覚醒の星
キャラクターノベル制作 真柄 葉納品 2021年08月16日 10時30分56秒
空を見上げた。
夜空には満天の星々が輝きを競っている。
力強く明るい星、暗く消えそうな星、赤い星、青い星、白い星、月――。
見上げるだけでそこには様々な物語が籠められているように思う。
神話、と言われるものを姉から聞いた事を思い出した。星々を線で結び、形を想像して物語を創造する。そう言う遊び。昔の人はきっとロマンティックな人が多かったのだろう。それとも、よっぽど暇を持て余していたのか。
「ティトや。寒くなるから降りておいで。傷に触るよ」
尖がり屋根に背を預け、夜空を見上げていたティトを地上から老婆が呼んでいた。
ティトは下を覗き込み、こくりと頷く。
動かなくなった右足を腕で抱え膝を立てさせると、動く方の左足で勢いよく立ち上がった。ちょっとバランスを崩しふらふらして、下から悲鳴が聞こえたが、何とか体勢を立て直し近くの出窓まで這っていく。開けっ放しの木窓へ体を滑り込ませ、両手両端で床に着地。近くにあった椅子を支えに起き上がって、そのまま腰を掛けた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、手を伸ばして木窓を閉める。
北壁山脈に近いこの集落は、夏でも朝晩はすごく冷える。机に置いてあった獣脂ランプに火を入れた後、老婆に言われたようにピッタリと窓を閉じて外気を遮断した。
椅子ごとずるずると寝台へと移動し、冷たくなったベッドに倒れ込む。そして、もぞもぞと服を脱ぎ、寝間着に着替えるとそのまま毛布にくるまった。
「……温かい」
冷たかった体とベッドがゆっくりと熱を帯びてくる。
ティトは鼻まで引っ張り上げた毛布の中でぎゅっと自分の身体を抱いた。
あの恐怖の一週間。
敵の罠にはまり全てを失ったあの時のことは、一年近くたった今でも夢に見る。
冷たい鎖。乾き。飢え……恐怖。
今でもふと縛られているのではないかと錯覚してしまう。
ティトは毛布の中で今も消えず残る鎖の跡を摩った。
●
あの日、ティトは祖父に連れられ、故郷の集落へ戻ってきた。
集落の民は皆、我が子が帰ってきたとばかりに喜びティトを迎えてくれた。
ティトの身体が不自由になったと知らされた村人達は、こぞって世話は任せろと言ってくれる。しかし、ティトにはそれが嬉しくもあり申し訳なくもあった。そもそも、集落を出たのは何のためか。早く一人前になって集落の皆へ恩返しをする為ではなかったのか。
それがどうだ。集落を出て1年もたたずに舞い戻り、今度は今まで以上に集落の皆の世話にならなければいけない。動かない足ではまともに歩くこともできず、感覚がない左腕では集落の皆の仕事も手伝えない。歪に曲がった指では食事も綺麗にとはいかないし、靄のかかる右側の視界のせいで何度体をぶつけた事だろう。
集落へ帰ってきたばかりの時は、それこそ誰かに支えてもらえなければ何もできない自分を恥じた。食事も、入浴も、排せつもどれもまともに出来なかった。
もう一生このままなのかと絶望した時期もあったけど、集落の皆に見守られ、祖父グェンからの手紙にも励まされ、一生懸命体の機能回復に努めた。
努力は嫌いじゃない。あの厳しい試験を最年少で突破したのは伊達じゃない。自分にそう言い聞かせながら、沢山の努力をした。ティトは集落の皆に支えられながら、自分の身体と向き合いゆっくりと怪我と向き合っていった。
今では身の回りのことは自分で何とかできるようになったし、さっきの様に屋根に登ったりなんてこともできるようになった。……沢山怒られるけど。
それもこれも、集落の皆の優しさと暖かさのおかげ。身寄りもないこんな子供を親身になって世話してくれた。
そもそも人口が少ない集落だから皆が家族とも言えなくはないけど、一度集落を出た人間なのに、そんな事を気にせずにだ。集落の人間にしてみれば、そんな当然の事だろうというのだろうけど、一度外に出たから分る。この集落の暖かさは唯一無二だって。
「……温かい」
毎夜毎夜、ベッドの中で同じことを考えては、同じ結論に至る。
それでもこれをしないと『あの時の夢』を見てしまう。だから、温かく迎えてくれた皆への感謝を忘れない為にも、瞳を閉じて思い出すことにしていた。
集落へ戻ってからもうすぐ3カ月になる。
身体は随分と回復した。もちろん動かなくなった足や感覚がない手、曲がった指は元には戻らない。それでも使い方さえ分かればなんとかなる。足以外はまだちゃんと自分の意志に従って動いてくれるのだから。
ティトは毛布の中で感覚がない左手を動かしてみる。動かすたびに毛布が揺れるから動いているのだ。でも、感覚がないから動いているのかわからない。
感覚のある右手で触ってみる。確かにそこには腕がある。でも、触られている左腕は何も感じない。
「……あるのに、ない。ぼく、みたい」
毛布の中でぽつりとつぶやき、手を下ろした。
今ここにいる自分は、この左腕のようだと思う。この集落に確かに居る。でも、この集落には要らない。そんな存在。
皆の助けなしでは何もできない足手まとい。心配させてばかりの死に体。
「なさけ、ない……」
ティトは自分の不甲斐なさを悔いた。毎日が自戒の連続だった。
●
祖父グェンに助けられてから一週間。
祖父に聞かされて自分でも驚いたが、それはティトが昏睡していた期間だそうだ。
「ここは……」
見慣れぬ天井。見慣れぬ部屋。見慣れぬ女の人。聞き慣れない……掠れた声――。
目を覚ましたティトは、凝り固まった首を何とか動かし自分の置かれた状況の把握を試みた。
得られた情報を元に、自分の現在を予測する。
「……病院」
掠れた声で呟くと、見ず知らずの女の人が慌てて部屋を出ていった。
医療兵の服を着ていたからきっと看護の人だろう。自分は祖父に病院に連れてこられたのだろうか。
朧気な記憶をたどる。
あの日、助けに来てくれた祖父の姿を見て気を失った。
それからの事はほとんど覚えていないが、祖父の背中が広かったことはなんとなく覚えている。
「生きて、いるの……」
生を実感するにはあまりにも世界が不明瞭だった。
瞳に映るのは先ほど見た景色だけ。ここは知らない場所。自分の知っているものが何一つない世界。
ティトは何か一つでも知っているものがないかと体をよじる。――だが、いくら動けと指令を送っても、まるで反応がない。体が動かない。固定されているのか、それとも失ったのか。それすらもわからない。
「……なん、で」
死んでいないの、と続けそうになって言葉を飲み込んだ。
死ぬことを許されなかったあの場所での日々は、思い出しただけでも吐き気を覚える凄惨な経験だった。
身体を傷つけられ、いじられ、弄ばれた。
痛いと叫ばずに我慢したのが馬鹿みたいだった。相手はそれを楽しんでいたのだから。何を意固地になっていたのか。なぜ相手に悦楽を与えていたのか。
次第にクリアになっていく思考で、あの日々、あの場所にあった自分を客観的に見つめている。
「馬鹿……ぼくの、ばか……」
あの人はどうなったのか。一緒に仕事をしていたあの軽薄な青年は。
まんまと敵の罠にはまり、行方の知れなくなった同僚。目を閉じれば、人好きのする笑顔がすぐに浮かぶ。
あの牢獄で治療係の男が言っていた。『見るのも無残だった』と。
それは彼の何を意味しているのか。もしかしたら、自分と同じように救い出されこの病院のどこかに収容されているのか。
聞きたい。あの青年の今を。
先ほどの医療兵はどこに行ったのだろう。早く戻ってきてくれないだろうか。聞きたいことは山ほどある。
「はやく、戻って、きて。じゃないと……ぼくが、こわれ――」
「ティト……! 目を覚ましたのか!!」
突然聞こえた声に、溢れそうなものを慌てて引っ込ませる。
聞き覚えのある声。ああ、ようやく知っているものが現れた。
ティトはゆっくりと首を横に動かす。途端、視界が闇に覆われた。
「グェン……痛い」
暖かで力強い腕に顔が包まれている。苦情を申し立てるが力は一向に弱まらない。
頭の上からはかすれる声と共に、熱い雫が何度も耳を打った。
「……起きれるか、ティト」
「ん」
ようやく解放してくれた祖父グェンに言われ、体に力を入れてみる。
だが、やはり力が入らない。
「……起こし、て、グェン」
ティトが小さく呟くと、グエンは太い腕をティトの身体の下に滑り込ませ、上半身を起こしてくれた。
「何か飲むか?」
「うん」
グェンに言われこくりと頷く。起きた時よりは随分と声が出るようになったが、おかげで喉の渇きを実感していた。
グェンはすぐにサイドテーブルから水飲みを取り、ティトの口に当ててくれる。
ゆっくりと傾けられる水飲み。ティトは流れ出てくる水を嚥下していった。
「……ありがとう」
「他に何か必要なものはないか? 腹は減ってないか? 風呂はどうだ?」
「大丈夫、今は、いい」
帰って来た言葉に残念そうに表情を曇らせる祖父に苦笑しながら、ティトはゆっくりとグェンと視線を合わせる。
「グェン、教え、て」
ティトの言葉に世話焼き爺だったグェンの表情が、軍人のそれに変わった。
「……聞かない方がいい事もあるぞ」
「いい。聞かせ、て」
「……全部か?」
「ん、全部」
まだ13歳の幼い少女が、真剣な瞳に決意をにじませている。
グェンはしばらくティトの瞳を見つめていたが、ついに観念したのか大きなため息をつくと「わかった」と短く答えた。
そして、あの場所から、この場所に至るまでの経緯を包み隠さず話してくれた。
「……あの人、は」
話を聞き終わってティトが最初に発した言葉は、同僚の名前事だった。
「……聞くな」
しかし、グェンから返ってきた言葉で全てを悟った。
あの人はもう……。
「……わかった」
ティトはそれ以上聞くのをやめた。そして、もう二度と聞くまいと心に誓った。
「ティト、お前の軍籍だが……」
「うん……除籍、でしょ」
「……わかっていたか」
「こんな、体じゃ……ね」
ティトはそう言って自嘲する。
グェンに体を起こされて時から、ずっと自分の身体を動かそうと努力していた。
何が動いて、何が動かないのか。どこが正常で、どこが異常なのか。それを知る為に、グェンの話を聞きながら一つ一つ試いしていたのだ。
そして、知った。今自分がどういう体なのかを。
「ぼくは、どうすれば、いい?」
「郷に帰れ。郷の皆なら温かく迎えてくれる」
「……折角出て来たのに、ね」
「……」
再び自嘲するティトにグェンは何も返さずじっと彼女を見つめていた。
●
「そろそろ雪が降りそうだね」
食卓に並ぶ質素ながらも温かい料理に匙を伸ばしたティトに、老婆はぽつりとつぶやいた。
季節は短い秋を越え、冬に片足を突っ込んでいる。
日に日に寒くなる集落。老婆が言う様に降雪が始まり、雪が全てを閉ざす時期になってくる。
ティトは雪が嫌いだった。
自分と似た白い雪。冬の間ずっと降り続き、この集落を閉ざしてしまう雪。
外に出る事もかなわず、ずっと巣籠しなければいけない冬は、快活なティトにとってとてもつまらなかった。
室内では剣を振るう事も出来ず、体を動かす事と言えば筋力を鍛えるくらい。それもずっとしているわけではなかったので、すぐに時間を持て余した。
そして、有り余る時間を利用して行われるのが……『勉強』だった。
姉がここぞとばかりに文字の書き取りを教えて来た。
『強くなるには身体を鍛えると共に、心と知識も鍛えなければならない』
それが姉の持論だったから、雪に閉ざされる冬はその『心』と『知識』を磨くのに長い時間を割かれた。ゆくゆくは亡き父の様な立派な人物になって、この集落を背負っていかなければならないティトには必ず必要になるからと、いつもいつも言っていた。
でも、ティトは文字の書き取りが苦手だった。生来の小柄であった為、手も指も小さい。だから、筆を持つのが苦手で、姉が望む様な『綺麗な字』というものがなかなか書けずにいた。
ゆっくりとでいいからと、姉は優しく言ってくれたが、苦手なものは苦手だからしょうがない。いつもミミズが這った様な字を書いては姉の眉間に皺を寄せさせていた。
姉は容赦がなかったから、一字一字綺麗に書けるようになるまで、とことん書かされた。いつもは木板に書いていたが、『テスト』だと言って貴重な紙を使う事もあった。そんな貴重なものを使われたら余計に緊張して手が震えるのに、と内心思いながらも一生懸命字の練習をした。
練習の時は長い時間、椅子に座りっぱなしなのでお尻がムズムズする。気を紛らわそうと尻尾をふらふらさせているとムギュッと掴まれた。
『ふにゃっ!?』と、まるで猫のような悲鳴を上げるが、姉は知らんぷりで授業を続ける。
冬は……姉との距離が近かった。
「ティトや。どうかしたのかい? 美味しくなかったかい?」
匙を口元にくすくすと笑うティトに、老婆が心配そうに問いかける。
「違う、の。ちょっと、思い出した、だけ」
ティトは不安げに見つめる老婆にふるふると首を振って、少し冷めてしまったスープを口に運ぶ。
肉なんて贅沢なものは入っていない粗末なスープ。それでも、この料理上手な老婆に掛かれば肉入りスープなんかよりもずっとずっと美味しくなる。野菜くずが美味さの秘訣だよと教えてくれたけど、なんでくずで美味しくなるのかよくわからなかった。だけど、謎に美味しいスープを食べられるだけでとても満足だった。
「美味しい、ね」
「そうかい、ありがとう」
いつもと同じお礼の言葉。話すことが苦手なティトには気の利いたセリフなんて言えない。なのに老婆はいつも嬉しそうに笑顔で答えてくれる。
本当に大切にされているなと感じた。
「ねぇ、ばあ」
「どうしたんだい、ティト」
「手紙を、書き、たい」
「手紙かい? ああ、グェンにだね。それじゃ、後で紙を用意しようか」
「ちが……ううん、ありがとう」
老婆は手紙もいいけど今は食事だよと、おかわりを勧めてくれた。
●
その日の夜、自室に戻ったティトは老婆の用意してくれた紙を、じっと見つめていた。
紙はまだ真っ白。一筆も入れられていない。
「……なんて、書こう」
ティトは紙を見つめながら、ふらふらと尻尾を揺らす。
今となっては誰も「お行儀が悪い」と言ってくれなくなった行為。
少しだけ寂しさを感じながら、ティトは筆をインクに浸すと、紙に乗せた。
あれだけ何を書こうか迷っていたのに、いざ紙の上に筆を乗せると、びっくりするくらいさらさらと筆が走っていく。
麻痺したのが左腕で本当によかったと思う。もし右腕だったら、あの辛く厳しい冬が、全部無駄になってしまっていた。
今だけはそれに感謝しつつ、文字をつづっていく。
「……ぼくは、元気、だよ」
紙に記した文字と同じ文言を口にした。
文字は姉のスパルタのおかげか、訓練施設でもその腕前にとても驚かれた。座学自体はそれほど得意だったわけではないけど、文字が綺麗だと認められてからは、文章の作成依頼が軍から来たこともあったくらいだ。もちろん機密文章ではない広報的なものだったが、当時はそれが嬉しかった。
訓練施設では実力は隠さないといけなかったから、色々とうっぷんが溜まっていた。だけど、文字を書くことは実力を隠すのに関係がないだろうと、特に制限せずに書けた。
「そちらは、どうして、いますか。集落は、もうすぐ、雪が降る、季節です……」
この字を授けてくれた大切な人の顔を思い浮かべながら、紙に筆を走らせる。
霞む視界で字の並びがずれそうになるのに注意しつつ、綺麗だと褒められた字を紙に書いていく。
「あれから、色んな事が、ありました……」
だけど、そこまで書いて筆が止まった。
老婆にはグェンへの手紙だと思われたが、この手紙の宛先は行方不明の姉だった。
実は姉に手紙を出すのは初めてだ。集落に居た時はすぐ近くにいてくれたから出す必要はなかったし、姉と別れて訓練施設へ入ってからは忙しくてとてもそれどころじゃなかった。軍部へ配属になってからは、この集落へ何度か手紙を書いたくらいで、姉への手紙はなぜか書かなかった。
「なのに……なんで――」
書こうとしたのだろう。
不自由な体でやることが無いから?
村の今を伝えたいから?
姉と別れてからの自分を知ってほしいから?
「……どれも、違う」
この手紙は何を伝えるためのものなのだろう。
自分は姉に何を知ってもらいたいのだろう。
そもそも姉の所在がわからないから、この手紙が完成したって、手元に届ける事が出来ない。
なのになんで書いているのだろう。なんで書きたい――書かなきゃと思ったのだろう。
「……」
ティトは理由に迷いながらも、当たり障りのない挨拶から、訓練施設の事、軍の事、そして怪我の事……。今は村に戻った事を紙に記していく。
そして、最後の一文を結んでから、あらためて気づいた。
「……あなたに、あいたい、です」
それはティトが半ば無意識に手紙に記していた結びの一文。
「……そうか、ぼくは――」
ただ『会いたい』と伝えたかったんだ――。
夜空には満天の星々が輝きを競っている。
力強く明るい星、暗く消えそうな星、赤い星、青い星、白い星、月――。
見上げるだけでそこには様々な物語が籠められているように思う。
神話、と言われるものを姉から聞いた事を思い出した。星々を線で結び、形を想像して物語を創造する。そう言う遊び。昔の人はきっとロマンティックな人が多かったのだろう。それとも、よっぽど暇を持て余していたのか。
「ティトや。寒くなるから降りておいで。傷に触るよ」
尖がり屋根に背を預け、夜空を見上げていたティトを地上から老婆が呼んでいた。
ティトは下を覗き込み、こくりと頷く。
動かなくなった右足を腕で抱え膝を立てさせると、動く方の左足で勢いよく立ち上がった。ちょっとバランスを崩しふらふらして、下から悲鳴が聞こえたが、何とか体勢を立て直し近くの出窓まで這っていく。開けっ放しの木窓へ体を滑り込ませ、両手両端で床に着地。近くにあった椅子を支えに起き上がって、そのまま腰を掛けた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、手を伸ばして木窓を閉める。
北壁山脈に近いこの集落は、夏でも朝晩はすごく冷える。机に置いてあった獣脂ランプに火を入れた後、老婆に言われたようにピッタリと窓を閉じて外気を遮断した。
椅子ごとずるずると寝台へと移動し、冷たくなったベッドに倒れ込む。そして、もぞもぞと服を脱ぎ、寝間着に着替えるとそのまま毛布にくるまった。
「……温かい」
冷たかった体とベッドがゆっくりと熱を帯びてくる。
ティトは鼻まで引っ張り上げた毛布の中でぎゅっと自分の身体を抱いた。
あの恐怖の一週間。
敵の罠にはまり全てを失ったあの時のことは、一年近くたった今でも夢に見る。
冷たい鎖。乾き。飢え……恐怖。
今でもふと縛られているのではないかと錯覚してしまう。
ティトは毛布の中で今も消えず残る鎖の跡を摩った。
●
あの日、ティトは祖父に連れられ、故郷の集落へ戻ってきた。
集落の民は皆、我が子が帰ってきたとばかりに喜びティトを迎えてくれた。
ティトの身体が不自由になったと知らされた村人達は、こぞって世話は任せろと言ってくれる。しかし、ティトにはそれが嬉しくもあり申し訳なくもあった。そもそも、集落を出たのは何のためか。早く一人前になって集落の皆へ恩返しをする為ではなかったのか。
それがどうだ。集落を出て1年もたたずに舞い戻り、今度は今まで以上に集落の皆の世話にならなければいけない。動かない足ではまともに歩くこともできず、感覚がない左腕では集落の皆の仕事も手伝えない。歪に曲がった指では食事も綺麗にとはいかないし、靄のかかる右側の視界のせいで何度体をぶつけた事だろう。
集落へ帰ってきたばかりの時は、それこそ誰かに支えてもらえなければ何もできない自分を恥じた。食事も、入浴も、排せつもどれもまともに出来なかった。
もう一生このままなのかと絶望した時期もあったけど、集落の皆に見守られ、祖父グェンからの手紙にも励まされ、一生懸命体の機能回復に努めた。
努力は嫌いじゃない。あの厳しい試験を最年少で突破したのは伊達じゃない。自分にそう言い聞かせながら、沢山の努力をした。ティトは集落の皆に支えられながら、自分の身体と向き合いゆっくりと怪我と向き合っていった。
今では身の回りのことは自分で何とかできるようになったし、さっきの様に屋根に登ったりなんてこともできるようになった。……沢山怒られるけど。
それもこれも、集落の皆の優しさと暖かさのおかげ。身寄りもないこんな子供を親身になって世話してくれた。
そもそも人口が少ない集落だから皆が家族とも言えなくはないけど、一度集落を出た人間なのに、そんな事を気にせずにだ。集落の人間にしてみれば、そんな当然の事だろうというのだろうけど、一度外に出たから分る。この集落の暖かさは唯一無二だって。
「……温かい」
毎夜毎夜、ベッドの中で同じことを考えては、同じ結論に至る。
それでもこれをしないと『あの時の夢』を見てしまう。だから、温かく迎えてくれた皆への感謝を忘れない為にも、瞳を閉じて思い出すことにしていた。
集落へ戻ってからもうすぐ3カ月になる。
身体は随分と回復した。もちろん動かなくなった足や感覚がない手、曲がった指は元には戻らない。それでも使い方さえ分かればなんとかなる。足以外はまだちゃんと自分の意志に従って動いてくれるのだから。
ティトは毛布の中で感覚がない左手を動かしてみる。動かすたびに毛布が揺れるから動いているのだ。でも、感覚がないから動いているのかわからない。
感覚のある右手で触ってみる。確かにそこには腕がある。でも、触られている左腕は何も感じない。
「……あるのに、ない。ぼく、みたい」
毛布の中でぽつりとつぶやき、手を下ろした。
今ここにいる自分は、この左腕のようだと思う。この集落に確かに居る。でも、この集落には要らない。そんな存在。
皆の助けなしでは何もできない足手まとい。心配させてばかりの死に体。
「なさけ、ない……」
ティトは自分の不甲斐なさを悔いた。毎日が自戒の連続だった。
●
祖父グェンに助けられてから一週間。
祖父に聞かされて自分でも驚いたが、それはティトが昏睡していた期間だそうだ。
「ここは……」
見慣れぬ天井。見慣れぬ部屋。見慣れぬ女の人。聞き慣れない……掠れた声――。
目を覚ましたティトは、凝り固まった首を何とか動かし自分の置かれた状況の把握を試みた。
得られた情報を元に、自分の現在を予測する。
「……病院」
掠れた声で呟くと、見ず知らずの女の人が慌てて部屋を出ていった。
医療兵の服を着ていたからきっと看護の人だろう。自分は祖父に病院に連れてこられたのだろうか。
朧気な記憶をたどる。
あの日、助けに来てくれた祖父の姿を見て気を失った。
それからの事はほとんど覚えていないが、祖父の背中が広かったことはなんとなく覚えている。
「生きて、いるの……」
生を実感するにはあまりにも世界が不明瞭だった。
瞳に映るのは先ほど見た景色だけ。ここは知らない場所。自分の知っているものが何一つない世界。
ティトは何か一つでも知っているものがないかと体をよじる。――だが、いくら動けと指令を送っても、まるで反応がない。体が動かない。固定されているのか、それとも失ったのか。それすらもわからない。
「……なん、で」
死んでいないの、と続けそうになって言葉を飲み込んだ。
死ぬことを許されなかったあの場所での日々は、思い出しただけでも吐き気を覚える凄惨な経験だった。
身体を傷つけられ、いじられ、弄ばれた。
痛いと叫ばずに我慢したのが馬鹿みたいだった。相手はそれを楽しんでいたのだから。何を意固地になっていたのか。なぜ相手に悦楽を与えていたのか。
次第にクリアになっていく思考で、あの日々、あの場所にあった自分を客観的に見つめている。
「馬鹿……ぼくの、ばか……」
あの人はどうなったのか。一緒に仕事をしていたあの軽薄な青年は。
まんまと敵の罠にはまり、行方の知れなくなった同僚。目を閉じれば、人好きのする笑顔がすぐに浮かぶ。
あの牢獄で治療係の男が言っていた。『見るのも無残だった』と。
それは彼の何を意味しているのか。もしかしたら、自分と同じように救い出されこの病院のどこかに収容されているのか。
聞きたい。あの青年の今を。
先ほどの医療兵はどこに行ったのだろう。早く戻ってきてくれないだろうか。聞きたいことは山ほどある。
「はやく、戻って、きて。じゃないと……ぼくが、こわれ――」
「ティト……! 目を覚ましたのか!!」
突然聞こえた声に、溢れそうなものを慌てて引っ込ませる。
聞き覚えのある声。ああ、ようやく知っているものが現れた。
ティトはゆっくりと首を横に動かす。途端、視界が闇に覆われた。
「グェン……痛い」
暖かで力強い腕に顔が包まれている。苦情を申し立てるが力は一向に弱まらない。
頭の上からはかすれる声と共に、熱い雫が何度も耳を打った。
「……起きれるか、ティト」
「ん」
ようやく解放してくれた祖父グェンに言われ、体に力を入れてみる。
だが、やはり力が入らない。
「……起こし、て、グェン」
ティトが小さく呟くと、グエンは太い腕をティトの身体の下に滑り込ませ、上半身を起こしてくれた。
「何か飲むか?」
「うん」
グェンに言われこくりと頷く。起きた時よりは随分と声が出るようになったが、おかげで喉の渇きを実感していた。
グェンはすぐにサイドテーブルから水飲みを取り、ティトの口に当ててくれる。
ゆっくりと傾けられる水飲み。ティトは流れ出てくる水を嚥下していった。
「……ありがとう」
「他に何か必要なものはないか? 腹は減ってないか? 風呂はどうだ?」
「大丈夫、今は、いい」
帰って来た言葉に残念そうに表情を曇らせる祖父に苦笑しながら、ティトはゆっくりとグェンと視線を合わせる。
「グェン、教え、て」
ティトの言葉に世話焼き爺だったグェンの表情が、軍人のそれに変わった。
「……聞かない方がいい事もあるぞ」
「いい。聞かせ、て」
「……全部か?」
「ん、全部」
まだ13歳の幼い少女が、真剣な瞳に決意をにじませている。
グェンはしばらくティトの瞳を見つめていたが、ついに観念したのか大きなため息をつくと「わかった」と短く答えた。
そして、あの場所から、この場所に至るまでの経緯を包み隠さず話してくれた。
「……あの人、は」
話を聞き終わってティトが最初に発した言葉は、同僚の名前事だった。
「……聞くな」
しかし、グェンから返ってきた言葉で全てを悟った。
あの人はもう……。
「……わかった」
ティトはそれ以上聞くのをやめた。そして、もう二度と聞くまいと心に誓った。
「ティト、お前の軍籍だが……」
「うん……除籍、でしょ」
「……わかっていたか」
「こんな、体じゃ……ね」
ティトはそう言って自嘲する。
グェンに体を起こされて時から、ずっと自分の身体を動かそうと努力していた。
何が動いて、何が動かないのか。どこが正常で、どこが異常なのか。それを知る為に、グェンの話を聞きながら一つ一つ試いしていたのだ。
そして、知った。今自分がどういう体なのかを。
「ぼくは、どうすれば、いい?」
「郷に帰れ。郷の皆なら温かく迎えてくれる」
「……折角出て来たのに、ね」
「……」
再び自嘲するティトにグェンは何も返さずじっと彼女を見つめていた。
●
「そろそろ雪が降りそうだね」
食卓に並ぶ質素ながらも温かい料理に匙を伸ばしたティトに、老婆はぽつりとつぶやいた。
季節は短い秋を越え、冬に片足を突っ込んでいる。
日に日に寒くなる集落。老婆が言う様に降雪が始まり、雪が全てを閉ざす時期になってくる。
ティトは雪が嫌いだった。
自分と似た白い雪。冬の間ずっと降り続き、この集落を閉ざしてしまう雪。
外に出る事もかなわず、ずっと巣籠しなければいけない冬は、快活なティトにとってとてもつまらなかった。
室内では剣を振るう事も出来ず、体を動かす事と言えば筋力を鍛えるくらい。それもずっとしているわけではなかったので、すぐに時間を持て余した。
そして、有り余る時間を利用して行われるのが……『勉強』だった。
姉がここぞとばかりに文字の書き取りを教えて来た。
『強くなるには身体を鍛えると共に、心と知識も鍛えなければならない』
それが姉の持論だったから、雪に閉ざされる冬はその『心』と『知識』を磨くのに長い時間を割かれた。ゆくゆくは亡き父の様な立派な人物になって、この集落を背負っていかなければならないティトには必ず必要になるからと、いつもいつも言っていた。
でも、ティトは文字の書き取りが苦手だった。生来の小柄であった為、手も指も小さい。だから、筆を持つのが苦手で、姉が望む様な『綺麗な字』というものがなかなか書けずにいた。
ゆっくりとでいいからと、姉は優しく言ってくれたが、苦手なものは苦手だからしょうがない。いつもミミズが這った様な字を書いては姉の眉間に皺を寄せさせていた。
姉は容赦がなかったから、一字一字綺麗に書けるようになるまで、とことん書かされた。いつもは木板に書いていたが、『テスト』だと言って貴重な紙を使う事もあった。そんな貴重なものを使われたら余計に緊張して手が震えるのに、と内心思いながらも一生懸命字の練習をした。
練習の時は長い時間、椅子に座りっぱなしなのでお尻がムズムズする。気を紛らわそうと尻尾をふらふらさせているとムギュッと掴まれた。
『ふにゃっ!?』と、まるで猫のような悲鳴を上げるが、姉は知らんぷりで授業を続ける。
冬は……姉との距離が近かった。
「ティトや。どうかしたのかい? 美味しくなかったかい?」
匙を口元にくすくすと笑うティトに、老婆が心配そうに問いかける。
「違う、の。ちょっと、思い出した、だけ」
ティトは不安げに見つめる老婆にふるふると首を振って、少し冷めてしまったスープを口に運ぶ。
肉なんて贅沢なものは入っていない粗末なスープ。それでも、この料理上手な老婆に掛かれば肉入りスープなんかよりもずっとずっと美味しくなる。野菜くずが美味さの秘訣だよと教えてくれたけど、なんでくずで美味しくなるのかよくわからなかった。だけど、謎に美味しいスープを食べられるだけでとても満足だった。
「美味しい、ね」
「そうかい、ありがとう」
いつもと同じお礼の言葉。話すことが苦手なティトには気の利いたセリフなんて言えない。なのに老婆はいつも嬉しそうに笑顔で答えてくれる。
本当に大切にされているなと感じた。
「ねぇ、ばあ」
「どうしたんだい、ティト」
「手紙を、書き、たい」
「手紙かい? ああ、グェンにだね。それじゃ、後で紙を用意しようか」
「ちが……ううん、ありがとう」
老婆は手紙もいいけど今は食事だよと、おかわりを勧めてくれた。
●
その日の夜、自室に戻ったティトは老婆の用意してくれた紙を、じっと見つめていた。
紙はまだ真っ白。一筆も入れられていない。
「……なんて、書こう」
ティトは紙を見つめながら、ふらふらと尻尾を揺らす。
今となっては誰も「お行儀が悪い」と言ってくれなくなった行為。
少しだけ寂しさを感じながら、ティトは筆をインクに浸すと、紙に乗せた。
あれだけ何を書こうか迷っていたのに、いざ紙の上に筆を乗せると、びっくりするくらいさらさらと筆が走っていく。
麻痺したのが左腕で本当によかったと思う。もし右腕だったら、あの辛く厳しい冬が、全部無駄になってしまっていた。
今だけはそれに感謝しつつ、文字をつづっていく。
「……ぼくは、元気、だよ」
紙に記した文字と同じ文言を口にした。
文字は姉のスパルタのおかげか、訓練施設でもその腕前にとても驚かれた。座学自体はそれほど得意だったわけではないけど、文字が綺麗だと認められてからは、文章の作成依頼が軍から来たこともあったくらいだ。もちろん機密文章ではない広報的なものだったが、当時はそれが嬉しかった。
訓練施設では実力は隠さないといけなかったから、色々とうっぷんが溜まっていた。だけど、文字を書くことは実力を隠すのに関係がないだろうと、特に制限せずに書けた。
「そちらは、どうして、いますか。集落は、もうすぐ、雪が降る、季節です……」
この字を授けてくれた大切な人の顔を思い浮かべながら、紙に筆を走らせる。
霞む視界で字の並びがずれそうになるのに注意しつつ、綺麗だと褒められた字を紙に書いていく。
「あれから、色んな事が、ありました……」
だけど、そこまで書いて筆が止まった。
老婆にはグェンへの手紙だと思われたが、この手紙の宛先は行方不明の姉だった。
実は姉に手紙を出すのは初めてだ。集落に居た時はすぐ近くにいてくれたから出す必要はなかったし、姉と別れて訓練施設へ入ってからは忙しくてとてもそれどころじゃなかった。軍部へ配属になってからは、この集落へ何度か手紙を書いたくらいで、姉への手紙はなぜか書かなかった。
「なのに……なんで――」
書こうとしたのだろう。
不自由な体でやることが無いから?
村の今を伝えたいから?
姉と別れてからの自分を知ってほしいから?
「……どれも、違う」
この手紙は何を伝えるためのものなのだろう。
自分は姉に何を知ってもらいたいのだろう。
そもそも姉の所在がわからないから、この手紙が完成したって、手元に届ける事が出来ない。
なのになんで書いているのだろう。なんで書きたい――書かなきゃと思ったのだろう。
「……」
ティトは理由に迷いながらも、当たり障りのない挨拶から、訓練施設の事、軍の事、そして怪我の事……。今は村に戻った事を紙に記していく。
そして、最後の一文を結んでから、あらためて気づいた。
「……あなたに、あいたい、です」
それはティトが半ば無意識に手紙に記していた結びの一文。
「……そうか、ぼくは――」
ただ『会いたい』と伝えたかったんだ――。