【夢魅】記憶は爽やかな甘い香りと共に
キャラクターノベル制作 広大野人納品 2022年05月02日 17時40分31秒
●
掃き溜めの中、埃と変わらぬように幼子は居た。
その生まれは『こうき』らしいが、その意味を理解する事は出来るはずもない。
ぼさぼさの茶髪と輝きの無い灰色の瞳は無残そのもので……。
「その髪で、その瞳で、姿を見せるな! さっさと消えろ!」
狂ったような鬼の形相の母親がただただ怖かった。
殴打され蹴り飛ばされた痛みよりも、穴が開きそうな空腹よりも、切り裂かれそうな寒さよりも、なによりも怖かった。
逃げる事もできず、消える事もできず……そんな日が続いたある日、陽の光が突然、差し込んできた。
「ぁ、あ……あ……」
生まれて初めて感じる香りが訪れたのは、掃き溜めから連れ出された日の事だった。
●
それは爽やかな甘い檸檬の香りで……『せんせい』からは、いつも漂っていた。
思い出の果実を手に、ミア=リゼルは朧気な記憶を呼び起こす。ここは静まり返った学園寮の自室。入学時にとある貴族から好意で譲って貰った、使い古された机に――小さい頃の自分の姿が映る。
「せんせい、出来ました」
「ふむ……ツィトリ、見せなさい」
幼い自分が見上げるのは長身の老紳士。
黒青色の瞳は眼光鋭く、幼子が記した書籍の書写を確認する。
幼子にとっては意味の分からない内容でも、幾度も繰り返していけば自然と頭の中に入っていくものだと老紳士は知っていた。
もっとも、その知識をモノに出来るようになるには、幾度もの実践を必要とするのだが……。
「良く出来た子。字の精度も上がっている。続けなさい」
「はい、せんせい」
幼子は灰瞳を輝かせた。
死んだような目をした自分が老紳士に『買われた』時とは違う。
今は世界の全てが、存在の全てが……『せんせい』の為にある。
『せんせい』は認めてくれる。『せんせい』に必要とされている。『せんせい』が褒めてくれる。
「ツィトリ、明日は遊戯盤を用意しておくのだ」
「はいっ!」
幼子は『せんせい』との盤上遊戯が大好きだった。
いつも負けてしまうけれど『せんせい』は褒めてくれる。
だから、一生懸命になれる。いつの日か『せんせい』に勝つ事が出来たら、きっともっと、褒めてくれるから。
約束通り、次の日『せんせい』がやって来た。いつもの香りと共に。
起きた時から楽しみにしていた幼子だったけど、写本のミスに気が付いて気分が落ち込んでいた。
「……せんせい。ごめんなさい……もしかして、頁を飛ばしていたかもしれないです」
申し訳なさそうに両手で写本を差し出す。
けれど、『せんせい』は受け取らなかった。
「ツィトリ。ミスに気が付いたのなら、次から気を付ければいい」
「せんせいにいっぱい褒めて貰ったのに……」
「言ったではないか、良く出来た子。図の精度は上がっていると。頁の抜けは夜にやっておくのだ」
眼光鋭い碧黒色の瞳が優しく見えた。
「さぁ、ツィトリ。始めようではないか」
「はいっ!」
気持ちを切り替えて幼子は盤上に駒を並べていく。
まずは【兵士】を次から次へと置く。【兵士】は最前列で槍を構えて、進んでくる敵を止める役だ。
次に幼子は両隅に【城兵】を立たせた。
「【城兵】さんは皆を守って、【僧兵】さんは【王様】と【女王】を守るのがお仕事」
「その通り。ツィトリ、よく覚えておきなさい」
「はい、せんせい!」
嬉しそうな声を上げて幼子は最後に【騎士】を手にした。
「【騎士】様はお馬さんに乗って戦うの。ぴょんぴょんって飛んで」
「ツィトリは騎士が好きかい?」
老紳士の質問に幼子は満面の笑みを浮かべ、駒を握り締めながら、大きく頷いた。
それからも、幼子は貴族社会で必要とされるあらゆる知識や作法は勿論、武芸や学問などを身に付けていった。
全ては『せんせい』の言い付け通りに。『せんせい』の忠実なる【駒】として。
「わたしは【女王】になれなくとも、『せんせい』の【騎士】になる」
幼さが抜けていない少女が力強く宣言した。
『せんせい』の尖兵として、『せんせい』の敵を倒していく、そんな存在に成りたかった。
なぜなら、『せんせい』はメドゥに関わりがある者だから、『せんせい』の敵は沢山存在している事を、少女は知っていたから。
だから――志願した。ただの【兵士】から昇格する為に。
まだ、成功の目途すら立っていない実験に……。
「良く出来た子。希望するのなら、止める事はしない」
『せんせい』の闇藍色した瞳が真っ直ぐに少女を見つめる。
いつもの香りと共に、覚悟を見定めているような視線は、少女にとって心地良かった。
思えば、ここまでの日々は全て、この瞬間の為にあったのかもしれない。
……そこからの事は、泥の中のようだった。
感じた事のない香りと手応えがあるような煙。不可思議な器具と様々な薬剤の入った小瓶。腕も足もそれぞれの指も……瞳すらも動かせない。
(沈んでいく……どこまでも……せんせい……わたし……)
全身を襲う激痛が嘘のように微睡んで、意識が遠ざかっていく。
幻聴も幻覚も妄想も混じり合って、世界と自分が一つになったような、不思議な感覚。
「なぜ志願させた」
「本人の希望だ」
「万が一にも助かるまい」
それはまるで『せんせい』の心の中まで聞こえているようで。
『せんせい』がこんな状態になっても、わたしを必要としてくれているような、そんな気分が嬉しくもあった。
滲み歪む視界の中、立ち去っていく『せんせい』の後ろ姿。
(……せんせい……せんせ、い……せん……)
その時、身体をふわりと持ち上がった。
僅かにいつもの香りがする。
「良く出来た子。せめて、人の子として……逝け……」
まるで棺のような箱に入れられると、意識を閉じるように蓋が取り付けられるのであった。
●
ミアはグランスパーダのある病院に足を運んでいた。
大きくはないけれど、昔からある由緒正しい病院だ。救済に熱心な貴族達の寄付だけで成り立っており、様々な患者が収容されている。
学園寮で生活をしているミアは時折、この病院に訪れては、治療の手伝いや孤児達の世話などをボランティアしているのだ。
「早いもの……ですね……」
病院の敷地内。今、ミアが立っている足元こそ、置き去りにされた場所であった。
発見時、死亡していたと思われていたらしい。どうして息を吹き返したのか、いや、そもそも、最初から死んではいなかったのか、6年という月日が経過した今では、もはや確かめようがない。
「せんせい……なぜ、せんせいは私をここに置き去りに……いえ、連れてきたの、ですか……」
助かる見込みがあれば、わざわざ病院に運ぶ必要はなかっただろう。
治療できるのであれば、病院のスタッフに預けただろう。
ただ死なせる為になら、連れてくる必要もない。せいせいと共に過ごした、あの場所で『処分』していれば良かったのだ。
「……せんせい。私、変わりました……いえ、変わります。大切な人達と共に、人としての未来を紡いでいきます」
メドゥの指先の構成員ではなく、一人の冒険者として、一人の女性として。
けれど、せんせいが教えてくれたものは無駄にはなっていない。今の自分があるのも、せんせいのおかげだから。
「いつの日か、せんせいに対峙する時があったら、その時、褒めて下さいますか? 人として、せいせいの前に立った私を……」
【騎士】を握り締めながら、ミアはどこかに居るはずの『せんせい』にそう呼びかけるのであった。
掃き溜めの中、埃と変わらぬように幼子は居た。
その生まれは『こうき』らしいが、その意味を理解する事は出来るはずもない。
ぼさぼさの茶髪と輝きの無い灰色の瞳は無残そのもので……。
「その髪で、その瞳で、姿を見せるな! さっさと消えろ!」
狂ったような鬼の形相の母親がただただ怖かった。
殴打され蹴り飛ばされた痛みよりも、穴が開きそうな空腹よりも、切り裂かれそうな寒さよりも、なによりも怖かった。
逃げる事もできず、消える事もできず……そんな日が続いたある日、陽の光が突然、差し込んできた。
「ぁ、あ……あ……」
生まれて初めて感じる香りが訪れたのは、掃き溜めから連れ出された日の事だった。
●
それは爽やかな甘い檸檬の香りで……『せんせい』からは、いつも漂っていた。
思い出の果実を手に、ミア=リゼルは朧気な記憶を呼び起こす。ここは静まり返った学園寮の自室。入学時にとある貴族から好意で譲って貰った、使い古された机に――小さい頃の自分の姿が映る。
「せんせい、出来ました」
「ふむ……ツィトリ、見せなさい」
幼い自分が見上げるのは長身の老紳士。
黒青色の瞳は眼光鋭く、幼子が記した書籍の書写を確認する。
幼子にとっては意味の分からない内容でも、幾度も繰り返していけば自然と頭の中に入っていくものだと老紳士は知っていた。
もっとも、その知識をモノに出来るようになるには、幾度もの実践を必要とするのだが……。
「良く出来た子。字の精度も上がっている。続けなさい」
「はい、せんせい」
幼子は灰瞳を輝かせた。
死んだような目をした自分が老紳士に『買われた』時とは違う。
今は世界の全てが、存在の全てが……『せんせい』の為にある。
『せんせい』は認めてくれる。『せんせい』に必要とされている。『せんせい』が褒めてくれる。
「ツィトリ、明日は遊戯盤を用意しておくのだ」
「はいっ!」
幼子は『せんせい』との盤上遊戯が大好きだった。
いつも負けてしまうけれど『せんせい』は褒めてくれる。
だから、一生懸命になれる。いつの日か『せんせい』に勝つ事が出来たら、きっともっと、褒めてくれるから。
約束通り、次の日『せんせい』がやって来た。いつもの香りと共に。
起きた時から楽しみにしていた幼子だったけど、写本のミスに気が付いて気分が落ち込んでいた。
「……せんせい。ごめんなさい……もしかして、頁を飛ばしていたかもしれないです」
申し訳なさそうに両手で写本を差し出す。
けれど、『せんせい』は受け取らなかった。
「ツィトリ。ミスに気が付いたのなら、次から気を付ければいい」
「せんせいにいっぱい褒めて貰ったのに……」
「言ったではないか、良く出来た子。図の精度は上がっていると。頁の抜けは夜にやっておくのだ」
眼光鋭い碧黒色の瞳が優しく見えた。
「さぁ、ツィトリ。始めようではないか」
「はいっ!」
気持ちを切り替えて幼子は盤上に駒を並べていく。
まずは【兵士】を次から次へと置く。【兵士】は最前列で槍を構えて、進んでくる敵を止める役だ。
次に幼子は両隅に【城兵】を立たせた。
「【城兵】さんは皆を守って、【僧兵】さんは【王様】と【女王】を守るのがお仕事」
「その通り。ツィトリ、よく覚えておきなさい」
「はい、せんせい!」
嬉しそうな声を上げて幼子は最後に【騎士】を手にした。
「【騎士】様はお馬さんに乗って戦うの。ぴょんぴょんって飛んで」
「ツィトリは騎士が好きかい?」
老紳士の質問に幼子は満面の笑みを浮かべ、駒を握り締めながら、大きく頷いた。
それからも、幼子は貴族社会で必要とされるあらゆる知識や作法は勿論、武芸や学問などを身に付けていった。
全ては『せんせい』の言い付け通りに。『せんせい』の忠実なる【駒】として。
「わたしは【女王】になれなくとも、『せんせい』の【騎士】になる」
幼さが抜けていない少女が力強く宣言した。
『せんせい』の尖兵として、『せんせい』の敵を倒していく、そんな存在に成りたかった。
なぜなら、『せんせい』はメドゥに関わりがある者だから、『せんせい』の敵は沢山存在している事を、少女は知っていたから。
だから――志願した。ただの【兵士】から昇格する為に。
まだ、成功の目途すら立っていない実験に……。
「良く出来た子。希望するのなら、止める事はしない」
『せんせい』の闇藍色した瞳が真っ直ぐに少女を見つめる。
いつもの香りと共に、覚悟を見定めているような視線は、少女にとって心地良かった。
思えば、ここまでの日々は全て、この瞬間の為にあったのかもしれない。
……そこからの事は、泥の中のようだった。
感じた事のない香りと手応えがあるような煙。不可思議な器具と様々な薬剤の入った小瓶。腕も足もそれぞれの指も……瞳すらも動かせない。
(沈んでいく……どこまでも……せんせい……わたし……)
全身を襲う激痛が嘘のように微睡んで、意識が遠ざかっていく。
幻聴も幻覚も妄想も混じり合って、世界と自分が一つになったような、不思議な感覚。
「なぜ志願させた」
「本人の希望だ」
「万が一にも助かるまい」
それはまるで『せんせい』の心の中まで聞こえているようで。
『せんせい』がこんな状態になっても、わたしを必要としてくれているような、そんな気分が嬉しくもあった。
滲み歪む視界の中、立ち去っていく『せんせい』の後ろ姿。
(……せんせい……せんせ、い……せん……)
その時、身体をふわりと持ち上がった。
僅かにいつもの香りがする。
「良く出来た子。せめて、人の子として……逝け……」
まるで棺のような箱に入れられると、意識を閉じるように蓋が取り付けられるのであった。
●
ミアはグランスパーダのある病院に足を運んでいた。
大きくはないけれど、昔からある由緒正しい病院だ。救済に熱心な貴族達の寄付だけで成り立っており、様々な患者が収容されている。
学園寮で生活をしているミアは時折、この病院に訪れては、治療の手伝いや孤児達の世話などをボランティアしているのだ。
「早いもの……ですね……」
病院の敷地内。今、ミアが立っている足元こそ、置き去りにされた場所であった。
発見時、死亡していたと思われていたらしい。どうして息を吹き返したのか、いや、そもそも、最初から死んではいなかったのか、6年という月日が経過した今では、もはや確かめようがない。
「せんせい……なぜ、せんせいは私をここに置き去りに……いえ、連れてきたの、ですか……」
助かる見込みがあれば、わざわざ病院に運ぶ必要はなかっただろう。
治療できるのであれば、病院のスタッフに預けただろう。
ただ死なせる為になら、連れてくる必要もない。せいせいと共に過ごした、あの場所で『処分』していれば良かったのだ。
「……せんせい。私、変わりました……いえ、変わります。大切な人達と共に、人としての未来を紡いでいきます」
メドゥの指先の構成員ではなく、一人の冒険者として、一人の女性として。
けれど、せんせいが教えてくれたものは無駄にはなっていない。今の自分があるのも、せんせいのおかげだから。
「いつの日か、せんせいに対峙する時があったら、その時、褒めて下さいますか? 人として、せいせいの前に立った私を……」
【騎士】を握り締めながら、ミアはどこかに居るはずの『せんせい』にそう呼びかけるのであった。