ニール・ロブラリアの何でもない一日
キャラクターノベル制作 紀藤トキ納品 2021年04月30日 11時16分52秒
●
朝になって目が覚めた。当たり前の事だけど、当たり前で測れない事があるのが世の中だ。朝になっても昇るはずの日が昇らないかもしれないし、朝にはまだ家に居るはずの人がもう居ないこともあるかもしれない。なので、うっかりお休みの日に早起きしてしまった事にもきっと何か意味があるのだ。たぶん。
今日は特に用事もないしまだ眠いのだけれど、起きてしまったので仕方がない。寝台からもそもそと出て服を着替え、部屋を出た。階段を下りた先が、居間とか台所とか玄関とか色々あるところだ。でも、早起きした今朝は一階に降りる前に、隣の部屋の扉をゆっくりと開けた。本が散らばったままの暗い部屋には、今日も誰もいない。影になっている寝台を覗いても、誰も寝てはいない。
「……おはよ」
それでも、何故か朝の挨拶をするべきだと思うので、挨拶をした。少しかび臭い気がする。本を踏まないように注意しながら窓際へ行き、戸を開けた。差し込む朝日に目を細める。空気の入れ替えが済むまで、部屋の中を見ていようと何となく思った。
「『失われた神々について』……。やっぱりボクが好きそうな本じゃない、よね」
適当に手に取った書物のタイトルを見て、いつものようにそう思う。パラパラとめくっても、読むことはできてもさっぱり意味が分からない。ところどころ読めない文字すらあった。他の本も大体そんな感じの専門書ばかりで、あまり興味もわかない。興味はないなりに、気が向いた時に読んでいたら、いつの間にか一通り目を通してしまった。理解できたとはお世辞にも言えないし、内容もあまり覚えていないのだけれど。
そんな所を見るに、やはりニールではない誰かが買い揃えた筈なのだ。顔ももう思い出せないし、名前も定かではないあの人が買ったのだろう。けれども、ときどきこうして確認しないと記憶はあやふやで、いつかうっかり自分が買ったのだと勘違いしそうな気もした。部屋に風を通す間に、開いたところを少し読んでみる。
「……『喪失と空白は違う概念だ。親が喪われれば、子は嘆く』。うーん。そういうもの、なのかな」
ニールにとっては、実の親は最初から「知らない」相手だ。ニールにとって親は最初からいないものだから、そもそも喪われる事が無い気がする。この本を書いた人はそういう子供のことを知らなかったのか、それとも例え話だから良いと思ったのかも。少なくともニールには共感しづらい話だった。パタンと本を閉じる。そよそよと朝の風が気持ち良い。
十分に風を通してから、鎧戸を落として窓を閉める。部屋に来ても今日も何も思い出せなかったし、今日も部屋には誰もいなかった。それでも、ふっと前触れもなく何かが頭をよぎる日もある。それと同じように、あの人は前触れもなくふっと戻ってくることもあるかもしれない。もしも直接顔を見たら、この空白は一気に埋まって知っている人になるのだろうか。
今日はなんの予定もない日なので、あの人の事を考える日にしようと思った。
●
「これから、朝ご飯を作るよ」
誰もいない部屋に言い置いてから階下へ降りる。今日は堅パンを焼きなおし、目玉焼きを作るのだ。ニールが学習したところによれば、工程が単純であれば料理の残念さ加減は抑えられる。パンを焼くだけなら謎の物体が出来上がる可能性はほとんどない。目玉焼きなら、せいぜい味が足りなかったり焦がしたり殻が入ったりするだけだ。そこにお肉を入れたり野菜を入れたりすると真っ黒な良く分からない食べ物が出来上がる率が増える。
――良く分からない食べ物が並んだ食卓で、空になった皿を前に。ボクは「ありがとう」とお礼を言った。
不意に、そんな記憶が思い出された。そうか。昔は、この部屋まで本に埋まっていたんだったっけ。お礼は、誰に言ったのか。きっとあの人へだ。確信がある。それを聞いただろうあの人の顔も、何か返事があったのかもわからないけれど。自分はどんな気持ちでお礼を言ったのだろう。おかしな食べ物を食べてくれたことを喜んだのかな。もしかしたら、美味しいとお世辞を言われたのかもしれない。今度はこうしたらいいとアドバイスをくれたのかも? 何もわからないのだけれど、かつてニールは確かにあの人に感謝した。それが思い出せただけでも、少し気分が良い。
「火をおこして、卵を割って。塩を振る……っと」
厨房の隅から、家族たちが心配そうな顔をしている。いや、猫のステムだけは横を向いてあくびをしていた。良し、今日はちゃんとできた。前はときどき気を抜いてもう一人分作ってしまったのだけど、家には自分しか居ないのだから作らないでいい。
薪を出してかまどの火を弱めてから、次は餌の準備だ。ペットたちの食事は、何も料理するわけではなくある物をあげるので手間は要らないし危険もない。体の大きいウォクスの分を用意すれば、ステムも大鼬のフォニも同じお皿から一緒に食べてくれる。栗鼠のレストだけは別の小さなお皿に木の実を盛った。
「いただきます」
そう言うと、皆でご飯を食べ始める。そういえば、ニールはこの挨拶がシャルガネの習慣だと知っていた。誰から聞いたか思い出せないという事は、多分あの人に教えてもらったのだ。向かいに置いてある椅子が座ると軋むことも知っている。ニールが座ってもびくともしないのだけれど。多分、あの人が座った時に軋んだので知っているのだ。あの人はきっと、ニールよりも大きな人だったのだろう。
随分前に、そんなふわふわした記憶をより集め、家に残されていた物から考えた。あの人は幼かったニールの保護者……、親のようなものだったのだと思う。実の両親については「知らない」ことを知っているので、あの人ではない。だから、親と言ってもきっと義理の関係だ。全然、確証はないのだけれど状況証拠からそうやって推測していく。
「ごちそうさま」
塩加減が薄い目玉焼きと焦げたパンを食べ終えて、食事終わりの挨拶をする。それを合図に、行儀よく待っていた家族たちも思い思いにくつろぎ始めた。食器を片付けてから、一思案する。お肉は足りている。野菜が足りない。あと、レストのお皿が欠けていて危ない。買出しに出よう。そう思い立つと、ウォクスがのっそり立ち上がった。
「ついて来てくれるの?」
『わふぅ』
もさもさと尻尾を振る。どうやらそういうつもりらしい。フォニは暖かい窓際で丸くなっているし、良い天気だからかレストはどこかへ出かけて行ったようだ。ステムは、今日も気ままに過ごすだろう。一度自分の部屋に戻って、上着を手に取った。最近あつらえた方ではなく、前から着ていた方だ。袖や裾を切り詰めたけどまだちょっとぶかぶかで、自分ではない誰かの匂いがする。今日はあの人の事を考える日なので、そっちを着ようと思った。
ニールにはだいぶ大きな服だ。たぶん、この上着のもともとの持ち主のあの人はきっと男の人なのだろう。ただ、ハーフリングの自分からすれば、エルフやヒューマンで背の高い女の人の服もきっとぶかぶかになるはずだ。あの人がどういう種族なのかもわからないのだから、予断は禁物。男の人であっても女の人であっても、あの人はあの人だ。こうやって残された何かを介してしか想像もできないけれど、こうして予想をしていればどれかは当たるんじゃないかな。いつか会う事があっても、知らない人と会うような顔にはならないと思う。
「いってきます」
外に出るときにそう声を掛けると、のどかな『にゃおん』という声が帰ってきた。
●
ヴェルクリエは辺境では大きな都市だけれど、リブラネスタのような目の回る都会ではない。何年も住んでいればそれなりに顔見知りも多くなる。小皿は馴染みの雑貨屋で買う事にした。
「んー……これにしようかな」
明るい黄色の皿を選ぶと、何も言わないうちに中年の店主が簡単に包んで飾りひもを掛けてくれる。
「……?」
「ようやく帰ってくるんだろ。イイ人」
「ん、誰も帰ってこないよ? これは栗鼠のお皿」
「そ、そうか。すまねぇ……!」
余計な事を、とおかみさんに叩かれている店主に、気にしていないと手を振って別れた。あの御一家も、あの人の事は良く覚えていないらしいが、ニールが以前に誰か他の人と暮らしていた事は知っている。いつの間にか、あの人を恋人か何かだと思い込んでいたのだろう。
(……よく、わかんないや)
こうしてあの人の事を考えていても、自分がかつてあの人をどう思っていたのかはこれっぽっちも浮かんでこない。なにせ、お礼を言った時の事を思い出した時にも感謝の感情はついてこなかったのだ。もしかしたら、店主夫婦が思っているように、ニールはあの人に愛や恋と言った感情を抱いていたのだろうか。そして、それをきれいさっぱり忘れてしまったのだろうか。家に残っている物や思い出す自分の行動からすると、それはないような気もする。けれども、何もはっきりとはしない。なんだかもやもやした。
「考えてたら、お腹空いたな。お昼、食べよう」
『くぅん』
ウォクスも賛成のようなので、露店で串焼きを買った。一つは味付けを薄くしてもらって、ウォクスにあげる。
「恋とか、愛とか。良く分からないな……もぐ」
その後もしばらく悩んでいたが、最後のひと切れを噛んでいた時に、そもそもあの人と自分は寝室が別だったことに思い至る。ニールは恋愛に詳しくないが、一つ屋根の下で同居する位に関係の進んだ世の中の恋人は、仲良く同じ部屋で眠るのではないだろうか。そう考えれば、やはり別の部屋に寝ていたあの人は恋人ではなく親的な存在なのだろう。でも、とニールは考察を捗らせる。恋人ではなくても、もっと年が近くて、例えば親と言うより兄や姉のような存在だったのかもしれない。まさか年下ではない、とは思うのだけれど可能性は0ではない。
『うぉふ』
どうしたんだ、という顔をしたウォクスに、何でもないと首を振った。今日はあの人の事を考えると決めたせいか、普段よりも色々考えてしまう日だ。考えすぎて少し眠くなってきたので、帰ったら一休みしようと思う。
「次は、野菜、と。……果物もあったら買おう、かな」
頭が疲れた時には甘い物が良い。ふとそんな言葉が思い浮かんだニールは、少し自分を甘やかす事に決めた。
『がぅ……』
「たまには、いいよね」
少し呆れたようなウォクスを引き連れて、露店が並ぶ通りへと向かう。馴染みの野菜商はちゃんとした店を構えているわけではなく、近くの村で買い付けた品を飲食店へ卸している行商だ。ちょっと傷んでいたりして引き取られなかった物を安く売ってくれる。露店が並ぶあたりを眺めてみてもいない日もあるのだが、今日は運よく店を出している日だった。
「よお、坊主。元気そうだな」
「坊主じゃない……。ニール」
何年も前、最初に会った時は少年に見えたらしい。それ以来坊主と呼ばれて、それを訂正するところまでが挨拶代わりだった。たぶん、その「最初に会った時」にはあの人がいたのだと思う。でも、野菜商も自分も何も覚えていない。覚えていないのだけど、覚えていないなりに人は適当に空白を埋めていく。
「親父さん、またいないのか? 元気出せよ。ほれ」
「わ。ありがと」
いつもの木の実の詰め合わせに、木苺をつけてくれた。買い付けに行く村の子供が小遣い稼ぎに持ってくるのだそうだ。彼はいつからか、ニールが父親と暮らしていると勘違いしていた。面倒だから訂正はしていない。訂正して「じゃあ、誰と?」と聞かれた時に答えられないのは、なんだか居心地が悪いのだ。でも、勘違いのせいで物を貰ってしまうとちょっぴり罪悪感がわく。
「……じゃあ、そっちの葉野菜も、買うね」
「そうこなくっちゃな。毎度」
ついつい、余計な物を買ってしまった。でも、葉野菜ならちぎって食べるだけで、そうそう奇妙なものにはならない。煮たり焼いたり混ぜたり手順が増えるのは、よくない。自分だけなら良いけれど……あれ?
――いつか、もう少しましな物を作りたいと思った。すっかり完食された謎の物体の皿を前に。
でも、その時に申し訳ないと思ったのか、何くそ見ていろと思ったのかまではわからなかった。たぶん、あの人の為にそう思ったのだろうけれど。状況証拠がまた一つ積み上がり、自分の中のあの人はあいまいなままなのに、ちょっとだけ虚像ができあがる。そうやって空白を埋めていけば、あの人と同じ形になるのだろうか。
●
家に帰って、荷物を戸棚にしまう。そういえば、昔はもっと買い物が大変だった。多分その頃は惰性で二人分の荷物を買って帰っていたのだ。気が付くまで、しばらくは食べ物を駄目にしてしまった事もあったけれど。今ではそんな事もない。
「お昼寝」
帰り着くまでお供をしてくれたウォクスにそう言うと、わかったというような顔をした。てくてくと自分の部屋へ……、向かいかけたところで、朝に風通しに開けたまま忘れていたあの人の部屋の扉に気が付いた。中から、にゃごにゃごという鳴き声がする。
「あ、ダメだよ。ステム」
踏み込んでみると、ステムが我が物顔に居座っていた。部屋の中を勝手にうろちょろしたのだろう。落ちていた本の位置が変わっている。もう、もとの場所が思い出せない。『にゃおう』と足元で甘える声に抱き上げた。
「……あれ? なんで、動かしちゃダメなんだっけ」
一見乱雑に見えても、持ち主には意味があるとか。昔にあの人に言われた記憶は既にないのだ。ただ、その配置を変えたくないという意識だけ、どこかに引っかかっていた。それも、これでなくなっていくのだろう。あるいは、なくなっていくのではなく、最初からなかった事になるのかもしれないけれど、その違いは神ならぬニールには認識できなかった。
「御昼寝、一緒にする?」
『にゃ』
そんな返事に頷いて――、どうしてそうすることにしたのか自分でも良く分からないのだけど、自分の部屋へは戻らずその部屋の寝台で横になることにした。ほんの微かに知らない誰かの匂いがする寝台。でも、嫌ではないし少し安心する気もする。この匂いが消えてなくなる頃には、何も思わなくなるのかもしれないけれど。
●
少しだけのつもりが、すっかり眠り込んでしまった。ひんやりした夜の気配が足元からやってくる。家族たちがお腹を空かせて待っていそうだ。
「……部屋が散らばってるのを、片づけたらご飯にしよう」
『にゃーおう』
言葉が分かっている訳ではないだろうに、枕元で顔を洗うようにしていたステムが返事をした。今日は……、特に何にもない日だった。明日は何をしようか。冒険者ギルドの依頼を受けて、家を出て、ヴェルクリエを出て、どこか遠くに行くのも良いかもしれない。
明日はどんなものに出会えるだろう。
朝になって目が覚めた。当たり前の事だけど、当たり前で測れない事があるのが世の中だ。朝になっても昇るはずの日が昇らないかもしれないし、朝にはまだ家に居るはずの人がもう居ないこともあるかもしれない。なので、うっかりお休みの日に早起きしてしまった事にもきっと何か意味があるのだ。たぶん。
今日は特に用事もないしまだ眠いのだけれど、起きてしまったので仕方がない。寝台からもそもそと出て服を着替え、部屋を出た。階段を下りた先が、居間とか台所とか玄関とか色々あるところだ。でも、早起きした今朝は一階に降りる前に、隣の部屋の扉をゆっくりと開けた。本が散らばったままの暗い部屋には、今日も誰もいない。影になっている寝台を覗いても、誰も寝てはいない。
「……おはよ」
それでも、何故か朝の挨拶をするべきだと思うので、挨拶をした。少しかび臭い気がする。本を踏まないように注意しながら窓際へ行き、戸を開けた。差し込む朝日に目を細める。空気の入れ替えが済むまで、部屋の中を見ていようと何となく思った。
「『失われた神々について』……。やっぱりボクが好きそうな本じゃない、よね」
適当に手に取った書物のタイトルを見て、いつものようにそう思う。パラパラとめくっても、読むことはできてもさっぱり意味が分からない。ところどころ読めない文字すらあった。他の本も大体そんな感じの専門書ばかりで、あまり興味もわかない。興味はないなりに、気が向いた時に読んでいたら、いつの間にか一通り目を通してしまった。理解できたとはお世辞にも言えないし、内容もあまり覚えていないのだけれど。
そんな所を見るに、やはりニールではない誰かが買い揃えた筈なのだ。顔ももう思い出せないし、名前も定かではないあの人が買ったのだろう。けれども、ときどきこうして確認しないと記憶はあやふやで、いつかうっかり自分が買ったのだと勘違いしそうな気もした。部屋に風を通す間に、開いたところを少し読んでみる。
「……『喪失と空白は違う概念だ。親が喪われれば、子は嘆く』。うーん。そういうもの、なのかな」
ニールにとっては、実の親は最初から「知らない」相手だ。ニールにとって親は最初からいないものだから、そもそも喪われる事が無い気がする。この本を書いた人はそういう子供のことを知らなかったのか、それとも例え話だから良いと思ったのかも。少なくともニールには共感しづらい話だった。パタンと本を閉じる。そよそよと朝の風が気持ち良い。
十分に風を通してから、鎧戸を落として窓を閉める。部屋に来ても今日も何も思い出せなかったし、今日も部屋には誰もいなかった。それでも、ふっと前触れもなく何かが頭をよぎる日もある。それと同じように、あの人は前触れもなくふっと戻ってくることもあるかもしれない。もしも直接顔を見たら、この空白は一気に埋まって知っている人になるのだろうか。
今日はなんの予定もない日なので、あの人の事を考える日にしようと思った。
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「これから、朝ご飯を作るよ」
誰もいない部屋に言い置いてから階下へ降りる。今日は堅パンを焼きなおし、目玉焼きを作るのだ。ニールが学習したところによれば、工程が単純であれば料理の残念さ加減は抑えられる。パンを焼くだけなら謎の物体が出来上がる可能性はほとんどない。目玉焼きなら、せいぜい味が足りなかったり焦がしたり殻が入ったりするだけだ。そこにお肉を入れたり野菜を入れたりすると真っ黒な良く分からない食べ物が出来上がる率が増える。
――良く分からない食べ物が並んだ食卓で、空になった皿を前に。ボクは「ありがとう」とお礼を言った。
不意に、そんな記憶が思い出された。そうか。昔は、この部屋まで本に埋まっていたんだったっけ。お礼は、誰に言ったのか。きっとあの人へだ。確信がある。それを聞いただろうあの人の顔も、何か返事があったのかもわからないけれど。自分はどんな気持ちでお礼を言ったのだろう。おかしな食べ物を食べてくれたことを喜んだのかな。もしかしたら、美味しいとお世辞を言われたのかもしれない。今度はこうしたらいいとアドバイスをくれたのかも? 何もわからないのだけれど、かつてニールは確かにあの人に感謝した。それが思い出せただけでも、少し気分が良い。
「火をおこして、卵を割って。塩を振る……っと」
厨房の隅から、家族たちが心配そうな顔をしている。いや、猫のステムだけは横を向いてあくびをしていた。良し、今日はちゃんとできた。前はときどき気を抜いてもう一人分作ってしまったのだけど、家には自分しか居ないのだから作らないでいい。
薪を出してかまどの火を弱めてから、次は餌の準備だ。ペットたちの食事は、何も料理するわけではなくある物をあげるので手間は要らないし危険もない。体の大きいウォクスの分を用意すれば、ステムも大鼬のフォニも同じお皿から一緒に食べてくれる。栗鼠のレストだけは別の小さなお皿に木の実を盛った。
「いただきます」
そう言うと、皆でご飯を食べ始める。そういえば、ニールはこの挨拶がシャルガネの習慣だと知っていた。誰から聞いたか思い出せないという事は、多分あの人に教えてもらったのだ。向かいに置いてある椅子が座ると軋むことも知っている。ニールが座ってもびくともしないのだけれど。多分、あの人が座った時に軋んだので知っているのだ。あの人はきっと、ニールよりも大きな人だったのだろう。
随分前に、そんなふわふわした記憶をより集め、家に残されていた物から考えた。あの人は幼かったニールの保護者……、親のようなものだったのだと思う。実の両親については「知らない」ことを知っているので、あの人ではない。だから、親と言ってもきっと義理の関係だ。全然、確証はないのだけれど状況証拠からそうやって推測していく。
「ごちそうさま」
塩加減が薄い目玉焼きと焦げたパンを食べ終えて、食事終わりの挨拶をする。それを合図に、行儀よく待っていた家族たちも思い思いにくつろぎ始めた。食器を片付けてから、一思案する。お肉は足りている。野菜が足りない。あと、レストのお皿が欠けていて危ない。買出しに出よう。そう思い立つと、ウォクスがのっそり立ち上がった。
「ついて来てくれるの?」
『わふぅ』
もさもさと尻尾を振る。どうやらそういうつもりらしい。フォニは暖かい窓際で丸くなっているし、良い天気だからかレストはどこかへ出かけて行ったようだ。ステムは、今日も気ままに過ごすだろう。一度自分の部屋に戻って、上着を手に取った。最近あつらえた方ではなく、前から着ていた方だ。袖や裾を切り詰めたけどまだちょっとぶかぶかで、自分ではない誰かの匂いがする。今日はあの人の事を考える日なので、そっちを着ようと思った。
ニールにはだいぶ大きな服だ。たぶん、この上着のもともとの持ち主のあの人はきっと男の人なのだろう。ただ、ハーフリングの自分からすれば、エルフやヒューマンで背の高い女の人の服もきっとぶかぶかになるはずだ。あの人がどういう種族なのかもわからないのだから、予断は禁物。男の人であっても女の人であっても、あの人はあの人だ。こうやって残された何かを介してしか想像もできないけれど、こうして予想をしていればどれかは当たるんじゃないかな。いつか会う事があっても、知らない人と会うような顔にはならないと思う。
「いってきます」
外に出るときにそう声を掛けると、のどかな『にゃおん』という声が帰ってきた。
●
ヴェルクリエは辺境では大きな都市だけれど、リブラネスタのような目の回る都会ではない。何年も住んでいればそれなりに顔見知りも多くなる。小皿は馴染みの雑貨屋で買う事にした。
「んー……これにしようかな」
明るい黄色の皿を選ぶと、何も言わないうちに中年の店主が簡単に包んで飾りひもを掛けてくれる。
「……?」
「ようやく帰ってくるんだろ。イイ人」
「ん、誰も帰ってこないよ? これは栗鼠のお皿」
「そ、そうか。すまねぇ……!」
余計な事を、とおかみさんに叩かれている店主に、気にしていないと手を振って別れた。あの御一家も、あの人の事は良く覚えていないらしいが、ニールが以前に誰か他の人と暮らしていた事は知っている。いつの間にか、あの人を恋人か何かだと思い込んでいたのだろう。
(……よく、わかんないや)
こうしてあの人の事を考えていても、自分がかつてあの人をどう思っていたのかはこれっぽっちも浮かんでこない。なにせ、お礼を言った時の事を思い出した時にも感謝の感情はついてこなかったのだ。もしかしたら、店主夫婦が思っているように、ニールはあの人に愛や恋と言った感情を抱いていたのだろうか。そして、それをきれいさっぱり忘れてしまったのだろうか。家に残っている物や思い出す自分の行動からすると、それはないような気もする。けれども、何もはっきりとはしない。なんだかもやもやした。
「考えてたら、お腹空いたな。お昼、食べよう」
『くぅん』
ウォクスも賛成のようなので、露店で串焼きを買った。一つは味付けを薄くしてもらって、ウォクスにあげる。
「恋とか、愛とか。良く分からないな……もぐ」
その後もしばらく悩んでいたが、最後のひと切れを噛んでいた時に、そもそもあの人と自分は寝室が別だったことに思い至る。ニールは恋愛に詳しくないが、一つ屋根の下で同居する位に関係の進んだ世の中の恋人は、仲良く同じ部屋で眠るのではないだろうか。そう考えれば、やはり別の部屋に寝ていたあの人は恋人ではなく親的な存在なのだろう。でも、とニールは考察を捗らせる。恋人ではなくても、もっと年が近くて、例えば親と言うより兄や姉のような存在だったのかもしれない。まさか年下ではない、とは思うのだけれど可能性は0ではない。
『うぉふ』
どうしたんだ、という顔をしたウォクスに、何でもないと首を振った。今日はあの人の事を考えると決めたせいか、普段よりも色々考えてしまう日だ。考えすぎて少し眠くなってきたので、帰ったら一休みしようと思う。
「次は、野菜、と。……果物もあったら買おう、かな」
頭が疲れた時には甘い物が良い。ふとそんな言葉が思い浮かんだニールは、少し自分を甘やかす事に決めた。
『がぅ……』
「たまには、いいよね」
少し呆れたようなウォクスを引き連れて、露店が並ぶ通りへと向かう。馴染みの野菜商はちゃんとした店を構えているわけではなく、近くの村で買い付けた品を飲食店へ卸している行商だ。ちょっと傷んでいたりして引き取られなかった物を安く売ってくれる。露店が並ぶあたりを眺めてみてもいない日もあるのだが、今日は運よく店を出している日だった。
「よお、坊主。元気そうだな」
「坊主じゃない……。ニール」
何年も前、最初に会った時は少年に見えたらしい。それ以来坊主と呼ばれて、それを訂正するところまでが挨拶代わりだった。たぶん、その「最初に会った時」にはあの人がいたのだと思う。でも、野菜商も自分も何も覚えていない。覚えていないのだけど、覚えていないなりに人は適当に空白を埋めていく。
「親父さん、またいないのか? 元気出せよ。ほれ」
「わ。ありがと」
いつもの木の実の詰め合わせに、木苺をつけてくれた。買い付けに行く村の子供が小遣い稼ぎに持ってくるのだそうだ。彼はいつからか、ニールが父親と暮らしていると勘違いしていた。面倒だから訂正はしていない。訂正して「じゃあ、誰と?」と聞かれた時に答えられないのは、なんだか居心地が悪いのだ。でも、勘違いのせいで物を貰ってしまうとちょっぴり罪悪感がわく。
「……じゃあ、そっちの葉野菜も、買うね」
「そうこなくっちゃな。毎度」
ついつい、余計な物を買ってしまった。でも、葉野菜ならちぎって食べるだけで、そうそう奇妙なものにはならない。煮たり焼いたり混ぜたり手順が増えるのは、よくない。自分だけなら良いけれど……あれ?
――いつか、もう少しましな物を作りたいと思った。すっかり完食された謎の物体の皿を前に。
でも、その時に申し訳ないと思ったのか、何くそ見ていろと思ったのかまではわからなかった。たぶん、あの人の為にそう思ったのだろうけれど。状況証拠がまた一つ積み上がり、自分の中のあの人はあいまいなままなのに、ちょっとだけ虚像ができあがる。そうやって空白を埋めていけば、あの人と同じ形になるのだろうか。
●
家に帰って、荷物を戸棚にしまう。そういえば、昔はもっと買い物が大変だった。多分その頃は惰性で二人分の荷物を買って帰っていたのだ。気が付くまで、しばらくは食べ物を駄目にしてしまった事もあったけれど。今ではそんな事もない。
「お昼寝」
帰り着くまでお供をしてくれたウォクスにそう言うと、わかったというような顔をした。てくてくと自分の部屋へ……、向かいかけたところで、朝に風通しに開けたまま忘れていたあの人の部屋の扉に気が付いた。中から、にゃごにゃごという鳴き声がする。
「あ、ダメだよ。ステム」
踏み込んでみると、ステムが我が物顔に居座っていた。部屋の中を勝手にうろちょろしたのだろう。落ちていた本の位置が変わっている。もう、もとの場所が思い出せない。『にゃおう』と足元で甘える声に抱き上げた。
「……あれ? なんで、動かしちゃダメなんだっけ」
一見乱雑に見えても、持ち主には意味があるとか。昔にあの人に言われた記憶は既にないのだ。ただ、その配置を変えたくないという意識だけ、どこかに引っかかっていた。それも、これでなくなっていくのだろう。あるいは、なくなっていくのではなく、最初からなかった事になるのかもしれないけれど、その違いは神ならぬニールには認識できなかった。
「御昼寝、一緒にする?」
『にゃ』
そんな返事に頷いて――、どうしてそうすることにしたのか自分でも良く分からないのだけど、自分の部屋へは戻らずその部屋の寝台で横になることにした。ほんの微かに知らない誰かの匂いがする寝台。でも、嫌ではないし少し安心する気もする。この匂いが消えてなくなる頃には、何も思わなくなるのかもしれないけれど。
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少しだけのつもりが、すっかり眠り込んでしまった。ひんやりした夜の気配が足元からやってくる。家族たちがお腹を空かせて待っていそうだ。
「……部屋が散らばってるのを、片づけたらご飯にしよう」
『にゃーおう』
言葉が分かっている訳ではないだろうに、枕元で顔を洗うようにしていたステムが返事をした。今日は……、特に何にもない日だった。明日は何をしようか。冒険者ギルドの依頼を受けて、家を出て、ヴェルクリエを出て、どこか遠くに行くのも良いかもしれない。
明日はどんなものに出会えるだろう。