学級裁判 ~物証無き戦い~
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年05月02日 17時40分40秒
●
パンクリアース学園二年次学級の、とある教室。
既に授業時間は終わりを迎え、ほとんどの生徒は下校するか、部活に勤しむか、或いは自身の好きな様に時間を費やすかのいずれかであろう。
ところがこの日、ゲルトの所属するクラスでは異様な光景が展開されていた。
机と椅子の大半を教室後方に移動させ、教壇と教室前方廊下側、及び教室前方窓側の何箇所かに必要最低限の数を残して、あたかも法廷の様な配置を現出している。
学級裁判――本来であれば何の司法権も裁判権も持たない筈のパンクリアース学園生徒だが、この日、この教室に限っては例外的に、半ば私刑に近しい越権行為が執り行われようとしている。
訴訟事案はリーンエス王国シトリン男爵の令嬢クリステルが、担任教師から借りた大切な文献をゲルトが盗んだと主張したことによる窃盗容疑。
被告人はゲルト。そして弁護人は居ない。ゲルトは自己弁護でこの学級裁判を戦わなくてはならない。
検察役には、リーンエス王国フォルマー伯爵家の嫡男アンゼルムが自らを任じた。
アンゼルムはかねてから、ゲルトの如きゴブリンの冒険者がパンクリアース学園に在籍すること自体が赦せないと感じていた、ヒューマン貴族至上主義の典型的な王国貴族子息であった。
そして裁判長役には、某侯爵子息の男子生徒が任命された。彼は同クラス内では抜群のバランス感覚を持つと目されており、たとえ被告人がゲルトであっても、公平な裁定が期待出来るとされる。
アンゼルムが裁判長に彼を推したのは無論、ゲルトを完璧に追い詰める為であろう。ここで下手にヒューマン至上主義の誰かを裁判長役に充ててしまえば、仮にゲルトに有罪判決が下ったとしても、ゲルトは決して認めないだろう。
ここは、ゲルト自身も納得して判決を受け入れる人物を充てなくてはならない。アンゼルムは極端な人種指向ではあったが、公平さとプライドでは誰もが一目置いている存在でもあった。
ゲルトがこの学級裁判を受けて立つことにしたのも、この裁判が公平であると信じてのことである。
後は、どうやって戦うかが、最大の問題であった。
他の生徒達は傍聴者として教室後方や廊下に陣取り、裁判の行方を固唾を呑んで見守っている。
そしていよいよ、裁判が始まった。
●
裁判長役の男子生徒が、工具室から借りてきた木槌で教壇を軽く叩いた。
「それでは、学級裁判を始めます」
最初に行われたのは、物証検分であった。
アンゼルムは取り巻きの生徒達に命じて、ゲルトの鞄や彼の寮室を徹底的に捜索させた。
勿論、パンクリアース学園生徒には捜査権は与えられておらず、ゲルトが拒否すれば、彼らの行為は教職員の間で問題視されることになっただろう。
しかしゲルト自身が、アンゼルムとその取り巻きによる捜索に応諾したのだ。事実ゲルトは、文献など盗んではいない為、幾ら探し回ろうが、絶対に見つかる筈が無いという確固たる自信があった。
偶々居合わせた同室の後輩寮生は酷く怯えていたらしいが、ゲルトは申し訳ないと思いつつも、その場はアンゼルム達の好きな様にさせるしかなかった。
そして結局、文献は出てこなかった。
「アンゼルム君。盗まれた文献というのは見つかりましたか?」
「いや……それなのだが裁判長、まだ見つかっていない」
意外にもアンゼルムは虚勢を張る訳でも無く、正直に答えた。絶対的な証拠が無かったとしても、必ずやこの裁判で勝ってみせるというアンゼルムのプライドが、言葉の端々から滲み出ていた。
勿論、アンゼルム自身はゲルトが犯人に間違いないと内心で断じている為、この結果は相当に意外だったし、多少の焦りも感じている。
しかしまずは関係者証言からゲルトを追い詰めようと方針を切り替えたらしく、物証検分は早々に切り上げ、被害者たるクリステルを証言台へと招き寄せた。
証言だけで裁判が進められるとなると、ゲルトが圧倒的に不利である。だがゲルトは、
(相手は明らかに嘘をついている。必ずどこかに、綻びがあるはずだ!)
と、自身を励ましていた。
証言台に就いたクリステルはゲルトをひと睨みしてから、裁判長役の男子生徒に視線を据えた。ここでクリステルは、最後に文献の存在を確認してから盗まれたことに気づくまでの証言を静かに連ねた。
曰く、午後の授業が終わって荷物を鞄に入れる際に見たのが最後で、トイレ掃除を終えた後、下校時刻まで大図書館でレポートの仕上げをしようとしたところで、文献が無いことに気付いたのだという。
尚、トイレ掃除はもうひとりの生徒が体調不良で休んでいた為、クリステルひとりで行ったらしい。
「掃除の間、何の物音もしなくて全く気付きませんでした。ゴブリンは忍び歩きもお得意なのですね」
だから鞄から文献が盗まれたことにも気付かなかったと結んで、クリステルは勝ち誇った笑みを浮かべた。
だが――ゲルトはこの時、違和感を覚えた。
●
ここは黙って見過ごす訳にはいかない。
ゲルトはすかさず、反対尋問の為に手を挙げた。
「何の物音もしなかったというのは事実に反します。現にオレはモップを折ってしまって、その勢いで個室のドアに盛大に頭をぶつけてしまったし、一緒に掃除していた彼も、かなり大声でオレと話していた」
いいながらゲルトは、傍聴席に居るひとりの平民の男子生徒に視線を転じた。その男子生徒は驚きながらも、あぁそういえばと思い出した様に頷き返していた。
あの時、この男子生徒は、
「うわぁ何やってんだよー! でも、先生がいない時でラッキーだったなぁ」
と大声で笑っていた。
遊んでいた訳ではない為、担任教師にボヤかれることはあっても叱責されることは無い筈だという意味の会話を、ふたりで交わした。それは間違い無い。
そして極めつけは、ゲルトが慌てて倉庫へ駆けていったことだ。それはクリステル自身も認めている。あれだけ大きな足音を立てて駆けていったのに、物音ひとつしなかったというのは明らかに矛盾しているだろう。
「それに男子トイレと女子トイレは壁で仕切られてるけど、老朽化が進んでいる所為か、大きめの音が向こう側に聞こえるなんてしょっちゅうだ。モップが折れた時の騒ぎが女子トイレ側に全く聞こえなかったというのは、普通に考えてあり得ない」
ゲルトは、視線を逸らすクリステルを真っ向から見据えた。あの時の、あれだけの騒ぎが全く聞こえなかったというのはおかしくないか。
この問いかけに、クリステルは何も答えようとはせず、ただただ顔を強張らせるだけであった。
よし、これならいける――ゲルトは内心で軽く拳を握り締めた。
圧倒的不利な状況から、このまま一気に押し切れば少なくとも五分の状況には持っていける筈だ。この時のゲルトには確かに、微かな光明が兆し始めていた。
ところが。
「裁判長、異議あり」
それまでじっと黙ってゲルトの反対尋問に耳を傾けていたアンゼルムが、鷹揚に立ち上がった。
裁判長役の男子生徒は、アンゼルムの異議申し立てを認めた。
「貴様は随分と音に拘っている様だが、向こう側の音が必ず聞こえるという根拠は無いし、偶々届かなかっただけかも知れない。それに何より、聞こえていても聞こえない、という経験は貴様にもある筈だ」
一瞬ゲルトはアンゼルムが何をいい出すのかと眉間に皺を寄せたが、その直後、アンゼルムがいわんとしていることがすぐに理解出来た。
●
聞こえていても、聞こえない。
人間、何かに集中していると余計な雑音は耳に入らなくなる。アンゼルムは、人間が持つ集中力と、それに付随する雑音遮断の効果について語っているのだ。
それはゲルト自身、よく分かっていた。
薬学や医療学の勉強となると、ゲルトは凄まじいまでの集中力を発揮する。そんな時、真横から声をかけられても全く気付かないということが、これまでに何度もあった。
アンゼルムは、クリステルが女子トイレの掃除に集中していたからこそ、男子トイレの騒ぎになど全く気付かなかったのではないかと助け船を出した。
「あ、そ、そうなのです。私はあの時、少しでも皆さんに気持ち良くトイレを使って貰いたいとの一心で、周りには目もくれずに集中して掃除していたのです!」
やられた――ゲルトは一瞬、天を仰ぎかけた。
その論調でこられると、ゲルトとしては最早何も返す言葉が無い。一緒に掃除していた件の平民生徒も、そういうものなのかと半ば納得しかかっている。
このままでは、ゲルトに味方する材料は何も残らない。掴みかかった流れを、ゲルトはここで再び手放すかも知れぬ窮地に陥っていた。
矢張りここは何か物証が必要だ。
人間の意識や記憶に頼るのではなく、確実に相手を追い詰める為の物証が絶対に不可欠だ。しかし今のゲルトにはクリステルの論拠を打ち破れるだけの物証は、何ひとつ手元に無い。
一体、どうすれば――被告人席に座り込み、頭を抱えたゲルト。一方、検察役のアンゼルムは余裕の笑みを見せている。
その時だった。
「あのぅ……ちょっと良いですか?」
傍聴席から、か細い声が響いた。何事かと、クラス中の全員の視線がその一点に集まる。
手を挙げていたのは、平民出身の女子生徒エミリーだった。
「何だ? いいたいことがあるなら、勿体ぶらずにさっさといえ」
思わぬ闖入者の登場に、アンゼルムは多少の苛立ちを見せた。折角このままゲルトを追放にまで追い込めると確信したところに、余計な邪魔が入ったのである。
ところが、エミリーは驚くべきひと言を放った。
「クリステルさんのいってること、ちょっとおかしいんです。そのぅ、あたしの証言は証拠になりますか?」
エミリーは裁判長役の男子生徒に問いかけた。裁判長は勿論、と応じた。この点に関しては、アンゼルムも異論は無い。
徹底して公平に戦い、その上で勝たなければ意味が無いというのが、アンゼルムの矜持だった。
●
では、と一礼してエミリーはゲルトの隣り、つまり被告人席側に立った。
ゲルトは驚きと同時に、微かな期待の色を込めた瞳で毅然と立つエミリーに視線を送った。
「事件のことを聞いてずっとモヤモヤしてたことがあったんですけど、今はっきりと思い出しました」
曰く、事件当日の下校時刻直前、トイレに置き忘れていたハンカチをクラスメイトが見つけて、届けてくれたというのである。
しかしエミリーが件の女子トイレに最後に足を踏み入れたのは一昨日、即ち事件の前日だ。
その時にハンカチを置き忘れたことになる。
「……だとしたら、丸一日トイレにあたしのハンカチが置きっぱなしになってたってことになりますね。だったら、掃除当番のひとが先に見つける筈じゃないですか?」
しかしクリステルはハンカチの有無など、ひと言も証言していない。仮に聞かれなかったから答えなかっただけだとしても、トイレ掃除当番の役割として、忘れ物を担任教師、或いは職員室に届け出るのは当然の行為といえるだろう。
ましてやクリステルは熱心に女子トイレを掃除していたと証言している。忘れ物があれば絶対に気付く筈だろうし、気持ち良くトイレを皆に使って欲しいと本気で願っているのであれば、落とし物をそのまま放置しておくなどあり得ない所業だ。
「ねぇクリステルさん。事件があった日、あなたホントに、トイレに居たの?」
ここで、普通の貴族子息ならばエミリーの証言はいいがかりだと突っかかるかも知れない。だが検察役のアンゼルムは敢えて何もいわなかった。
この裁判では、公平さは絶対に必要だ。
だからこそ、たとえ平民であろうとも、エミリーの証言は極めて重要な意味を持つということを認めている。
アンゼルムは軽く瞼を閉じ、ひと呼吸入れてから教壇に面を向けた。
「裁判長。少し休憩を挟みたいのだが、如何か?」
「認めます。これより10分間の休憩に入ります」
恐らく、この予想外の事態に対してどの様に応ずべきかを相談しようというのであろう。
しかしゲルトには、アンゼルムやクリステルの慌てぶりなど、どうでも良かった。
今は、同じ被告人席の傍らで木椅子に腰を下ろし、にっこりと微笑むエミリーのことしか頭に入ってこなかった。
ありがとう――ゲルトの口からこぼれたそのひと言は、心の底から湧き出た他ならぬ本心からだった。
パンクリアース学園二年次学級の、とある教室。
既に授業時間は終わりを迎え、ほとんどの生徒は下校するか、部活に勤しむか、或いは自身の好きな様に時間を費やすかのいずれかであろう。
ところがこの日、ゲルトの所属するクラスでは異様な光景が展開されていた。
机と椅子の大半を教室後方に移動させ、教壇と教室前方廊下側、及び教室前方窓側の何箇所かに必要最低限の数を残して、あたかも法廷の様な配置を現出している。
学級裁判――本来であれば何の司法権も裁判権も持たない筈のパンクリアース学園生徒だが、この日、この教室に限っては例外的に、半ば私刑に近しい越権行為が執り行われようとしている。
訴訟事案はリーンエス王国シトリン男爵の令嬢クリステルが、担任教師から借りた大切な文献をゲルトが盗んだと主張したことによる窃盗容疑。
被告人はゲルト。そして弁護人は居ない。ゲルトは自己弁護でこの学級裁判を戦わなくてはならない。
検察役には、リーンエス王国フォルマー伯爵家の嫡男アンゼルムが自らを任じた。
アンゼルムはかねてから、ゲルトの如きゴブリンの冒険者がパンクリアース学園に在籍すること自体が赦せないと感じていた、ヒューマン貴族至上主義の典型的な王国貴族子息であった。
そして裁判長役には、某侯爵子息の男子生徒が任命された。彼は同クラス内では抜群のバランス感覚を持つと目されており、たとえ被告人がゲルトであっても、公平な裁定が期待出来るとされる。
アンゼルムが裁判長に彼を推したのは無論、ゲルトを完璧に追い詰める為であろう。ここで下手にヒューマン至上主義の誰かを裁判長役に充ててしまえば、仮にゲルトに有罪判決が下ったとしても、ゲルトは決して認めないだろう。
ここは、ゲルト自身も納得して判決を受け入れる人物を充てなくてはならない。アンゼルムは極端な人種指向ではあったが、公平さとプライドでは誰もが一目置いている存在でもあった。
ゲルトがこの学級裁判を受けて立つことにしたのも、この裁判が公平であると信じてのことである。
後は、どうやって戦うかが、最大の問題であった。
他の生徒達は傍聴者として教室後方や廊下に陣取り、裁判の行方を固唾を呑んで見守っている。
そしていよいよ、裁判が始まった。
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裁判長役の男子生徒が、工具室から借りてきた木槌で教壇を軽く叩いた。
「それでは、学級裁判を始めます」
最初に行われたのは、物証検分であった。
アンゼルムは取り巻きの生徒達に命じて、ゲルトの鞄や彼の寮室を徹底的に捜索させた。
勿論、パンクリアース学園生徒には捜査権は与えられておらず、ゲルトが拒否すれば、彼らの行為は教職員の間で問題視されることになっただろう。
しかしゲルト自身が、アンゼルムとその取り巻きによる捜索に応諾したのだ。事実ゲルトは、文献など盗んではいない為、幾ら探し回ろうが、絶対に見つかる筈が無いという確固たる自信があった。
偶々居合わせた同室の後輩寮生は酷く怯えていたらしいが、ゲルトは申し訳ないと思いつつも、その場はアンゼルム達の好きな様にさせるしかなかった。
そして結局、文献は出てこなかった。
「アンゼルム君。盗まれた文献というのは見つかりましたか?」
「いや……それなのだが裁判長、まだ見つかっていない」
意外にもアンゼルムは虚勢を張る訳でも無く、正直に答えた。絶対的な証拠が無かったとしても、必ずやこの裁判で勝ってみせるというアンゼルムのプライドが、言葉の端々から滲み出ていた。
勿論、アンゼルム自身はゲルトが犯人に間違いないと内心で断じている為、この結果は相当に意外だったし、多少の焦りも感じている。
しかしまずは関係者証言からゲルトを追い詰めようと方針を切り替えたらしく、物証検分は早々に切り上げ、被害者たるクリステルを証言台へと招き寄せた。
証言だけで裁判が進められるとなると、ゲルトが圧倒的に不利である。だがゲルトは、
(相手は明らかに嘘をついている。必ずどこかに、綻びがあるはずだ!)
と、自身を励ましていた。
証言台に就いたクリステルはゲルトをひと睨みしてから、裁判長役の男子生徒に視線を据えた。ここでクリステルは、最後に文献の存在を確認してから盗まれたことに気づくまでの証言を静かに連ねた。
曰く、午後の授業が終わって荷物を鞄に入れる際に見たのが最後で、トイレ掃除を終えた後、下校時刻まで大図書館でレポートの仕上げをしようとしたところで、文献が無いことに気付いたのだという。
尚、トイレ掃除はもうひとりの生徒が体調不良で休んでいた為、クリステルひとりで行ったらしい。
「掃除の間、何の物音もしなくて全く気付きませんでした。ゴブリンは忍び歩きもお得意なのですね」
だから鞄から文献が盗まれたことにも気付かなかったと結んで、クリステルは勝ち誇った笑みを浮かべた。
だが――ゲルトはこの時、違和感を覚えた。
●
ここは黙って見過ごす訳にはいかない。
ゲルトはすかさず、反対尋問の為に手を挙げた。
「何の物音もしなかったというのは事実に反します。現にオレはモップを折ってしまって、その勢いで個室のドアに盛大に頭をぶつけてしまったし、一緒に掃除していた彼も、かなり大声でオレと話していた」
いいながらゲルトは、傍聴席に居るひとりの平民の男子生徒に視線を転じた。その男子生徒は驚きながらも、あぁそういえばと思い出した様に頷き返していた。
あの時、この男子生徒は、
「うわぁ何やってんだよー! でも、先生がいない時でラッキーだったなぁ」
と大声で笑っていた。
遊んでいた訳ではない為、担任教師にボヤかれることはあっても叱責されることは無い筈だという意味の会話を、ふたりで交わした。それは間違い無い。
そして極めつけは、ゲルトが慌てて倉庫へ駆けていったことだ。それはクリステル自身も認めている。あれだけ大きな足音を立てて駆けていったのに、物音ひとつしなかったというのは明らかに矛盾しているだろう。
「それに男子トイレと女子トイレは壁で仕切られてるけど、老朽化が進んでいる所為か、大きめの音が向こう側に聞こえるなんてしょっちゅうだ。モップが折れた時の騒ぎが女子トイレ側に全く聞こえなかったというのは、普通に考えてあり得ない」
ゲルトは、視線を逸らすクリステルを真っ向から見据えた。あの時の、あれだけの騒ぎが全く聞こえなかったというのはおかしくないか。
この問いかけに、クリステルは何も答えようとはせず、ただただ顔を強張らせるだけであった。
よし、これならいける――ゲルトは内心で軽く拳を握り締めた。
圧倒的不利な状況から、このまま一気に押し切れば少なくとも五分の状況には持っていける筈だ。この時のゲルトには確かに、微かな光明が兆し始めていた。
ところが。
「裁判長、異議あり」
それまでじっと黙ってゲルトの反対尋問に耳を傾けていたアンゼルムが、鷹揚に立ち上がった。
裁判長役の男子生徒は、アンゼルムの異議申し立てを認めた。
「貴様は随分と音に拘っている様だが、向こう側の音が必ず聞こえるという根拠は無いし、偶々届かなかっただけかも知れない。それに何より、聞こえていても聞こえない、という経験は貴様にもある筈だ」
一瞬ゲルトはアンゼルムが何をいい出すのかと眉間に皺を寄せたが、その直後、アンゼルムがいわんとしていることがすぐに理解出来た。
●
聞こえていても、聞こえない。
人間、何かに集中していると余計な雑音は耳に入らなくなる。アンゼルムは、人間が持つ集中力と、それに付随する雑音遮断の効果について語っているのだ。
それはゲルト自身、よく分かっていた。
薬学や医療学の勉強となると、ゲルトは凄まじいまでの集中力を発揮する。そんな時、真横から声をかけられても全く気付かないということが、これまでに何度もあった。
アンゼルムは、クリステルが女子トイレの掃除に集中していたからこそ、男子トイレの騒ぎになど全く気付かなかったのではないかと助け船を出した。
「あ、そ、そうなのです。私はあの時、少しでも皆さんに気持ち良くトイレを使って貰いたいとの一心で、周りには目もくれずに集中して掃除していたのです!」
やられた――ゲルトは一瞬、天を仰ぎかけた。
その論調でこられると、ゲルトとしては最早何も返す言葉が無い。一緒に掃除していた件の平民生徒も、そういうものなのかと半ば納得しかかっている。
このままでは、ゲルトに味方する材料は何も残らない。掴みかかった流れを、ゲルトはここで再び手放すかも知れぬ窮地に陥っていた。
矢張りここは何か物証が必要だ。
人間の意識や記憶に頼るのではなく、確実に相手を追い詰める為の物証が絶対に不可欠だ。しかし今のゲルトにはクリステルの論拠を打ち破れるだけの物証は、何ひとつ手元に無い。
一体、どうすれば――被告人席に座り込み、頭を抱えたゲルト。一方、検察役のアンゼルムは余裕の笑みを見せている。
その時だった。
「あのぅ……ちょっと良いですか?」
傍聴席から、か細い声が響いた。何事かと、クラス中の全員の視線がその一点に集まる。
手を挙げていたのは、平民出身の女子生徒エミリーだった。
「何だ? いいたいことがあるなら、勿体ぶらずにさっさといえ」
思わぬ闖入者の登場に、アンゼルムは多少の苛立ちを見せた。折角このままゲルトを追放にまで追い込めると確信したところに、余計な邪魔が入ったのである。
ところが、エミリーは驚くべきひと言を放った。
「クリステルさんのいってること、ちょっとおかしいんです。そのぅ、あたしの証言は証拠になりますか?」
エミリーは裁判長役の男子生徒に問いかけた。裁判長は勿論、と応じた。この点に関しては、アンゼルムも異論は無い。
徹底して公平に戦い、その上で勝たなければ意味が無いというのが、アンゼルムの矜持だった。
●
では、と一礼してエミリーはゲルトの隣り、つまり被告人席側に立った。
ゲルトは驚きと同時に、微かな期待の色を込めた瞳で毅然と立つエミリーに視線を送った。
「事件のことを聞いてずっとモヤモヤしてたことがあったんですけど、今はっきりと思い出しました」
曰く、事件当日の下校時刻直前、トイレに置き忘れていたハンカチをクラスメイトが見つけて、届けてくれたというのである。
しかしエミリーが件の女子トイレに最後に足を踏み入れたのは一昨日、即ち事件の前日だ。
その時にハンカチを置き忘れたことになる。
「……だとしたら、丸一日トイレにあたしのハンカチが置きっぱなしになってたってことになりますね。だったら、掃除当番のひとが先に見つける筈じゃないですか?」
しかしクリステルはハンカチの有無など、ひと言も証言していない。仮に聞かれなかったから答えなかっただけだとしても、トイレ掃除当番の役割として、忘れ物を担任教師、或いは職員室に届け出るのは当然の行為といえるだろう。
ましてやクリステルは熱心に女子トイレを掃除していたと証言している。忘れ物があれば絶対に気付く筈だろうし、気持ち良くトイレを皆に使って欲しいと本気で願っているのであれば、落とし物をそのまま放置しておくなどあり得ない所業だ。
「ねぇクリステルさん。事件があった日、あなたホントに、トイレに居たの?」
ここで、普通の貴族子息ならばエミリーの証言はいいがかりだと突っかかるかも知れない。だが検察役のアンゼルムは敢えて何もいわなかった。
この裁判では、公平さは絶対に必要だ。
だからこそ、たとえ平民であろうとも、エミリーの証言は極めて重要な意味を持つということを認めている。
アンゼルムは軽く瞼を閉じ、ひと呼吸入れてから教壇に面を向けた。
「裁判長。少し休憩を挟みたいのだが、如何か?」
「認めます。これより10分間の休憩に入ります」
恐らく、この予想外の事態に対してどの様に応ずべきかを相談しようというのであろう。
しかしゲルトには、アンゼルムやクリステルの慌てぶりなど、どうでも良かった。
今は、同じ被告人席の傍らで木椅子に腰を下ろし、にっこりと微笑むエミリーのことしか頭に入ってこなかった。
ありがとう――ゲルトの口からこぼれたそのひと言は、心の底から湧き出た他ならぬ本心からだった。