白染めの森の眠り姫

キャラクターノベル制作 弓月 蒼納品 2021年04月12日 21時37分41秒

●白き茫漠
 銀の海。と、呼んでも決して間違いではない。
 大陸北西部フィルエス大森林。その北端はヨルド氷雪帯を除けば大陸で最も寒い地域の一つだ。
 
 森に精通する者であればともかくも。ヒトが生きるには相応に厳しい。
 食料に乏しく野生動物の大半は冬眠期だが、起きている獣は大抵気が立っている。

 弱肉強食、適者生存。生存環境が厳しくなればなるほど自然の摂理は冷たく生命を試す。
 そんな――――凡そ、真っ当とは言い難い場所に、女は立っていた。

「……?」

 不意に、目が醒めた。としか言いようがない。世界は白く。何処までも白く。美しかった。
 雲間より射す陽光は暖かく。大気は不純物など何も無いかの様に澄んで、冷え切っていた。

「――――ここは、どこかしら」

 辺りを見回してもまるで見覚えはなく。何故こんな場所に居るかも分からない。
 自分を見下ろす。どう罷り間違っても冬の、大陸の北端に来る様な服装ではない薄着。

 辛うじて。羽織っているケープに寒さに対する僅かな備えが感じられたがその程度。
 事実、体躯は芯まで凍てついていて。

「……寒い」

 肩を抱いて何度瞬いてもその白い世界は変わらない。
 何かの間違いではなく。幻でもなく。彼女は命の危機に瀕している様だった。

 不安はない。人と言うのは、そう簡単には死なないと、考えずとも脳裏で誰かが囁く。
 目的はない。けれど何となく。何処かへ行くべきだと言う実感がじわりと滲む。

「せめて、どこかで暖を取らないと」

 困ったことが有るとすれば。この期に及んで何の危機感も湧いてこないと言うことだ。
 何故か漠然と、どうにかなる。大丈夫。と言う根拠のまるで無い展望だけが浮かんでくる。

 眼前の雪原。その先に見える蒼い空。多分もっと進めば断崖絶壁。そして海、と。
 後方の白く染まった広大な森であれば、後者の方がまだ多少は生きて行き易い筈。

 そんな程度の理由で踵を返そうとして、履いていたブーツの先に――――カツン、と何かが触れた。

「?」

 それは青いブローチだ。緻密な金細工で装飾された、恐らく、きっと、高価な物。
 拾い上げてひっくり返すと、そこに文字が刻まれている事に気が付いた。

「親愛なる ネーヴェ・グラヌローザ へと捧ぐ」

 辿々しくそう呟いて。まるで、風船が割れた様に現実感が湧き上がる。
 ――――私は、一体誰なのだろう。

 今、この時この瞬間に至るまで。自分が自分であることに疑問など無かった。
 けれど逐一思い返してみれば、此処に至る筋道同様に、自分を自分と定義する物が何もない。

 浮かんでこない。思い出せない。自分に繋がる記憶が――――ない。

「……私、は」

 手には拾い上げたブローチ。辺りを見回しても人は愚か獣の姿すらない。
 であれば。自分のものなのだろうか。問い掛けても、何者からも応えが有る筈もなく。

 ただ、それを縁に白染の森へ歩を進める。道が何処へ繋がっているかは知らずとも。
 何処かへ向かわなくてはいけない。そんな直感に突き動かされるままに。
 
 一歩。白い森に感じたのは、深く、遠く、哀しい程の寂寥感。
 二歩、三歩。命のない静寂の中を女は歩む。行く当てもなく糸の切れた凧の様にふらふらと。

 四歩。続けて五歩。木陰を抜けたら――――きっとその先には何かがある。
 理由もなく前向きなそんな考えは、断ち切られるかのような現実に塗り潰される。

 ――――耳の長い男の人が、血を流して倒れていた。

「――――……え?」
 
 まるで想定していない事態であるのに、それ程慌てなかったのは何故だろう。
 それが其処に在ることをそれほど不自然とも思わずに駆け寄ると、その男性には息があり。

 胸元に爪跡。偶々起きていた熊か何かに襲われたのか。手にした弓は弦が切れていた。
 躊躇いは無かった。このまま放っておけば、出血と寒さでまず遠からずこの人は死ぬ。

「大丈夫ですか、意識はありますか」

 救わなければならない。目の前で尽き行く命があるならば。
 大丈夫、まだ大丈夫。――――人と言うのは、そう簡単には死なない。

 手を翳し、祈りで世界を捻じ曲げる。何故とか、どうしてとかは無かった。
 そういったことが出来ると。記憶ではなく心が。身体が。知っている。

「溢れ落ちる者に、導きの光を」
 
 或いは浅はかな行いだったろうか。考え無しの短絡的行為だったと謗られるだろうか。
 両の掌を力が満たし、治癒の魔法がエルフの男の傷を覆い隠す。
 
 焦点の彷徨う男の瞳はけれど、確かに女の姿を捉えていて。掠れた声が、問い掛ける。

「――――君は、誰だ」

 誤魔化すことは出来た筈だ。敢えて名乗らないという方策もあった。
 ならばそれは確かに彼女の選択であり。望むと望まざると――――選んでしまった。

「私は――――」

 この日、一人の女が大森林の北で目を醒ました。これはそれだけ。ただの発端。
 その選択が齎した結果を、彼女は未だ何一つ知りはしない。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0