水路を往くカホールの忙しくも長閑な一日

キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2021年08月05日 13時03分56秒

 長く続く雨が減り、青い空ときらめく太陽がディズル大湿地帯各地を照らし始める。雨季の終わりだ。とはいえ例年通りディズル大湿地帯各地の水位は高くなり、街道は水の底。水路と化したそれらを移動するには水運が欠かせず、幾つもの船が必要とされる。
 レイヤ・ダライ=カホールが故郷に呼び戻されたのもそのためであった。帝国奪還を望むレイウェスト皇子がディズル大湿地帯のリザードマン達の協力を取り付ける際に、大湿地帯に封じられたクリーパー、『泥血啜る月吸蟲』への攻撃と封印結界の強化を行った一連の戦いは記憶に新しい。しかし、そこに駆り出された人員は多く、また被害や後始末の処理も数多く。ありていに言って人手が足りない有様であった。
 故に、レイヤは故郷に呼び戻される。沢山の菓子を背嚢に詰め込んで、準備万端で向かう。
 レイヤの属するカホール氏族は船を魂とする水運に長けた氏族であり、勿論レイヤの家にも立派な船――大型のボート――があった。水運からは一線を退いていたダライ家であったが、家長のバトバヤル・ダライ=カホールは運送の手が足りず船を出して欲しいという氏族の言葉に寡黙ながらしっかりと頷き、船は出航することとなったのであった。『水に踊る黒鱗号』という少々長い名を持つダライ家の船はここしばらくは出番がなかったが、いつでも出発できるように愛情込めて手入れがされていた。出航は明日。レイヤは持っていくものの準備をする。おやつよし。武器防具よし。その他の道具もよし。遠くから流れて来る母の焼き菓子の香りを楽しみながら――明日の軽食のために焼いているのだろう――、久しぶりの己が寝台で、僅かな興奮と共に、眠る。

 時折涼しい風が吹く。風に乗って色鮮やかな蝶の群れが、ひらひらとドレスを纏った貴婦人達のように過ぎ去っていく。水に浸かった木々はそれでも緑の葉を大きく伸ばし……ディズル大湿地帯のかつては街道であった場所は、完全な水路と化していた。『水に踊る黒鱗号』は水の上を優美に進んでいく。船頭を務めるレイヤの母、リザードマンのシャレム・ダライ=カホールはたおやかな様子で歌を口ずさみながら、オールの左右を力強く動かしていく。しなやかな青鱗の下の筋肉が美しく躍動する。腰に下げられた物騒な戦槌はシャレムのたおやかな物腰とは似つかわしくないが、彼女と共に様々な敵を屠って来た長年の相棒だ。
 ぱしゃり、ぱしゃり。水を打つ音はそれだけでも涼しい。レイヤの弟であるイナーム・ダライ=カホールもまた、母を思わせる明るい青鱗のリザードマンの少年だ。父のセンザンコウのハーフビーストとしての血を受け継いだレイヤとは姿かたちこそ違うが、それが不仲の理由になることなどなかった。あどけなさを残す利発な瞳を姉に時折向けながら、川下りならぬ水路下りを楽しんでいる。
 ぱしゃり、ぱしゃり、ばしゃり!
「イナームしゃがんで! 母様のオールが来ます!」
 突き出た木を急いで迂回するために、オールは大きく弧を描く。水に手を伸ばして戯れていたイナームを庇いながら、レイヤもしゃがむ。冷たい水が二人にかかり、思わずレイヤとイナームは笑いだす。普段は氏族の他の船で手伝いをしていたイナームは、姉と一緒にいることが、家族と共にいることが嬉しいらしく、喜びに瞳を輝かせている。
「それにしても見張りの父様は気付かなかったのでしょうか……」
 レイヤは船首に目をやる。そこには巌の如き立派な体格のセンザンコウのハーフビースト、父であるバトバヤル・ダライ=カホールが座っている。内陸生まれで船の扱いに下手なバトバヤルは船頭を妻に任せ、見張りという名の囮になっていた。なにせディズルの水路には様々な野生生物や魔獣が巣くっているのだ。群れては噛みついてくる銀鱗の魚。しなやかに忍び寄る毒持つ水蛇。そして大小様々な狂暴なワニ。それ以外にも数えきれない危険生物がいる。周囲に目を配り、それらに対処するためにバトバヤルは船首にいるはずなのだが。
「父様?」
「あーなーたー?」
 レイヤとシャレムの声が重なる。片方は案ずるように。もう片方は、もしや、という疑念を抱いて。
 ぴくり、と巌のような体が動く。大きな咳払いと共に、背筋が伸びる。
(父様……文字通り舟を漕いでいましたね)
 すぱん、と小気味よい音を立てて、シャレムのオールがバトバヤルの背中を叩く。めきり、と音がしてオールはへし折られる。センザンコウの鱗と鍛えられた肉体は飾りではない。妻であるシャレムの強打を耐えられるのは、カホールの中でもバトバヤルくらいであり、シャレムはその筋力故か氏族の皆に物理的にやんわりと距離を置かれ、それなりにへこんでいるのだがそれはまた別の話。
「母様、あと一本しかないからもう殴るのに使っちゃダメですよ?」
 予備のオールを母に渡すレイヤ。
「ごめんなさいね、つい手が出てしまって……ね、あなた?」
「奥よ、すまぬ」
 僅かに首をすくめるバトバヤル。そしてちらりと黒く愛らしい瞳を妻に向け、
「オールの音と歌声が耳に心地よかったからな」
 そうしてまた正面に顔を戻す。バトバヤルの妻はしばらく目を開いていたが、やがてくすりと笑い、オールを再び動かし始めた。

 ゆったりとした流れの中、船は進む。ディズルの熱帯性気候は、様々な甘い香りの花を咲かせる。レイヤがすれ違った木に沢山咲いていた桃色の花に手を伸ばせば、花弁が可愛らしく揺れる。この花の実は煮詰めると美味しいジャムになるんでした、等と思いながら、レイヤは同じく花に手を伸ばす弟を見る。
「イナームも一緒は初めてですよね! なんだか楽しい気分です!」
「はい、ねえさま。いつもは他の船に乗っていますから。家族で遠出に来た気分です」
 二人は笑いあう。
 と、前方、父の右手に何かがぶら下がっているのに気付く。ワニの子だ。レイヤは急いでエーテルを炎へと変え、それにまっしぐらに撃ちつける。痛みにワニの子は身をよじらせ、水の中へと落ちていく。
「父様、何で気付かなかったんですか……?」
 尊敬すべきか呆れるべきか。父に視線を向ければ、父はうむ、特に痒くもなかったと短く答えるばかり。
「とうさますごい! すごいです! 流石です!」
 素直に喜ぶイナームの斜め前で肩をすくめるシャレム。
 レイヤの胸に最終的に浮かんだのはやはり父はすごい、という感想で、そのようなことを思いながら更に寄ってきたワニや噛みつき魚達をせっせと炎で焼いていくのであった。

「で、酷いんですよ父様、母様、イナーム。王国の人たちって、ケーキを陰謀に使うんです! 悪いことにだって使うんです! もうあってはならないことでしょう?」
 のどかに流れる水路の上で、冒険譚を聞きたいと頼み込むイナームに答えていたレイヤであったが、いつしかそれは王国の複雑怪奇な陰謀劇やら、そういったものへの愚痴へとなっていった。
「ええと、ねえさま、それはケーキを投げ合うとかそういうこと?」
 イナームは想像しきれないとまだ育ちきっていない顔を横に傾げる。
「そんな遊びじゃなくて……取り合ったり、毒を入れたり、もう冒涜です。神様も絶対に許しません」
 カホールの民が信じる人魚の神は『ケーキは至上にして至高』の教義を掲げており、神聖なケーキを粗末に扱うことはレイヤにとって信じられないことであった。
「頭では分かっているけど、心は絶対許しませんっ。というより、陰謀は難しくて分かりません。いや、理解は出来るんです、でも分からないです。何が目的でそういうことをするんだろう、って想像は出来るんです、でも……やっぱり分からないんです。どうして、そんなことが出来るのだろうって」
「腑に落ちないという訳ね、可愛いレイヤ」
 しばらくの沈黙の後、シャレムが慰めるように語りかける。その言葉でレイヤは少しだけ、心が救われたようになる。
「そうです、そうです! 腑に落ちない、じゃないけれどエフレム様のことも……やがて壊れてしまう、って思っていたんです。でも」
 エフレムの名が出た途端、周囲が沈黙した。リザードマンの『語らずの智者』。流浪のレイウェスト皇子に使える忠義の召喚師。それでありながら、帝国を亡ぼす原因となったクリーパーを召喚した、裏切りの術師。
「すでに、壊れていたのですね」
 ぱしゃり、ぱしゃりとオールが水を叩く音がする。沈黙は状況の重さを雄弁に語っていた。単なる裏切り者として断罪すればよかったのに、そうしなかったのは更に複雑な理由があるのだろう。
「エフレム様は、これから生きて……どうするのでしょうか」
 答えはない。ぱしゃり、ぱしゃり。
「世の中殴って済む敵だらけでないのは、全く、世知辛いことだわ。やはり殴って済む敵が一番です。違って?」
 オールで漕ぐ合間に、たおやかな声が憂うように囁く。シャレムは刹那戦槌を抜き放ち、寄ってきた大きなワニの脳天をかち割る。その言動に思わずレイヤは笑いだす。
「母様、それは……あまりに野蛮じゃありませんか?」
「生き延びるためには大事なことよ?」
 父親が咳払いをする。弟がきょとんとした顔で皆を見る。
「さあ、もうすぐ中継所です。そこについたらご飯にしましょうね」
 何事もなかったように、青鱗の母はオールを再び動かし始めるのであった。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0