に話が転がり始めた。
そもそもアンゼルムはゲルトをパンクリアース学園から追い出す為に、検察役を自任したのである。
しかし事態は思わぬ展開を見せ、アンゼルムは立場上、告発人であるゲルトに味方し、被告人たるクリステルを追及しなければならないというおかしな事態になり始めた。
これは流石に、アンゼルムも予期し得なかったことだろう。
アンゼルムの疲れ切った様子に、ゲルトは何ともいえぬ表情を浮かべた。それから再び、証言台に視線を送った。今更クリステルを責めたところで、何の意味も見出せなかった。
彼女は全てを認めているのである。
既にゲルトの無罪は確定しており、アンゼルムに至ってはクリステルに良い様に踊らされたという印象を全クラスメイトに植え付けてしまった。彼の精神的、立場的な打撃は計り知れないだろう。
だが、本当にこれで終わりにしてしまって良いのだろうか。
「告訴は取り下げる。ただ、文献はやっぱり見つけなきゃいけないな」
ゲルトは再び、立ち上がった。
クリステルが紛失した文献は、学園にとっては貴重な財産だ。いずれはゲルトにとっても、何か有益な情報をもたらすことになったかも知れない。
このまま放っておいて良い筈が無かった。
アンゼルムも異論は無いと頷き返し、次いでクリステルに神妙な面を向けた。
●
未だざわめきが収まらない教室内だが、ゲルトはひとつ咳ばらいを入れて、クラスメイト達からの注目を自身に向けさせた。
「ひとつ提案なんだが……やっぱり文献が紛失したままってのは、拙いと思う。クリステルさんが捨てていないなら、絶対どこかにある筈だ」
だから女子生徒に協力して貰って、寮室を家探ししてみてはどうか、とゲルトは提案してみせた。
それは悪くないと、裁判長役の男子生徒が改めて打診してみたが、どういう訳かクリステルは先程までの泣きじゃくっていた悲しそうな表情から一転し、酷く狼狽した顔つきになっていた。
「え、いや、その、わ、わたくしの部屋は、そのですね、何といいますか……」
妙にしどろもどろな調子で、やたらと渋りまくるクリステル。アンゼルムも、ここはゲルトの提案に従った方が良いと言葉を重ねるが、それでもクリステルは首を縦に振ろうとはしなかった。
するとエミリーが轟然たる勢いで立ち上がった。相当にしびれを切らしたらしい。
「あのさ……先生達に怒られるの嫌なんでしょ! ぐだぐだいってないで、行くわよ!」
エミリーは友人の女子生徒数名と共に、クリステルを証言台から無理矢理引きずり出す様な格好で貴族寮へと突き進んでいった。
それから、小一時間後。
法廷風から本来の配置へと机と椅子の位置をクラス全員で戻しているところへ、エミリーとクリステル達が引き返してきた。
文献は無事に見つかったというエミリーの報告に、ゲルトやアンゼルムのみならず、他のクラスメイト達も心の底から安堵の表情を浮かべた。
が、エミリーだけは未だ渋い表情のままである。
何があったのかと訊くと、エミリーはすっかり恐縮してしまっているクリステルをじろりと一瞥してから、大きな溜息を漏らした。
「もう、本当に酷い有様だったんだから。壮絶とか、そんな言葉じゃ足りないくらい」
曰く、クリステルの寮室は色々な物が溜まりに溜まって、どこに何があるのかがさっぱり分からない状態だったのだという。
「そりゃね、あんな状況じゃあ物が無くなるのも当然よね」
所謂、汚部屋と呼ぶべき状況だったらしい。それでも何だかんだで文献を発見出来たのだから、これで一件落着といったところか。
しかしエミリーはあの惨状をそのまま捨て置くことは出来ず、後日改めて、クリステルに掃除のいろはを伝授すると宣言した。
そんなに凄かったのか――半ば呆然と佇むゲルトだが、いつの間にかその隣にアンゼルムの姿があった。
「彼女、相変わらずだな。モップや箒を持ったらひとが変わる性格は、母親譲りなんだろうな」
「エミリーとは、元々知り合いだったのか?」
アンゼルムからの思わぬ告白に、ゲルトは驚きを禁じ得ない。アンゼルムは小さく肩を竦めた。
曰く、エミリーの母親はフォルマー家に仕えるメイド長で、エミリーとも以前からの顔見知りだった。そしてエミリー母のメイド長には整理整頓清掃云々で色々厳しくいわれ続けてきたこともあり、何となくエミリーに対しても苦手意識があったとの由。
(成程、だからエミリーが俺に助け舟を出してきた時も、アンゼルムは黙っていたのか)
ゲルトは漸く、合点がいった。
「せめてもの忠告だ……彼女と友人になるなら、部屋は綺麗に片付けておけ」
それだけいい残して、アンゼルムは教室を辞していった。
あれだけ嫌っていたゲルトにその様な忠告を与えるということは、アンゼルムも過去に余程の目に遭ったのかも知れない。
ゲルトはただ、乾いた笑いを漏らすしか無かった。
パンクリアース学園二年次学級の、ゲルトが所属するクラス。
放課後を迎えたその教室内は、平時であれば生徒の姿も閑散としている筈であったが、この日は違った。
リーンエス王国シトリン男爵の令嬢クリステルが起こした、窃盗容疑の学級裁判。その審理が、執り行われていたのである。
教室の前半分に法廷の様な形で机と椅子を配置し、被告人席にはゲルトが、そして検察席にはリーンエス王国フォルマー伯爵家の嫡男アンゼルムがそれぞれ腰を落ち着けた。
教壇には裁判長役として、某侯爵子息の男子生徒が座っている。この裁判長役の男子生徒は、クラスの誰からも公平な感覚の持ち主であると信頼されており、今回の学級裁判でも、アンゼルム自らが指名して裁判長役に抜擢していた。
アンゼルムとしては正々堂々、公平な裁判でゲルトを打ち負かし、そしてこの緑色の肌を持つゴブリンを神聖なるパンクリアースの敷地から叩き出してやろうと画策していたのである。
尤も、本来であればパンクリアース学園生徒には司法権も裁判権も与えられていない。この日行われている学級裁判も、法的には何の根拠も無く、この場で何らかの判決が下されたからといって、被告人はその判決内容に従う必要も無い。
にも関わらず、被告人ゲルトはこの学級裁判を受けて立つことにした。
クリステルが担任教師から借りたという大事な文献をゲルトが盗んだという濡れ衣に対し、皆の前で堂々と潔白を証明したい。そうしなければもう二度と、この学び舎の門をくぐることが出来ない。
少なくともゲルトは、その様に考えた。今ここで逃げてしまっては、絶対に後悔する。その想いが、ゲルトを法廷勝負に掻き立てたといって良い。
そして現在。
審理は一時中断し、10分間の休憩に入っている。
裁判開始当初は証言台に立ったクリステルからの証言を得て、検察役アンゼルムがゲルトを攻め立てるという構図に終始した。
途中、ゲルトがクリステルの証言に対し疑問点を抱き、その矛盾を突くという反撃に出たものの、結局それは失敗に終わり、攻防逆転には至らなかった。
いよいよ以って窮地に陥ろうとしていたゲルトを救ったのは、クラスメイトで平民出身の女子生徒エミリー・バレンタインであった。
エミリーが女子トイレに忘れていたハンカチが、クリステルの証言に疑義を生じせしめたのである。
「ねぇクリステルさん。事件があった日、あなたホントに、トイレに居たの?」
証言台ではなく、敢えて被告人席に陣取ったエミリーがクリステルに放ったこのひと言が、全てを振り出しに戻した。
アンゼルムはクリステルの態度に異変を感じ、裁判長役の男子生徒に申し入れて、10分間の休憩を取ることにしたのである。
しかし、ゲルトの胸中には裁判開始当初の様な暗鬱とした空気は漂っていない。寧ろ、逆転勝利への希望の光が兆し始めていた。
勝負は、ここからだ――ゲルトは、表情を引き締めた。敗勢に傾きつつあった己の弱気を一切廃し、必ず勝ち切ってやるという意思を抱いて審理再開に臨む決意であった。
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一時的に法廷スタイルの配置となっている教室内だが、休憩時間の間は傍聴者と化していた他の生徒達も教室内や廊下を自由に行き交っている。
そんな中で、ゲルトとエミリーは改めて今回の事件の背景に思考を巡らせていた。
クリステルがトイレ掃除をサボっていたことが事実なら、掃除の時間中に文献が盗まれたという訴えそのものが成立しないし、トイレの前に鞄は無かったというゲルトの記憶とも一致する。
では、クリステルがゲルトを窃盗犯に仕立て上げてまで、この様な訴えに踏み切った理由とは如何なるものなのか。
必ず何か理由がある筈だ。どの様な犯罪にも動機が存在するのと同じで、クリステルがゲルトを陥れようとした行為にも、彼女なりの事情があると考えて然るべきであろう。
と、ここでゲルトはある男子生徒を手招きして呼び寄せた。事件当日、ゲルトと一緒に掃除当番に当たっていた、あの男子生徒である。
「なぁ、頼みがあるんだが」
「ん? 何? 俺にも出来そうなことか?」
その男子生徒は、最初からゲルトに協力する気でいたらしい。嫌な顔ひとつ見せず、ゲルトの頼みを素直に聞いてやろうという姿勢が伺えた。
「ちょっと、大図書館まで走ってくれないか。あることを、調べてきて欲しいんだ」
「良いよ。任せてくれ。戻ってくるのは、休憩時間が終わってからになっちゃうけどな」
件の男子生徒は大急ぎで教室を飛び出していった。
その彼と入れ替わる様にして、アンゼルムとクリステルが別室から引き返してきた。ふたりとも、その表情には緊張の色が濃い。学級裁判開始当初の勝ち誇った様子は、微塵にも感じられなかった。
ふたりのあの様子では、作戦会議は思った様には進まなかったのかも知れない。
だがゲルトは、敢えてアンゼルムとクリステルの表情を気にかけない様にした。あのふたりが如何なるいい分を用意してきたとしても、ゲルトは己が導き出した推論を信じて真っ直ぐ突き進むのみである。
最早、この期に及んで迷っている場合ではなかった。
そして、10分間の休憩時間が終了した。
アンゼルムが検察人席に着席し、クリステルも証言台の椅子に腰を落ち着けたところで、裁判長役の男子生徒が審理再開を宣言した。
そしてここでゲルトが誰よりも早く、手を挙げた。アンゼルムが何かを仕掛けてくる前に、こちらから起死回生の一撃を叩き込んでやる為だ。
「裁判長、審理再開の前にひとつ、良いですか?」
「はい、伺いましょう」
許可を得たゲルトはゆっくりと立ち上がり、証言台で表情を強張らせているクリステルに一瞥を与えてから、大胆不敵な台詞を放った。
「では申し上げます。わたくしゲルトは、今証言台に座っているクリステル・シトリン嬢を逆告訴致します。罪状は偽証、及び詐欺。更には学園所有文献紛失という罪状も加わるかも知れませんが、これは確証を得てからに致します」
「何だと?」
驚いて立ち上がったのは、アンゼルムであった。クリステルは証言台で凍り付いたまま、ひと言も発することが出来ない。
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教室内は、一気にざわつき始めた。
傍聴者としてこの学級裁判の行方を見守っていた他のクラスメイト達は、思わぬ展開に冷静ではいられなくなっていた。
「……どういう論拠があるのか、聞かせてもらおうじゃないか」
しかしアンゼルムは、ゲルトを不敬だと斬って捨てる様な真似はしなかった。
飽くまでも公平な裁判を、というのがアンゼルムの矜持でもあったからだ。公平な裁判を貫き通した上でゲルトを叩きのめし、学園から追放する。それが、アンゼルムが構築したプランだったのである。
「クリステルさんは確かな証拠も無いまま、ゲルト君を窃盗罪で訴えました。逆をいえば、ゲルト君の論拠に筋が通っているなら逆告訴も有効です。それで良いですね?」
裁判長役の男子生徒は淡々と告げた。アンゼルムは自らが任じた裁判長役であるだけに、ぐうの音も返せなかった。
「では申し上げます。逆告訴に至った推論は、次の通りです」
ゲルトは努めて感情を抑えて、静かに語り始めた。
曰く、そもそも窃盗事件など発生していない。これは全てクリステルが保身の為に起こした狂言に過ぎない、と。
クリステルがゲルトを犯人役として事件をでっち上げたのは、ある事実を隠す為。
それは、借用した文献を紛失した、もしくは破損なり汚すなりして返却出来ない状態にしてしまった、ということではないのか。
トイレ掃除に来なかったのは恐らく文献を探す、もしくは修復を試みる等でぎりぎりまで時間を使い、粘りに粘っていたのだろうが、結局は上手くいかなかったと推察される。
学園所有の文献貸出を許可した担任教師は、備品管理に関しては凄まじく厳しい。まかり間違っても、貴重な文献を紛失したなどとはいえず、もし知られてしまえば強く叱責されることは間違いない。
今は偶々実家の都合で学園を離れているが、担任教師は明日には戻ってくる。それまでに文献の返却が叶わなければ、それ相応の釈明が必要となるだろう。
そして昨日。
クリステルは自身とゲルトが掃除当番で、更にもうひとりの女子トイレ清掃登板の生徒が休みという都合の良い状況が出来ていたことを利用しない手は無いと考えた。
即ち、己の失態をゲルトに押し付けようとした、という訳である。
「それは……推測の域を……」
そこまでいいかけて、アンゼルムは口を閉じた。
既にクリステル本人が、実は女子トイレの掃除には入っていなかったという事実が突きつけられている上に、クリステルがゲルトを窃盗犯だといい始めたのも、それ自体が推論どころかただのでっち上げだという結論がほぼ確定しつつある。
そんな状況で、アンゼルムはゲルトの告発内容だけが事実無根だと決めつけることが出来なかった。そんなことをいってしまえば、彼が掲げる公平性が一瞬にして崩れ落ちてしまうのである。
正直、アンゼルムは内心で大いに焦っていた。このままでは、負ける。だが、矜持を捻じ曲げてまでゲルトに反撃しようという行為は、己のプライドが許さない様であった。
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重苦しい沈黙が漂い始めた教室。誰も、口を開こうとはしない。
するとそこへ、ゲルトの頼みを聞いて大図書館に走っていた男子生徒が引き返してきた。
「裏、取れたよー。あの日、クリステルさんは大図書館には来てなかったってさー」
どこかあっけらかんとした軽い調子に、教室内は更なる緊張感に覆い尽くされたが、ゲルトとエミリーだけは何ともいえない苦笑を浮かべた。
だが、男子生徒の報告はそれだけにはとどまらなかった。
「あぁそれから、クリステルさん前科あるんだって? 何かさ、大図書館の司書さんがぶつぶつ文句いってたっけ。前にも大図書館所蔵の資料本を紛失したことがあるみたいじゃん」
これが、決定打となった。
矢張りそういうことか――ゲルトとエミリーが抱いていた疑惑は今この瞬間、確信へと変わった。
大図書館所蔵の資料本に続いて倉庫の文献も、となれば、もう後が無い。司書の話によれば、大図書館所蔵の資料本はシトリン男爵家が弁償することで事無きを得たらしい。
だが、今回で二度目だ。最早弁解の余地は無い。クリステルは実家から大目玉を喰らう、という程度の話では済まなくなるだろう。
ここでアンゼルムが気力を奮い立たせて、必死に声を上げた。
「そ、その前科とやらは、本件の審理とは関係無いだろう。裁判長、先程飛び込んできた情報は、参考にはしないで貰いたい……」
しかしアンゼルムの台詞は、そこで途切れた。
証言台のクリステルが泣きながら、もう良いです、といって彼を止めたのである。どうやらクリステルは、最早いい逃れは出来ぬと観念した様子だった。
ゲルトは何となく拍子抜けした様に、木椅子に腰を下ろした。
(何ともお粗末な話だな……オレを陥れるなら、せめて自分のアリバイぐらい、しっかり用意しとこうよ)
クリステルの余りに杜撰な手口に、ゲルトは怒りを覚えるよりも、ただ呆れた。貴族といえば陰謀と詐術が渦巻く世界だというのがゲルトの持つ印象だったが、今回のクリステルの告発は、兎に角穴が多い。
それだけ、本来の貴族の世界――大人の世界、といい換えても良い――には全く慣れていない、ということであろうか。
ところが、どういう訳か傍らのエミリーは泣きじゃくるクリステルに憤怒の視線を叩きつけていた。
何をそんなに怒っているのかと訊くと、思わぬひと言が返ってきた。
「だってクリステルさん、女子トイレの掃除、サボってたんだよ? そんなこと、許される?」
「え……怒るとこ、そこなのか?」
エミリーの意外な一面を見た様な気がしたゲルトだったが、学級裁判そのものは、もうこれで終わりで良いとも思っていた。
「クリステルさん、ゲルト君への告訴は取り下げますか?」
裁判長役の男子生徒が訊いた。クリステルはハンカチで顔を押さえたまま、小さく頷き返した。
すると、今度はアンゼルムが検察席を立って被告席に足を運んできた。
「ゴブリン、どうする? 貴様が告訴を取り下げなければ、私は貴様と共に彼女を追及することになる」
全く予想外の方向に話が転がり始めた。
そもそもアンゼルムはゲルトをパンクリアース学園から追い出す為に、検察役を自任したのである。
しかし事態は思わぬ展開を見せ、アンゼルムは立場上、告発人であるゲルトに味方し、被告人たるクリステルを追及しなければならないというおかしな事態になり始めた。
これは流石に、アンゼルムも予期し得なかったことだろう。
アンゼルムの疲れ切った様子に、ゲルトは何ともいえぬ表情を浮かべた。それから再び、証言台に視線を送った。今更クリステルを責めたところで、何の意味も見出せなかった。
彼女は全てを認めているのである。
既にゲルトの無罪は確定しており、アンゼルムに至ってはクリステルに良い様に踊らされたという印象を全クラスメイトに植え付けてしまった。彼の精神的、立場的な打撃は計り知れないだろう。
だが、本当にこれで終わりにしてしまって良いのだろうか。
「告訴は取り下げる。ただ、文献はやっぱり見つけなきゃいけないな」
ゲルトは再び、立ち上がった。
クリステルが紛失した文献は、学園にとっては貴重な財産だ。いずれはゲルトにとっても、何か有益な情報をもたらすことになったかも知れない。
このまま放っておいて良い筈が無かった。
アンゼルムも異論は無いと頷き返し、次いでクリステルに神妙な面を向けた。
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未だざわめきが収まらない教室内だが、ゲルトはひとつ咳ばらいを入れて、クラスメイト達からの注目を自身に向けさせた。
「ひとつ提案なんだが……やっぱり文献が紛失したままってのは、拙いと思う。クリステルさんが捨てていないなら、絶対どこかにある筈だ」
だから女子生徒に協力して貰って、寮室を家探ししてみてはどうか、とゲルトは提案してみせた。
それは悪くないと、裁判長役の男子生徒が改めて打診してみたが、どういう訳かクリステルは先程までの泣きじゃくっていた悲しそうな表情から一転し、酷く狼狽した顔つきになっていた。
「え、いや、その、わ、わたくしの部屋は、そのですね、何といいますか……」
妙にしどろもどろな調子で、やたらと渋りまくるクリステル。アンゼルムも、ここはゲルトの提案に従った方が良いと言葉を重ねるが、それでもクリステルは首を縦に振ろうとはしなかった。
するとエミリーが轟然たる勢いで立ち上がった。相当にしびれを切らしたらしい。
「あのさ……先生達に怒られるの嫌なんでしょ! ぐだぐだいってないで、行くわよ!」
エミリーは友人の女子生徒数名と共に、クリステルを証言台から無理矢理引きずり出す様な格好で貴族寮へと突き進んでいった。
それから、小一時間後。
法廷風から本来の配置へと机と椅子の位置をクラス全員で戻しているところへ、エミリーとクリステル達が引き返してきた。
文献は無事に見つかったというエミリーの報告に、ゲルトやアンゼルムのみならず、他のクラスメイト達も心の底から安堵の表情を浮かべた。
が、エミリーだけは未だ渋い表情のままである。
何があったのかと訊くと、エミリーはすっかり恐縮してしまっているクリステルをじろりと一瞥してから、大きな溜息を漏らした。
「もう、本当に酷い有様だったんだから。壮絶とか、そんな言葉じゃ足りないくらい」
曰く、クリステルの寮室は色々な物が溜まりに溜まって、どこに何があるのかがさっぱり分からない状態だったのだという。
「そりゃね、あんな状況じゃあ物が無くなるのも当然よね」
所謂、汚部屋と呼ぶべき状況だったらしい。それでも何だかんだで文献を発見出来たのだから、これで一件落着といったところか。
しかしエミリーはあの惨状をそのまま捨て置くことは出来ず、後日改めて、クリステルに掃除のいろはを伝授すると宣言した。
そんなに凄かったのか――半ば呆然と佇むゲルトだが、いつの間にかその隣にアンゼルムの姿があった。
「彼女、相変わらずだな。モップや箒を持ったらひとが変わる性格は、母親譲りなんだろうな」
「エミリーとは、元々知り合いだったのか?」
アンゼルムからの思わぬ告白に、ゲルトは驚きを禁じ得ない。アンゼルムは小さく肩を竦めた。
曰く、エミリーの母親はフォルマー家に仕えるメイド長で、エミリーとも以前からの顔見知りだった。そしてエミリー母のメイド長には整理整頓清掃云々で色々厳しくいわれ続けてきたこともあり、何となくエミリーに対しても苦手意識があったとの由。
(成程、だからエミリーが俺に助け舟を出してきた時も、アンゼルムは黙っていたのか)
ゲルトは漸く、合点がいった。
「せめてもの忠告だ……彼女と友人になるなら、部屋は綺麗に片付けておけ」
それだけいい残して、アンゼルムは教室を辞していった。
あれだけ嫌っていたゲルトにその様な忠告を与えるということは、アンゼルムも過去に余程の目に遭ったのかも知れない。
ゲルトはただ、乾いた笑いを漏らすしか無かった。