バンビと猫
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2021年03月02日 19時59分10秒
晩冬の暁の陽を浴びて街の屋根が黄金の色に輝いている。
夜明けの光は分け隔てなく地へと降り注ぎ、ダンボ=ルで建てられた携帯式ハウスもまた金色に染め上げられていた。
春が近い夜明けの風が吹く黄金のダンボ=ルの中で眠っていたのは、これまた金色の毛をもふもふと長く伸ばしている少女である。
名をバンビという。『ゴブリン美少女化計画村』で育成された特別なゴブリナだ。
雪のような白肌を持つ彼女は、夏場だとこのようにモフモフしてはいないのだが、冬毛の生えるゴブリナだったので、冬場の朝は森の光弩使いチュ=バッカや赤き聖人ム・クの如きフサフサ感にトランスフォームしているのである。
なお万世に遍く普通のゴブリンは冬毛は生えない、たぶん。
モフモフ金色、長い毛に包まれて、すやすやと眠っていたゴブリン美少女だったが、眠りが浅くなって来た所で彼女は不意に頭にモゾモゾ感を覚えた。
パチリと緑色の瞳を開く。
思う。
――頭髪の中に『ナニカ』がいる。
ゾワッとしたものを覚えたバンビはテシテシと己の頭を急ぎ叩いた。
すると、
「にゃ~ん」
小動物独特の鳴き声が響き渡った。
眼前を影が横切り、バンビの上に着地する。
ぐぇっと衝撃に息を詰まらせつつ顔を上げるとバンビのお腹の上に一匹の猫が乗っていた。
茶色の艶やかな毛並みをしている。
首には飴色の革製の首輪をつけていた。
頭に五つの花びら状のふにゃっとした模様をこさえている。
――タコノマクラに似ている。
バンビは直感的にそう感じた。
モフモフ美少女は眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げながらエメラルドグリーンの瞳を、己の腹に鎮座する四足小型動物へと向けた。
「あんた、俺の冬毛を毛布代わりにしてたのかよ?」
バンビの髪とか冬毛はもっふもふなので、寒い晩に猫だって入りたくなるのはわかるのだけれど、わかりたくない所であった。
バンビの心境を知ってか知らずか、茶毛の猫は前足で己の顔の横を二、三度掻くと、再びにゃーんと一声鳴いて丸くなった。
「こらこら、淑女のお腹の上で寝るんじゃないのですわよ」
バンビはしゅっと右手を素早く伸ばすと猫の首根っこを掴み、ぐぃっと持ち上げた。軽くはあったがそれなりに手応えがある重さ。
首を掴まれた猫は暴れる様子もなく、びょーんと胴体を伸ばし、手足をぶらさげ、吊られるままになっている。
金色の冬毛少女は、呑気そうに細められている糸目の猫瞳をしげしげと見つめつつ、
「……あんた、どこかの飼い猫なのだわ?」
妙に人に慣れているような気がした。
首輪もしているし、飼われている猫なような気がする。
にゃにゃーんと猫が鳴いた。
バンビは猫をダンボ=ルの床に降ろすと、手の甲を猫へ向けて前後にプラプラと動かし、しっしと歯の隙間より息を吐いた。
「主人の所にお帰りになるがよろしいですわ」
しかし猫は立ち去る様子を見せず、動くバンビの手を見つめ、指先の動く方に首を右往左往させている。
勢いを加速させて振ってみると猫の首が高速でシャカシャカと動く。
(むむっ)
なんとなく対抗心が出てきたバンビがさらに高速で振ると、猫は首の動きを止め、アァ~と口を開いて大きな欠伸を洩らした。
もう飽きた、と言わんばかりに丸くなって眠りにつく。
「こらこらっ! ここで寝るんじゃないですわよ!」
つんつんと指先で猫をつついてみたが動かない。
どうやらお猫様はこの場所が気に入ったらしく、居つかれてしまった。
「ぐぬぬぬ……」
どうしたものかとバンビは思案するのだった。
●
金色の冬毛をモフモフと生やしたゴブリナ少女が漆黒のローブに身を包み、茶毛の猫を胸に抱いて街を歩いている。
「よおバンビちゃん! どうしたんだいその猫!」
行きつけの出店に辿り着くと、白い布を頭に巻いた体格の良い店主より威勢良く疑問の声を投げられた。
「朝起きたら頭髪に潜り込まれてたのですわ」
「はっはっは、そりゃ吃驚だな! ま、暖かそうだしなバンビちゃんは! 冬も終わり間近といってもまだまだ冷え込んでるからねぇ! 猫の毛はあんまり防寒性能が良く無いっていうしそいつも暖が欲しいんだろうよ」
店主は鍋を片手に笑い、バンビは口先を尖らせた。
「だからといって本人の了承なく淑女の毛髪を毛布代わりにしないで欲しいですわ」
「最近は物騒だし良い加減野宿やめたらどうだい? バンビちゃんの腕ならそれなりに冒険者として稼いでるだろうし無理でもないだろう。そうすりゃ寝てる間に猫に潜り込まれるなんて事も無くなるぞ。猫ならまだ良いが、他のモンだとコトだぜ」
「野宿ではありません、家住みですわ」
「その家ダンボ=ルじゃねぇか」
なかなかツッコミ鋭い店主である。
バンビは負けん気が強いので言い返した。
「ふふん、ダンボ=ルは軽量断熱、優れた素材ですわよ。すなわち、それによって作られたマイハウスもまた優れた家なのです。人の世は正しく物の価値を評価しておりませんわ」
「さようで。まぁ人間って奴ぁ概念を着てるからなぁ」
「その社会性自体の賢愚が奈辺にあるかの判断はつきかねますが、されどそれによって真実への目を曇らせるのは愚かな事です。ダンボ=ルはもっと評価されるべきですわ」
「ダンボ=ルの真実か。なるほど、見事な論法だと感心はするがどこもおかしな所は無い」
「でしょう。まぁそれはそれとしてこの猫、飼い猫のようなのですけど店主さんお心当たりとかございませんこと?」
「んん~?」
店主は首輪を一瞥してから顔を突き出しマジマジと猫の顔を見つめたが、
「……んにゃ! わりぃが見た事ねぇ猫だなぁ! この辺りの猫じゃねぇんじゃねーか? 家猫だって可能性もあるが」
「うーん、さようですか……」
そんなやりとりの後、朝食がまだだったので、バンビは例によってミルクで煮られた麦粥を己と猫用に注文した。
茶毛の猫が皿に口を突っ込んでがつがつと食べている。
バンビは猫の食べる速度を窺いつつ麦粥を平らげると、代金を支払い出店を後にしたのだった。
●
バンビは街の人々にこの猫を知らないかと尋ね歩いたが、知っていると答えた街人は誰もいなかった。
そのうちにバンビはいつもの行きつけの図書館へと辿り着き、
「おいこらゴブリン、館内への小動物の持ち込みは厳禁だぞ!」
眼鏡をかけた感じの悪い受付がバンビが胸に抱いている猫を睨みつつ慌てた調子で叫んだ。
「そんなのは承知しておりますわ。あんたに尋ねに来たのです。受付さんはこの猫、ご存じない?」
「知らん知らん! 僕は猫は嫌いなんだっ! とっとと出ていってくれッ!!」
猫は幅広く皆から愛される小動物だったが、中にはこれを嫌う少数派もいるらしい。彼相手では盾に猫を縛り付けて進軍しても都を陥落させるのは難しい事だろう。
バンビは猫を抱きつつ回れ右して図書館からそそくさと撤退したのだった。
●
次にバンビが向かったのは街中にある教会だった。
「うーん、知らない猫ちゃんですね」
「随分しっかりした首輪のようですし、毛並みの艶も良いし……誰かに飼われていた事は間違いなさそうですが……私も見かけた事ないなぁ」
シスター達に尋ねるとそんな回答が帰って来た。
やがて若いシスターがねこじゃらしを持ってきたので、バンビは教会の中庭でシスターと共にねこじゃらしで戯れた。
ごろんごろんと猫が転がる。
十分に堪能した後に教会を出ると、
「猫ォ?」
「いや、見かけた事ねぇなぁ」
「飼い猫なのかそいつ」
「それよりお前、金返せよ!」
借金取り四人組と遭遇した。
バンビは猫を頭に乗せると泰然自若とした態で、両手のひらを下へと向けて上下に動かし、
「まだ慌てるような時間じゃありませんわ。盆はまだまだ先でしてよ」
「ああもう、少しは慌てとけっ! 余裕かましてる奴ぁ大抵間に合わねぇんだよ!」
そんないつものやりとりを交わす。
まぁそれはそれとして彼等も知らないという。
それからもバンビは多くの人々に尋ねて回ったが、知っているという人間はついぞ現れなかった。
「うーん、誰も知らないとは……弱りましたわね……」
夕陽差す川辺へとやって来たバンビは、胸に抱いた茶毛の猫を見下ろして呟いた。
「あんたのご主人はどこにいるのですわ?」
「なーう」
バンビは猫の言葉がわからず、猫もまたバンビの言葉がわからない。ただ互いに音を発するのみである。
少女は猫を降ろすとしげしげとその顔を見つめた。
――もう面倒だし、ここに放り出していってしまおうか。
そんな言葉が脳裏をかすめる。
しかしこの呑気そうな猫が生き馬の目を抜く野良業界で生きていけるだろうか?
家無し生活は過酷なのである。辛いのである。どう見ても温室育ちなこの猫が耐えられるとは思えない。
早晩エサにありつけず弱った所を馬車にでもはねられてお亡くなりになる未来しか見えない。
「…………仕方ありませんわね」
一日中、行動を共にした事もあり情が湧いてしまったバンビは決意した。
「あんたは俺が飼う事にいたしますわ。これからは俺がご主人様ですわよ」
「にゃーん」
「わかってんのですかねこいつわ」
指先を伸ばして顎の下を撫でてやる。
猫は目を糸のように細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
「んー、いつまでもあんたとかこいつ呼ばわりではアレですわね。名前をつけてさしあげましょうか」
バンビは考えた。
うんうんと唸って考えた。
そして閃く。
「……マクラ……あんたのこれからの名はマクラですわ!」
茶毛でタコノマクラのようなふにゃっとした模様が頭にある事。初対面時に頭の下にしているほうから出てきた事。
そのあたりからの命名である。
「にゃーん」
気に入ったのか、気に入らなかったのか、そもそも意味がわかってるのかいないのか、定かではなかったが、茶毛の猫――マクラはバンビを見上げると一声鳴いたのだった。
夜明けの光は分け隔てなく地へと降り注ぎ、ダンボ=ルで建てられた携帯式ハウスもまた金色に染め上げられていた。
春が近い夜明けの風が吹く黄金のダンボ=ルの中で眠っていたのは、これまた金色の毛をもふもふと長く伸ばしている少女である。
名をバンビという。『ゴブリン美少女化計画村』で育成された特別なゴブリナだ。
雪のような白肌を持つ彼女は、夏場だとこのようにモフモフしてはいないのだが、冬毛の生えるゴブリナだったので、冬場の朝は森の光弩使いチュ=バッカや赤き聖人ム・クの如きフサフサ感にトランスフォームしているのである。
なお万世に遍く普通のゴブリンは冬毛は生えない、たぶん。
モフモフ金色、長い毛に包まれて、すやすやと眠っていたゴブリン美少女だったが、眠りが浅くなって来た所で彼女は不意に頭にモゾモゾ感を覚えた。
パチリと緑色の瞳を開く。
思う。
――頭髪の中に『ナニカ』がいる。
ゾワッとしたものを覚えたバンビはテシテシと己の頭を急ぎ叩いた。
すると、
「にゃ~ん」
小動物独特の鳴き声が響き渡った。
眼前を影が横切り、バンビの上に着地する。
ぐぇっと衝撃に息を詰まらせつつ顔を上げるとバンビのお腹の上に一匹の猫が乗っていた。
茶色の艶やかな毛並みをしている。
首には飴色の革製の首輪をつけていた。
頭に五つの花びら状のふにゃっとした模様をこさえている。
――タコノマクラに似ている。
バンビは直感的にそう感じた。
モフモフ美少女は眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げながらエメラルドグリーンの瞳を、己の腹に鎮座する四足小型動物へと向けた。
「あんた、俺の冬毛を毛布代わりにしてたのかよ?」
バンビの髪とか冬毛はもっふもふなので、寒い晩に猫だって入りたくなるのはわかるのだけれど、わかりたくない所であった。
バンビの心境を知ってか知らずか、茶毛の猫は前足で己の顔の横を二、三度掻くと、再びにゃーんと一声鳴いて丸くなった。
「こらこら、淑女のお腹の上で寝るんじゃないのですわよ」
バンビはしゅっと右手を素早く伸ばすと猫の首根っこを掴み、ぐぃっと持ち上げた。軽くはあったがそれなりに手応えがある重さ。
首を掴まれた猫は暴れる様子もなく、びょーんと胴体を伸ばし、手足をぶらさげ、吊られるままになっている。
金色の冬毛少女は、呑気そうに細められている糸目の猫瞳をしげしげと見つめつつ、
「……あんた、どこかの飼い猫なのだわ?」
妙に人に慣れているような気がした。
首輪もしているし、飼われている猫なような気がする。
にゃにゃーんと猫が鳴いた。
バンビは猫をダンボ=ルの床に降ろすと、手の甲を猫へ向けて前後にプラプラと動かし、しっしと歯の隙間より息を吐いた。
「主人の所にお帰りになるがよろしいですわ」
しかし猫は立ち去る様子を見せず、動くバンビの手を見つめ、指先の動く方に首を右往左往させている。
勢いを加速させて振ってみると猫の首が高速でシャカシャカと動く。
(むむっ)
なんとなく対抗心が出てきたバンビがさらに高速で振ると、猫は首の動きを止め、アァ~と口を開いて大きな欠伸を洩らした。
もう飽きた、と言わんばかりに丸くなって眠りにつく。
「こらこらっ! ここで寝るんじゃないですわよ!」
つんつんと指先で猫をつついてみたが動かない。
どうやらお猫様はこの場所が気に入ったらしく、居つかれてしまった。
「ぐぬぬぬ……」
どうしたものかとバンビは思案するのだった。
●
金色の冬毛をモフモフと生やしたゴブリナ少女が漆黒のローブに身を包み、茶毛の猫を胸に抱いて街を歩いている。
「よおバンビちゃん! どうしたんだいその猫!」
行きつけの出店に辿り着くと、白い布を頭に巻いた体格の良い店主より威勢良く疑問の声を投げられた。
「朝起きたら頭髪に潜り込まれてたのですわ」
「はっはっは、そりゃ吃驚だな! ま、暖かそうだしなバンビちゃんは! 冬も終わり間近といってもまだまだ冷え込んでるからねぇ! 猫の毛はあんまり防寒性能が良く無いっていうしそいつも暖が欲しいんだろうよ」
店主は鍋を片手に笑い、バンビは口先を尖らせた。
「だからといって本人の了承なく淑女の毛髪を毛布代わりにしないで欲しいですわ」
「最近は物騒だし良い加減野宿やめたらどうだい? バンビちゃんの腕ならそれなりに冒険者として稼いでるだろうし無理でもないだろう。そうすりゃ寝てる間に猫に潜り込まれるなんて事も無くなるぞ。猫ならまだ良いが、他のモンだとコトだぜ」
「野宿ではありません、家住みですわ」
「その家ダンボ=ルじゃねぇか」
なかなかツッコミ鋭い店主である。
バンビは負けん気が強いので言い返した。
「ふふん、ダンボ=ルは軽量断熱、優れた素材ですわよ。すなわち、それによって作られたマイハウスもまた優れた家なのです。人の世は正しく物の価値を評価しておりませんわ」
「さようで。まぁ人間って奴ぁ概念を着てるからなぁ」
「その社会性自体の賢愚が奈辺にあるかの判断はつきかねますが、されどそれによって真実への目を曇らせるのは愚かな事です。ダンボ=ルはもっと評価されるべきですわ」
「ダンボ=ルの真実か。なるほど、見事な論法だと感心はするがどこもおかしな所は無い」
「でしょう。まぁそれはそれとしてこの猫、飼い猫のようなのですけど店主さんお心当たりとかございませんこと?」
「んん~?」
店主は首輪を一瞥してから顔を突き出しマジマジと猫の顔を見つめたが、
「……んにゃ! わりぃが見た事ねぇ猫だなぁ! この辺りの猫じゃねぇんじゃねーか? 家猫だって可能性もあるが」
「うーん、さようですか……」
そんなやりとりの後、朝食がまだだったので、バンビは例によってミルクで煮られた麦粥を己と猫用に注文した。
茶毛の猫が皿に口を突っ込んでがつがつと食べている。
バンビは猫の食べる速度を窺いつつ麦粥を平らげると、代金を支払い出店を後にしたのだった。
●
バンビは街の人々にこの猫を知らないかと尋ね歩いたが、知っていると答えた街人は誰もいなかった。
そのうちにバンビはいつもの行きつけの図書館へと辿り着き、
「おいこらゴブリン、館内への小動物の持ち込みは厳禁だぞ!」
眼鏡をかけた感じの悪い受付がバンビが胸に抱いている猫を睨みつつ慌てた調子で叫んだ。
「そんなのは承知しておりますわ。あんたに尋ねに来たのです。受付さんはこの猫、ご存じない?」
「知らん知らん! 僕は猫は嫌いなんだっ! とっとと出ていってくれッ!!」
猫は幅広く皆から愛される小動物だったが、中にはこれを嫌う少数派もいるらしい。彼相手では盾に猫を縛り付けて進軍しても都を陥落させるのは難しい事だろう。
バンビは猫を抱きつつ回れ右して図書館からそそくさと撤退したのだった。
●
次にバンビが向かったのは街中にある教会だった。
「うーん、知らない猫ちゃんですね」
「随分しっかりした首輪のようですし、毛並みの艶も良いし……誰かに飼われていた事は間違いなさそうですが……私も見かけた事ないなぁ」
シスター達に尋ねるとそんな回答が帰って来た。
やがて若いシスターがねこじゃらしを持ってきたので、バンビは教会の中庭でシスターと共にねこじゃらしで戯れた。
ごろんごろんと猫が転がる。
十分に堪能した後に教会を出ると、
「猫ォ?」
「いや、見かけた事ねぇなぁ」
「飼い猫なのかそいつ」
「それよりお前、金返せよ!」
借金取り四人組と遭遇した。
バンビは猫を頭に乗せると泰然自若とした態で、両手のひらを下へと向けて上下に動かし、
「まだ慌てるような時間じゃありませんわ。盆はまだまだ先でしてよ」
「ああもう、少しは慌てとけっ! 余裕かましてる奴ぁ大抵間に合わねぇんだよ!」
そんないつものやりとりを交わす。
まぁそれはそれとして彼等も知らないという。
それからもバンビは多くの人々に尋ねて回ったが、知っているという人間はついぞ現れなかった。
「うーん、誰も知らないとは……弱りましたわね……」
夕陽差す川辺へとやって来たバンビは、胸に抱いた茶毛の猫を見下ろして呟いた。
「あんたのご主人はどこにいるのですわ?」
「なーう」
バンビは猫の言葉がわからず、猫もまたバンビの言葉がわからない。ただ互いに音を発するのみである。
少女は猫を降ろすとしげしげとその顔を見つめた。
――もう面倒だし、ここに放り出していってしまおうか。
そんな言葉が脳裏をかすめる。
しかしこの呑気そうな猫が生き馬の目を抜く野良業界で生きていけるだろうか?
家無し生活は過酷なのである。辛いのである。どう見ても温室育ちなこの猫が耐えられるとは思えない。
早晩エサにありつけず弱った所を馬車にでもはねられてお亡くなりになる未来しか見えない。
「…………仕方ありませんわね」
一日中、行動を共にした事もあり情が湧いてしまったバンビは決意した。
「あんたは俺が飼う事にいたしますわ。これからは俺がご主人様ですわよ」
「にゃーん」
「わかってんのですかねこいつわ」
指先を伸ばして顎の下を撫でてやる。
猫は目を糸のように細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
「んー、いつまでもあんたとかこいつ呼ばわりではアレですわね。名前をつけてさしあげましょうか」
バンビは考えた。
うんうんと唸って考えた。
そして閃く。
「……マクラ……あんたのこれからの名はマクラですわ!」
茶毛でタコノマクラのようなふにゃっとした模様が頭にある事。初対面時に頭の下にしているほうから出てきた事。
そのあたりからの命名である。
「にゃーん」
気に入ったのか、気に入らなかったのか、そもそも意味がわかってるのかいないのか、定かではなかったが、茶毛の猫――マクラはバンビを見上げると一声鳴いたのだった。