リディリディの小さな冒険
キャラクターノベル制作 霧柄頼道納品 2021年12月11日 12時30分05秒
●
リディリディ・トゥラ・イェレミースは冒険者志望だ。
フィルエス大森林を旅立ち、国を越え、リブラネスタを目指している。
そこまでの行程も、半分を過ぎた頃――天頂から差し込む日差しの下、リディリディはある理由から、二人のヒューマンと道を共にしていた。
「さて、村人達が消えたという例の森までどのくらいだろうか」
精悍そうな金髪の青年が、左右に広がるなだらかな平野を眺めやりながら、そんな呟きを漏らす。
「この街道に沿って歩きゃ、もうすぐだろ」
もう一人のヒューマンの男が答える。こちらは黒髪で、鼻が長く目つきの鋭い小男だ。
「あ、あの……が、がんばりましょう、ね」
そんな二人から数歩離れた位置で、リディリディは気後れしたみたいに言葉を発する。
すると金髪の青年が振り返り、快活な笑みを投げかけて来た。
「リディリディ、そこまで緊張しなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなるさ」
――彼らとは、昨日、宿を取るために訪れた村で出会った。
その村内では、ある事件が発生していたのである。
木の実や薬草を採集するため、近くの森へ行った村人が、何人か戻らないのだという。
人をやって探しに行くとしても、何か問題が起きているのだとしたら、その者達まで危険にさらしかねない。冒険者ギルドへ依頼を出すにしても、手間や時間がかかる。
「なら、俺達が様子を見てくるよ」
困っている村人達の前で、金髪の青年――ソーン・ベンデュランと名乗った彼が、こともなげに言い放った。
「おいおい、いいのかよベンデュラン? これはギルドで受けるような依頼とは違うんだ、報酬なんか出ないぜ?」
その横で黒髪の小男――ゾィディが顔をしかめて難色を示す。
「俺達は冒険者志望だ。その仕事の練習みたいなものさ」
ベンデュランはきっぱりと反論した。
「それに、ことは一刻を争うかもしれない。なら少しでも心得がある俺達が調査へ向かった方が、まだ安心だろ?」
森へは徒歩で一日程度。往復も含めれば最短で二日。彼らもまたリブラネスタを目的地とするなら、この程度の寄り道ではさして旅程に響く事もあるまい。
「――どっちみち、困ってる人を見過ごしていくのは寝覚めが悪い。冒険者を目指すならなおさらだ」
ベンデュランの言葉に、すぐ後ろでやりとりを聞いていたリディリディは、はっと胸を衝かれた思いだった。
「……あ、あの……! そのお仕事、私も手伝いたい、です……っ」
そして気づけば、そんな風に勢い込み、同行を申し出ていたのである。
夜。件の森を前にし、街道から少し離れた岩地で、リディリディ達は夜営を行った。
すでに日が落ちているので、森の調査は明日から。今夜は焚火を囲み、狩った野生動物や、川で釣った魚、保存食などで英気を養う。
知り合ったばかりの相手と行動を共にする緊張と疲れはあったが、それでもリディリディの食欲は今日も全開で、ベンデュラン達があっけにとられる旺盛さを見せつけた。
「ええと……お二人はどうして冒険者に……?」
注目が恥ずかしくなり、水を向けて誤魔化しにかかる。
「俺の生まれ育った故郷は、あまり治安の良くない町でね……日々食うにも困る生活をしていたんだけど、ある日町を訪れた、一人の冒険者と知り合ってさ」
ベンデュランはその冒険者と親しくなり、何かと助けてもらったのだという。
「でも、その人は命を落とす羽目になった。俺に関わり――ひいては町へ深く関わったばかりに、その闇に呑まれてしまったんだ」
ベンデュランのトーンが落ちる。が、すぐに首を振って笑顔を浮かべ、肩をすくめた。
「でも、俺はその人がやってきた事が間違っていたとは思わない。故郷にもほとほと嫌気が差したし……抜け出して、冒険者になろうと思ったんだ」
いわばその冒険者は憧れの人。かつて自分が助けられたみたいに、他者を救えるようになりたい――ベンデュランはそう夢を語る。
「俺もベンデュランとは腐れ縁だからよぉ、ついて来てやったんだ。甘ったれた事を言っちゃいるが、まぁ実際、冒険者になりゃガッポリ稼げるだろうしな」
ニヤリとするゾィディを、おい、とベンデュランが苦笑しながら肘で小突く。
比べて、自分はどうなんだろう――とリディリディは思いを巡らせる。
フィルエスを出たのはいわば成り行きというか、展開のあやというか……あの時点ではそれほど、今後への明確なビジョンや強固な信念があったわけではない。
でも、人助けがしたい、というベンデュランの言葉を耳にし、そこに参加しようと意思を固めたのも、また確かだった。
「私もいつかは、ベンデュランさんの目指す憧れの人みたいに、立派な冒険者になれるんでしょうか……?」
「きっとね。冒険者になるまでも、そしてなった後でも、お互いに頑張ろう」
「超大型クリーパーが現れたら、戦う機会だって来るかもな……例えばでっかくてキモい樹木型みたいなのとかよ。うまく功績さえ上げれば、大金持ちだぜ!」
和やかな雰囲気のまま談笑し、ゆっくりと夜は更けていくのだった――。
●
翌日。三人は支度を済ませ、いよいよ森へ踏み込んでいった。
「行方不明者は五人か……ひとまず、しらみ潰しに探すしかないな」
そうですね、とリディリディも相槌を打つ。草を踏みしめ、茂みをかき分けながら進む。 木々は次第に鬱蒼と立ち並び、日差しを所々遮断するようになる。そこそこ奥までやってきた感じだ。
不意にベンデュランが足を止め、腕を上げて後続の二人を制止。黙って前方を指差す。
示された先は、少し開けた広場みたいな地形となっており――中心地には、角を何本と生やした奇怪な生物が存在していた。
「ありゃあ……角兎かぁ?」
角兎。小型で、基本的にあまり脅威度は高くない魔獣だというのは、それなりに広く知られている。
鼻を鳴らしながら、ゾィディが前へ進み出た。ベンデュランが物問いたげな視線を送る。
「――どうする気だ?」
「決まってっだろ。ぶっ倒すんだよ。あんなのがいちゃ、おちおち安心して捜索もできねぇかんな」
ゾィディがにたりと舌を突き出し、得物のナイフをでろりと舐める。
リディリディは嫌な予感がした。
確かにあの角兎はまだこちらに気づいていないし、大した強さもなさそうだが――何か、血の臭いのようなものが周囲に漂っているのである。
止めるべきか躊躇う間に、ゾィディは駆け出し、斬りかかっていた。
瞬間、角兎の姿がその場から消えた。――消えたみたいに、リディリディには見えた。
直後、鮮血が散る。ただしそれは、角兎のものではない。
呆けた声を上げるゾィディ。その胸元には鋭利な傷が刻み込まれ、どくどくぶしゅうと音を立てて血が飛沫き始めたではないか。
「なっ……なんじゃあこりゃあああああ!?」
「――ゾィディ!」
「ゾィディさん!」
とっさにリディリディは、ベンデュランとともに飛び出していた。
そこから何をどうしたか、よく覚えていない。
とにかく、角兎へめがけて必死に魔力を浴びせ、その隙に立ちすくむゾィディをベンデュランが掴み、三人でこけつまろびつ逃げ出して――。
角兎の気配がなくなったあたりで、薬草や傷薬を使い、すぐにゾィディの手当てをした。
「まさか、こんな事になるなんて……」
こめかみを冷や汗が伝っていた。嫌な震えが止まらない。
先ほどの角兎は、きっと自分達よりも格段に強力な個体なのだろう。行方不明になった人達も、恐らくあの魔獣に襲われてしまったに違いない。
「めくらめっぽうに走ったせいか、ここがどこなのか、まるで分からないな……」
ベンデュランが、村でもらった森の地図を広げるものの、現在地は判然としない。まだ日は高いが、自分達は遭難したも同然だった。
「こ、これから、どうしましょう……」
途方に暮れたリディリディの問いに、ベンデュランがうつむきながら答える。
「まずは、森を出よう。しかし、適当に歩いていたら、また魔獣と遭遇する危険性がある」
これがギルドの依頼としてであれば、角兎の正体や目的、強さなど、詳細な情報が事前に提示され、解決するに適切な人数と能力の冒険者達が選ばれていたのだろうが……。
「……なぁ、ひとまず夜まで休まねぇか? そんで暗いうちに、森を出るんだ」
重苦しい沈黙が落ちる中、だしぬけに提案したのは、妙に声音の低いゾィディだった。
「夜に動くのは危険かもだけどよ。どんな生物も夜には寝るはずだ。魔獣だって所詮はけだもの、昼よりは動きが鈍くなるだろ」
その推測を裏付けるだけの、確かな根拠は皆無に等しい。
が、他に妙案が浮かばない以上、夜の強行軍に賭けるしかないのかもしれない――。
●
負傷したゾィディに無理はさせられない。見張りはベンデュランとリディリディが交代で担当する事になった。
だんだんと暗くなる、静まり返った森のどこからか――あの角兎がこちらを監視し、襲い掛かる隙を窺っているかも知れない。
落ち着きなく左右を見回しているうちに、意識にも神経にも疲労感が積み重なる。
今、自分達がいるのは、さっき角兎と遭遇した地形に近い、広場のような場所だ。
茂みに囲まれ、中心部にはうろの開いた大きな木がある。
……ふと、思う。
偶然だろうけれど、ここはフィルエスの、あの場所と風景が似ていた。
かつて、一人のドワーフの少女と出会った――。
――来たら、殺すよ。
背筋から寒気が駆け上がり、身震いしてしまう。
ああ、嫌だ。ネガティブになっているせいか、ひどい事ばかり思い出す。
「……大丈夫かい?」
囁くように静かだけれど、温かみのある声をかけられ、顔を上げた。
角兎を警戒し小さく作った焚火の斜向かいから、ベンデュランが目線を投げてきている。
「大変な事になってしまったな……」
「そうですね……」
「でも、君は一人じゃない。俺達もだ。みんなで力を合わせれば、どうにかなる」
力強く芯の篭もった言葉に、リディリディは勇気づけられる心持ちだった。
「――ともに行こう、そして生き延びよう」
「……はい……っ」
深夜。
見張りを交代したベンデュランは、横になって身体を丸め、静かな寝息を立てるリディリディを見守っていた。
すると突然、茂みをかき分け、顔色を変えたゾィディが飛び出して来る。
先ほど起きてきて、一人で用足しに行っていたはずだが、何かあったのだろうか。
大変だ、とゾィディは押し殺した声で言う。聞けばあの魔獣に、子供が襲われているという。
なぜこの森に、しかもこんな夜に子供がいるのか。村の人間なのか。だとしたらどうして、危険とされているこの森に入って来たのか。ゾィディは何もせず逃げて来たのか。
奇妙に感じる部分は多々あれど、もしも本当なら一大事。
「リディリディ、目を覚ましてくれ……!」
「そんな時間はねぇ、今すぐ行かねぇとガキが死ぬぞ!」
「くっ……」
先導されるままに野営地から引き離され――そうしてゾィディが放った言葉は。
「よし、このまま森を出るぜ」
「なんだと……! 嘘だったのか!?」
「じゃないとお前、あの女を連れて来ちまうだろ」
「当然だ、リディリディは仲間じゃないか」
「仲間じゃねぇよ。囮だ。俺達が生き残るための。だから置いて来た」
返される酷薄な言葉に、絶句した。
「……本気で言ってるのか……?」
「あぁマジだとも……!」
ゾィディは語気を強める。
「誰かの犠牲で多数を助ける。力がねぇ、冒険者でもねぇ俺達は、そうやって命をつないでる。違うか?」
「だが、彼女は……!」
「その場合の犠牲ってのは、俺か、俺の仲間以外の奴がなるべきだろうが! リディリディは所詮、数日前に知り合っただけの赤の他人。……俺はそう思ってる」
ゾィディはいざとなれば、非情な決断を下せる。どんな手を使ってでも自分や、仲間を守るためだ。
――憧れの人へ近づくなどとうそぶき、あの腐りきった故郷を否定したいだけの、無謀な理想論ばかりの自分とは、違う。
……でも。
ベンデュランはぴたりと足を止め、決然と踵を返した。
「俺は……戻る。森を出るなら、全員でだ」
「――おい、待てよ! ふざけるな! くだらねぇ情は捨てろってッ!」
ゾィディはついてこない。どんどん、互いの距離が遠ざかっていく。
「……勝手にしやがれ!」
最後に、木立の向こうから、そんな捨て台詞が吐き捨てられた。
リディリディ・トゥラ・イェレミースは冒険者志望だ。
フィルエス大森林を旅立ち、国を越え、リブラネスタを目指している。
そこまでの行程も、半分を過ぎた頃――天頂から差し込む日差しの下、リディリディはある理由から、二人のヒューマンと道を共にしていた。
「さて、村人達が消えたという例の森までどのくらいだろうか」
精悍そうな金髪の青年が、左右に広がるなだらかな平野を眺めやりながら、そんな呟きを漏らす。
「この街道に沿って歩きゃ、もうすぐだろ」
もう一人のヒューマンの男が答える。こちらは黒髪で、鼻が長く目つきの鋭い小男だ。
「あ、あの……が、がんばりましょう、ね」
そんな二人から数歩離れた位置で、リディリディは気後れしたみたいに言葉を発する。
すると金髪の青年が振り返り、快活な笑みを投げかけて来た。
「リディリディ、そこまで緊張しなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなるさ」
――彼らとは、昨日、宿を取るために訪れた村で出会った。
その村内では、ある事件が発生していたのである。
木の実や薬草を採集するため、近くの森へ行った村人が、何人か戻らないのだという。
人をやって探しに行くとしても、何か問題が起きているのだとしたら、その者達まで危険にさらしかねない。冒険者ギルドへ依頼を出すにしても、手間や時間がかかる。
「なら、俺達が様子を見てくるよ」
困っている村人達の前で、金髪の青年――ソーン・ベンデュランと名乗った彼が、こともなげに言い放った。
「おいおい、いいのかよベンデュラン? これはギルドで受けるような依頼とは違うんだ、報酬なんか出ないぜ?」
その横で黒髪の小男――ゾィディが顔をしかめて難色を示す。
「俺達は冒険者志望だ。その仕事の練習みたいなものさ」
ベンデュランはきっぱりと反論した。
「それに、ことは一刻を争うかもしれない。なら少しでも心得がある俺達が調査へ向かった方が、まだ安心だろ?」
森へは徒歩で一日程度。往復も含めれば最短で二日。彼らもまたリブラネスタを目的地とするなら、この程度の寄り道ではさして旅程に響く事もあるまい。
「――どっちみち、困ってる人を見過ごしていくのは寝覚めが悪い。冒険者を目指すならなおさらだ」
ベンデュランの言葉に、すぐ後ろでやりとりを聞いていたリディリディは、はっと胸を衝かれた思いだった。
「……あ、あの……! そのお仕事、私も手伝いたい、です……っ」
そして気づけば、そんな風に勢い込み、同行を申し出ていたのである。
夜。件の森を前にし、街道から少し離れた岩地で、リディリディ達は夜営を行った。
すでに日が落ちているので、森の調査は明日から。今夜は焚火を囲み、狩った野生動物や、川で釣った魚、保存食などで英気を養う。
知り合ったばかりの相手と行動を共にする緊張と疲れはあったが、それでもリディリディの食欲は今日も全開で、ベンデュラン達があっけにとられる旺盛さを見せつけた。
「ええと……お二人はどうして冒険者に……?」
注目が恥ずかしくなり、水を向けて誤魔化しにかかる。
「俺の生まれ育った故郷は、あまり治安の良くない町でね……日々食うにも困る生活をしていたんだけど、ある日町を訪れた、一人の冒険者と知り合ってさ」
ベンデュランはその冒険者と親しくなり、何かと助けてもらったのだという。
「でも、その人は命を落とす羽目になった。俺に関わり――ひいては町へ深く関わったばかりに、その闇に呑まれてしまったんだ」
ベンデュランのトーンが落ちる。が、すぐに首を振って笑顔を浮かべ、肩をすくめた。
「でも、俺はその人がやってきた事が間違っていたとは思わない。故郷にもほとほと嫌気が差したし……抜け出して、冒険者になろうと思ったんだ」
いわばその冒険者は憧れの人。かつて自分が助けられたみたいに、他者を救えるようになりたい――ベンデュランはそう夢を語る。
「俺もベンデュランとは腐れ縁だからよぉ、ついて来てやったんだ。甘ったれた事を言っちゃいるが、まぁ実際、冒険者になりゃガッポリ稼げるだろうしな」
ニヤリとするゾィディを、おい、とベンデュランが苦笑しながら肘で小突く。
比べて、自分はどうなんだろう――とリディリディは思いを巡らせる。
フィルエスを出たのはいわば成り行きというか、展開のあやというか……あの時点ではそれほど、今後への明確なビジョンや強固な信念があったわけではない。
でも、人助けがしたい、というベンデュランの言葉を耳にし、そこに参加しようと意思を固めたのも、また確かだった。
「私もいつかは、ベンデュランさんの目指す憧れの人みたいに、立派な冒険者になれるんでしょうか……?」
「きっとね。冒険者になるまでも、そしてなった後でも、お互いに頑張ろう」
「超大型クリーパーが現れたら、戦う機会だって来るかもな……例えばでっかくてキモい樹木型みたいなのとかよ。うまく功績さえ上げれば、大金持ちだぜ!」
和やかな雰囲気のまま談笑し、ゆっくりと夜は更けていくのだった――。
●
翌日。三人は支度を済ませ、いよいよ森へ踏み込んでいった。
「行方不明者は五人か……ひとまず、しらみ潰しに探すしかないな」
そうですね、とリディリディも相槌を打つ。草を踏みしめ、茂みをかき分けながら進む。 木々は次第に鬱蒼と立ち並び、日差しを所々遮断するようになる。そこそこ奥までやってきた感じだ。
不意にベンデュランが足を止め、腕を上げて後続の二人を制止。黙って前方を指差す。
示された先は、少し開けた広場みたいな地形となっており――中心地には、角を何本と生やした奇怪な生物が存在していた。
「ありゃあ……角兎かぁ?」
角兎。小型で、基本的にあまり脅威度は高くない魔獣だというのは、それなりに広く知られている。
鼻を鳴らしながら、ゾィディが前へ進み出た。ベンデュランが物問いたげな視線を送る。
「――どうする気だ?」
「決まってっだろ。ぶっ倒すんだよ。あんなのがいちゃ、おちおち安心して捜索もできねぇかんな」
ゾィディがにたりと舌を突き出し、得物のナイフをでろりと舐める。
リディリディは嫌な予感がした。
確かにあの角兎はまだこちらに気づいていないし、大した強さもなさそうだが――何か、血の臭いのようなものが周囲に漂っているのである。
止めるべきか躊躇う間に、ゾィディは駆け出し、斬りかかっていた。
瞬間、角兎の姿がその場から消えた。――消えたみたいに、リディリディには見えた。
直後、鮮血が散る。ただしそれは、角兎のものではない。
呆けた声を上げるゾィディ。その胸元には鋭利な傷が刻み込まれ、どくどくぶしゅうと音を立てて血が飛沫き始めたではないか。
「なっ……なんじゃあこりゃあああああ!?」
「――ゾィディ!」
「ゾィディさん!」
とっさにリディリディは、ベンデュランとともに飛び出していた。
そこから何をどうしたか、よく覚えていない。
とにかく、角兎へめがけて必死に魔力を浴びせ、その隙に立ちすくむゾィディをベンデュランが掴み、三人でこけつまろびつ逃げ出して――。
角兎の気配がなくなったあたりで、薬草や傷薬を使い、すぐにゾィディの手当てをした。
「まさか、こんな事になるなんて……」
こめかみを冷や汗が伝っていた。嫌な震えが止まらない。
先ほどの角兎は、きっと自分達よりも格段に強力な個体なのだろう。行方不明になった人達も、恐らくあの魔獣に襲われてしまったに違いない。
「めくらめっぽうに走ったせいか、ここがどこなのか、まるで分からないな……」
ベンデュランが、村でもらった森の地図を広げるものの、現在地は判然としない。まだ日は高いが、自分達は遭難したも同然だった。
「こ、これから、どうしましょう……」
途方に暮れたリディリディの問いに、ベンデュランがうつむきながら答える。
「まずは、森を出よう。しかし、適当に歩いていたら、また魔獣と遭遇する危険性がある」
これがギルドの依頼としてであれば、角兎の正体や目的、強さなど、詳細な情報が事前に提示され、解決するに適切な人数と能力の冒険者達が選ばれていたのだろうが……。
「……なぁ、ひとまず夜まで休まねぇか? そんで暗いうちに、森を出るんだ」
重苦しい沈黙が落ちる中、だしぬけに提案したのは、妙に声音の低いゾィディだった。
「夜に動くのは危険かもだけどよ。どんな生物も夜には寝るはずだ。魔獣だって所詮はけだもの、昼よりは動きが鈍くなるだろ」
その推測を裏付けるだけの、確かな根拠は皆無に等しい。
が、他に妙案が浮かばない以上、夜の強行軍に賭けるしかないのかもしれない――。
●
負傷したゾィディに無理はさせられない。見張りはベンデュランとリディリディが交代で担当する事になった。
だんだんと暗くなる、静まり返った森のどこからか――あの角兎がこちらを監視し、襲い掛かる隙を窺っているかも知れない。
落ち着きなく左右を見回しているうちに、意識にも神経にも疲労感が積み重なる。
今、自分達がいるのは、さっき角兎と遭遇した地形に近い、広場のような場所だ。
茂みに囲まれ、中心部にはうろの開いた大きな木がある。
……ふと、思う。
偶然だろうけれど、ここはフィルエスの、あの場所と風景が似ていた。
かつて、一人のドワーフの少女と出会った――。
――来たら、殺すよ。
背筋から寒気が駆け上がり、身震いしてしまう。
ああ、嫌だ。ネガティブになっているせいか、ひどい事ばかり思い出す。
「……大丈夫かい?」
囁くように静かだけれど、温かみのある声をかけられ、顔を上げた。
角兎を警戒し小さく作った焚火の斜向かいから、ベンデュランが目線を投げてきている。
「大変な事になってしまったな……」
「そうですね……」
「でも、君は一人じゃない。俺達もだ。みんなで力を合わせれば、どうにかなる」
力強く芯の篭もった言葉に、リディリディは勇気づけられる心持ちだった。
「――ともに行こう、そして生き延びよう」
「……はい……っ」
深夜。
見張りを交代したベンデュランは、横になって身体を丸め、静かな寝息を立てるリディリディを見守っていた。
すると突然、茂みをかき分け、顔色を変えたゾィディが飛び出して来る。
先ほど起きてきて、一人で用足しに行っていたはずだが、何かあったのだろうか。
大変だ、とゾィディは押し殺した声で言う。聞けばあの魔獣に、子供が襲われているという。
なぜこの森に、しかもこんな夜に子供がいるのか。村の人間なのか。だとしたらどうして、危険とされているこの森に入って来たのか。ゾィディは何もせず逃げて来たのか。
奇妙に感じる部分は多々あれど、もしも本当なら一大事。
「リディリディ、目を覚ましてくれ……!」
「そんな時間はねぇ、今すぐ行かねぇとガキが死ぬぞ!」
「くっ……」
先導されるままに野営地から引き離され――そうしてゾィディが放った言葉は。
「よし、このまま森を出るぜ」
「なんだと……! 嘘だったのか!?」
「じゃないとお前、あの女を連れて来ちまうだろ」
「当然だ、リディリディは仲間じゃないか」
「仲間じゃねぇよ。囮だ。俺達が生き残るための。だから置いて来た」
返される酷薄な言葉に、絶句した。
「……本気で言ってるのか……?」
「あぁマジだとも……!」
ゾィディは語気を強める。
「誰かの犠牲で多数を助ける。力がねぇ、冒険者でもねぇ俺達は、そうやって命をつないでる。違うか?」
「だが、彼女は……!」
「その場合の犠牲ってのは、俺か、俺の仲間以外の奴がなるべきだろうが! リディリディは所詮、数日前に知り合っただけの赤の他人。……俺はそう思ってる」
ゾィディはいざとなれば、非情な決断を下せる。どんな手を使ってでも自分や、仲間を守るためだ。
――憧れの人へ近づくなどとうそぶき、あの腐りきった故郷を否定したいだけの、無謀な理想論ばかりの自分とは、違う。
……でも。
ベンデュランはぴたりと足を止め、決然と踵を返した。
「俺は……戻る。森を出るなら、全員でだ」
「――おい、待てよ! ふざけるな! くだらねぇ情は捨てろってッ!」
ゾィディはついてこない。どんどん、互いの距離が遠ざかっていく。
「……勝手にしやがれ!」
最後に、木立の向こうから、そんな捨て台詞が吐き捨てられた。
登場キャラクター
リディリディ・トゥラ・イェレミース