例えば、それが神の恩寵であると言うのなら
キャラクターノベル制作 弓月 蒼納品 2021年02月04日 18時44分56秒
●少年は居場所を求め
――――石を投げられた。いくつも、いくつも、いくつも。
当たりどころが悪かったのだろう。瞼の上から流れた血が凍り右目が開かない。
ヨルド氷雪帯。或いはより単純に――――極北、と呼ぶ者も居る。
寒冷地として知られる帝国北方以上の極寒であり、人が生きるには厳しすぎる土地。
だからこそ、極北に僅か存在する集落では人種を問わずヒトは纏まって生活している。
大小諍いこそあれど、余所に比べれば差別も多くはない。でなければ、死ぬからだ。
自然の驚異に常日頃苛まれている彼らは、生きることだけで精一杯だ。
作物はまともに育たない。狩りに行ける者は、子供だろうと老人だろうと駆り出される。
毎日が死にもの狂いで。それが当たり前で。だからこそ――――何故。
何故、という想いは、降り積もる雪の様に彼の心に積み上がり続けた。
集落における差別はなくとも。同族となれば話は別だ。
雪豹の一族。血よりも濃い"群"の結束は、本来極北における最大の強みの筈だった。
でなければ彼らはこんな生き難い場所に集わず、権勢を誇ることも無かっただろう。
そして。そうであったからこそ、誰も彼を助けてはくれない。
彼は生まれながらの授恵者だった。
少しでも多くの働き手を求める極北に在って、それがどれほどの価値を有しているか。
いずれは群の長になってもおかしくはない。その筈だ。その、筈だった。
――――悍ましい黒い髪に、醜い赤い肌など持って生まれて来さえしなければ。
獣の理は無慈悲だ。彼の姿は雪豹の血であると誰からも認められなかった。
持って生まれた資質は嫉妬と嫌悪で以てその意味を反転させた。
誰も助けてなどくれない。誰もが彼を疎んじる。一族は彼を無き物として扱った。
実の両親ですら、表立って彼を庇うことなど出来ない。でなければ、死ぬからだ。
「ぐっ……っ……」
痛みと苦痛に涙が滲む。歯を食い縛って獲物を漁りに行く。そうやって彼は命を繋いでいた。
運が良ければ同様に、魔獣の残飯を漁りに来た弱い獣が居る。これを捕えて縊り殺す。
惨めだった。あまりにも惨めで、苦しくて。辛くて。痛くて。
だからこそ死にたくなかった。漸く厄介者が消えたなどと誰一人喜ばせたく無かった。
獣の本能に縋り付いた。生きる。ただ生きる。今日を、今を、この瞬間を。
空腹を掻き毟って骨を食んだ。氷を噛み締め虎口を凌いだ。冷えた身体を怒りと執念が支えた。
何もしてくれなかった一族が彼の追放を決めた。
齢10と少々の子供を、雪原に放り出して。近い齢の子供達は笑って石を投げた。
こんな話が有るだろうか。学など無くとも他の一族の子供を見れば分かる。
黒い髪でなければ、赤い肌でなければ。自分が自分でさえなければ。
なんど。何度。何度何度何度何度何度何度――――何十何百何千何万回繰り返した。
けれど、現実は無慈悲だ。誰も何もしてくれない。ただ生きることが、遠い。
氷に足を取られて躓く。唯一自慢の尾まで凍てついていた。腹が減った。もう一歩も歩けない。
涙が溢れる。こんな場所で泣けば顔の皮膚まで剥がれてしまうと言うのに。
「……く……そ……! くそぉ……っ!」
爪が氷面を引っ掻く。こんなところで死ぬのか。こんな何も出来ないまま死ぬのか。
かつん――――と。小さな氷の礫が、黒い髪にぶつかった。
僅かに動く、左目を動かして視線を向けた。
そこには――――極寒の地であり得るわけもない。薄手の衣類を纏った、唯人の姿。
そこが限界だった。暗転する意識の中、けれど確かに響く声。
「――――可哀想に。あなたも、棄てられたのね」
其処から先は、もう良く憶えていない。
●青年は救済を願い
首に短剣を突き刺し、手首を捻る。まず1人。
膝の裏を踵で蹴り、顔に逆手を被せ押し込むことで一撃を避ける。頭上で刃が空振る。
抜いた短剣を空振った男の左肩へ投げる。刺さる。抜こうとする隙に腰から剣を抜く。
慌てた男が短剣から手を離した瞬間、左腕の脇に剣先を突き入れて抜く。2人。
遠距離から狙いを付けていた射手に対し、地面に倒した1人目を盾にする。
矢が刺さった感触を確かめ身体を反転。右手に持った剣を遠心力を載せて投げ放つ。
狙い違わず頭蓋を貫いて脳漿が散る音が聞こえた。これで――――3人。
止めていた息を吐く。脇の傷跡から血が止まらず地面に伏せて呻く2人目を踏み付ける。
「……っ、こんな、こんなことをして」
価値の無い言葉だ。2人目の左肩に刺さったままの短剣抜いて頭へと振り下ろした。
次いで拍手の音。振り返れば同業者の女が虚ろな目で彼を見ていた。
「流石ですね、同志スヴァン」
同志スヴァン。"メドゥの指先"実働部隊。スヴァン=ウォルフ=ユーウェン。
棄てられた黒い雪豹はとある組織の幹部に拾われ、結果として命を繋いだ。
命を繋ぐ代価は決して軽い物ではなかった。捨てさせられた生来の名前。
与えられた呼び名は未だ馴染みきらない。求められたのは、力。ただ、力のみ。
力を行使すれば全てが許された。居場所も与えられた。称賛の言葉も貰えた。
かつて、集落で思い悩んでいた頃より世界は酷く単純化されていた。気持ちも楽だった。
だから――――スヴァンは自ら"そういう者"になった。
「次は」
何もかも深く考えるのが嫌だった。手を血に染める事に抵抗はない。
最初は強い違和感を憶えたが、獲物を狩るのと同じと思えばどうという事はなかった。
何より、其処には居場所が有った。友も仲間も得られないが同志ならば幾らも居た。
こんな世界はおかしい。こんな世界は間違っている。こんな世界は一度壊れるべきだ。
誰も彼もが口々にそう言った。ああ、同感だ。ただ生きることが許されない世界など。
生きたいという願いすらが摘み取られる世界など、そんなもの断じて正しいわけがない。
「……護衛はこれで全て。目標は2階の寝室です」
必要最低限のやりとりを終え、階段を上がる。視線は死角を辿る。頭上、腕の下、後背。
こういった技術も、汚れ仕事を繰り返す内に自然と身に付いていった。
身に付けるのが遅い者から死んでいった。その意味ではスヴァンは運が良かったのだろう。
大体の同業者は、例え顔馴染みになっても数日から1年で大抵居なくなる。
こんな仕事を5年も続けている人物を、彼は彼以外に知らない。
必然として、段々と他人に関心も持てなくなっていったし、深く踏み込むのも恐ろしかった。
どうせ喪われるものと、どうして好き好んで交流を持ちたいなどと思うだろう。
それは、当然スヴァン自身すらも含まれていた訳だが――――
「ここか」
扉の鍵に短剣を噛ませてこじ開ける。酷く大きな音が立ったが、どうせ逃げ場などない。
返り血塗れの男を前にして、逃げられると思う剛の者も……そうそう居るわけではないだろうが。
開け放った扉。寝室と聞いた部屋の中に居たのは顔を蒼白にした女と。小さな、乳飲み子。
いつの間にか背後に立っていた同業者の頷きに、握った短剣が、揺れた。
「――――居ましたね、侯爵家の御嫡男」
目標について話は聞いていた。侯爵家の当主と嫡男を殺せ。件の家は分家に継がせるべきだと。
今まで幾らも殺してきた。汚職に耽る商人。理想ばかり詠う学者。王家を盲信する貴族。
それをすることで世界が少しでも良くなるならば。自分の様な人間が1人でも減るならば。
けれど。けれど。けれど――――では、これは、何だ。
「……乳飲み子だ」
短剣が揺れる。理解できない。いや、したくない。
「何故だ。あの赤子が何をした? 生まれて、いや。何が出来るわけもない」
「殺すのが貴方の仕事です。同志スヴァン」
指が今度こそはっきりと震えた。おかしい。それは、幾ら何でもおかしい。
忘れていた違和感が揺り返しの様に襲って来る。あれを。あんな、小さな命を詰めと?
「出来ませんか」
その声に、反射的に振り返ると短剣を翳す。高い金属の音。同業者の同じ武器と競り合う。
経験がある。知っていた。尻尾切りだ。組織は使えない駒を破棄しようとしている。
「逃げろ」
怯えきった女と、彼女が抱く赤子に声を上げる。同業者が見込みより強い。余裕がない。
「――――生きたいなら、逃げろ」
女が、寝具から立ち上がると赤子とカーテンを掴んで窓から跳び下りた。
よくぞ決断出来たものだ。その覚悟に。母の強さとでも言うべき物に、心中で称賛を贈る。
ならば彼もまた。こんな場所で死ねはしない。例え、それでこの上何を失うとしても。
生きる為の覚悟ならば、その一点だけは誰にも負けるわけにいかないのだから。
殺し続けて生きてきた男と、その男を殺そうとする者。両者の短剣が、もう一度交差する。
●かくて男は未来に臨む
「何だその、何処を切り取っても無茶苦茶な話は」
エラトゥーン都市同盟の一角。湾岸都市『エスト・ポーラ』のとある酒場。
右目に着けた眼帯をこつこつと叩いて、男は手元に広げた札を一瞥した。
情報料代わりと分かってはいても賭けは賭けだ。それほど潤沢な資金が有る訳でもない。
出来れば勝ちたい所ではあるが、来ている手札はどうにも望ましい物ではない。
「リブラネスタで決まったらしい。今後出る授恵者は必ず冒険者として登録しろとよ」
5枚の内3枚を交換し、微妙な結果に終わったことを見取って伏せる。
聞きたいことは聞いた。後は精々が、今日の運試し。といったところだ。
「お? 珍しいな。降りねえの?」
「ああ、勝負だ」
開いた5枚の札には絵柄の組が2つ。相手が表にした札にも――――同じ柄の組が2つ。
「ち、しけた手だ」
「違いない」
引き分け、ではない。賭けた銀貨を引き上げると、胸ポケットに落とす。
情報を買って、代価を回収する。つまり、絵柄を2組揃えたスヴァンの競り勝ちだ。
「行くのか?」
背に掛かった声に、掌をひらひらと振る。これは、有る意味でチャンスと言えた。
何せ、昨今授恵者になった者とそうでない者を判別する術などない。
例え"メドゥの指先"とは袂を分ったとしても。叩けば埃など幾らでも出るのだ。
今現在痛くもない腹を探られて、結果藪を叩いたら蛇が出た。などと御免被る。
素性を隠すには各都市で法規がまるで異なる同盟都市群は便利だったが……
この機会に冒険者となれば、労せずして確かな身分と後ろ楯が得られる訳だ。
とは言え聞きしに負う『市民の味方』様だ。不法、非合法、悪行、いずれも原則厳禁だろう。
踏み込むならば生き方から変える他無い。其処に引っ掛かりが、無いわけではないが。
「さて、どうしたものか」
腰に帯びた剣を確かめる。これが、命綱だ。
自分がしてきたことの結果を知るために、これまで各地を渡り多くを見て来た。
人は彼が思うよりずっと悪辣で、邪悪で、狡知に長け、時に彼もまた陥れられそうになったが。
一方で彼が感じていたより純粋で、親切で、愛情深く、時に命を救われることすらあった。
組織を捨てての10年余り。それだけの年月は青年を、一人の男に変えた。
沢山の悲劇を見た。理不尽を見た。悪意を見た。我欲を見た。けれどそれだけではなかった。
そうして幾らかの。儚い糸の様な縁に支えられて。スヴァンは今もまだ生きている。
(覚悟を固めるべき時が来た、ということか)
『エスト・ポーラ』の門を潜る。どれほど時が流れようとも、この手は既に血に濡れて。
居場所を求め、救済を求め、殺して生きて来た。ならば、いつか殺されることも有るだろう。
けれどそれまでは。決して生きることを諦めまい。
どんな苦境が待とうとも。どんな難敵が立ちはだかろうとも。それだけは決して。
過去は何時までも追い縋る。現在は感情を置き去りに疾駆する。
ならば、己が生き方だけは譲れない。欲しくて、足掻いて、たった一つ手元に残った物だけは。
例えば、それが神の恩寵であると言うのなら――――
「市民の味方……ね。良いだろう」
――――相手にまわして不足はない。
●ここから始まる物語
この数日後、『リブラネスタ』の冒険者ギルドに一人の男が訪れる。
その男は黒い髪に褐色の肌、右目に眼帯を着けた雪豹の半獣人であり。
けれどそれを聞いて嗤う者も。醜いと謗る者も。或いは石を投げつける者も。
結局、誰一人として居なかったのだと言う。
――――石を投げられた。いくつも、いくつも、いくつも。
当たりどころが悪かったのだろう。瞼の上から流れた血が凍り右目が開かない。
ヨルド氷雪帯。或いはより単純に――――極北、と呼ぶ者も居る。
寒冷地として知られる帝国北方以上の極寒であり、人が生きるには厳しすぎる土地。
だからこそ、極北に僅か存在する集落では人種を問わずヒトは纏まって生活している。
大小諍いこそあれど、余所に比べれば差別も多くはない。でなければ、死ぬからだ。
自然の驚異に常日頃苛まれている彼らは、生きることだけで精一杯だ。
作物はまともに育たない。狩りに行ける者は、子供だろうと老人だろうと駆り出される。
毎日が死にもの狂いで。それが当たり前で。だからこそ――――何故。
何故、という想いは、降り積もる雪の様に彼の心に積み上がり続けた。
集落における差別はなくとも。同族となれば話は別だ。
雪豹の一族。血よりも濃い"群"の結束は、本来極北における最大の強みの筈だった。
でなければ彼らはこんな生き難い場所に集わず、権勢を誇ることも無かっただろう。
そして。そうであったからこそ、誰も彼を助けてはくれない。
彼は生まれながらの授恵者だった。
少しでも多くの働き手を求める極北に在って、それがどれほどの価値を有しているか。
いずれは群の長になってもおかしくはない。その筈だ。その、筈だった。
――――悍ましい黒い髪に、醜い赤い肌など持って生まれて来さえしなければ。
獣の理は無慈悲だ。彼の姿は雪豹の血であると誰からも認められなかった。
持って生まれた資質は嫉妬と嫌悪で以てその意味を反転させた。
誰も助けてなどくれない。誰もが彼を疎んじる。一族は彼を無き物として扱った。
実の両親ですら、表立って彼を庇うことなど出来ない。でなければ、死ぬからだ。
「ぐっ……っ……」
痛みと苦痛に涙が滲む。歯を食い縛って獲物を漁りに行く。そうやって彼は命を繋いでいた。
運が良ければ同様に、魔獣の残飯を漁りに来た弱い獣が居る。これを捕えて縊り殺す。
惨めだった。あまりにも惨めで、苦しくて。辛くて。痛くて。
だからこそ死にたくなかった。漸く厄介者が消えたなどと誰一人喜ばせたく無かった。
獣の本能に縋り付いた。生きる。ただ生きる。今日を、今を、この瞬間を。
空腹を掻き毟って骨を食んだ。氷を噛み締め虎口を凌いだ。冷えた身体を怒りと執念が支えた。
何もしてくれなかった一族が彼の追放を決めた。
齢10と少々の子供を、雪原に放り出して。近い齢の子供達は笑って石を投げた。
こんな話が有るだろうか。学など無くとも他の一族の子供を見れば分かる。
黒い髪でなければ、赤い肌でなければ。自分が自分でさえなければ。
なんど。何度。何度何度何度何度何度何度――――何十何百何千何万回繰り返した。
けれど、現実は無慈悲だ。誰も何もしてくれない。ただ生きることが、遠い。
氷に足を取られて躓く。唯一自慢の尾まで凍てついていた。腹が減った。もう一歩も歩けない。
涙が溢れる。こんな場所で泣けば顔の皮膚まで剥がれてしまうと言うのに。
「……く……そ……! くそぉ……っ!」
爪が氷面を引っ掻く。こんなところで死ぬのか。こんな何も出来ないまま死ぬのか。
かつん――――と。小さな氷の礫が、黒い髪にぶつかった。
僅かに動く、左目を動かして視線を向けた。
そこには――――極寒の地であり得るわけもない。薄手の衣類を纏った、唯人の姿。
そこが限界だった。暗転する意識の中、けれど確かに響く声。
「――――可哀想に。あなたも、棄てられたのね」
其処から先は、もう良く憶えていない。
●青年は救済を願い
首に短剣を突き刺し、手首を捻る。まず1人。
膝の裏を踵で蹴り、顔に逆手を被せ押し込むことで一撃を避ける。頭上で刃が空振る。
抜いた短剣を空振った男の左肩へ投げる。刺さる。抜こうとする隙に腰から剣を抜く。
慌てた男が短剣から手を離した瞬間、左腕の脇に剣先を突き入れて抜く。2人。
遠距離から狙いを付けていた射手に対し、地面に倒した1人目を盾にする。
矢が刺さった感触を確かめ身体を反転。右手に持った剣を遠心力を載せて投げ放つ。
狙い違わず頭蓋を貫いて脳漿が散る音が聞こえた。これで――――3人。
止めていた息を吐く。脇の傷跡から血が止まらず地面に伏せて呻く2人目を踏み付ける。
「……っ、こんな、こんなことをして」
価値の無い言葉だ。2人目の左肩に刺さったままの短剣抜いて頭へと振り下ろした。
次いで拍手の音。振り返れば同業者の女が虚ろな目で彼を見ていた。
「流石ですね、同志スヴァン」
同志スヴァン。"メドゥの指先"実働部隊。スヴァン=ウォルフ=ユーウェン。
棄てられた黒い雪豹はとある組織の幹部に拾われ、結果として命を繋いだ。
命を繋ぐ代価は決して軽い物ではなかった。捨てさせられた生来の名前。
与えられた呼び名は未だ馴染みきらない。求められたのは、力。ただ、力のみ。
力を行使すれば全てが許された。居場所も与えられた。称賛の言葉も貰えた。
かつて、集落で思い悩んでいた頃より世界は酷く単純化されていた。気持ちも楽だった。
だから――――スヴァンは自ら"そういう者"になった。
「次は」
何もかも深く考えるのが嫌だった。手を血に染める事に抵抗はない。
最初は強い違和感を憶えたが、獲物を狩るのと同じと思えばどうという事はなかった。
何より、其処には居場所が有った。友も仲間も得られないが同志ならば幾らも居た。
こんな世界はおかしい。こんな世界は間違っている。こんな世界は一度壊れるべきだ。
誰も彼もが口々にそう言った。ああ、同感だ。ただ生きることが許されない世界など。
生きたいという願いすらが摘み取られる世界など、そんなもの断じて正しいわけがない。
「……護衛はこれで全て。目標は2階の寝室です」
必要最低限のやりとりを終え、階段を上がる。視線は死角を辿る。頭上、腕の下、後背。
こういった技術も、汚れ仕事を繰り返す内に自然と身に付いていった。
身に付けるのが遅い者から死んでいった。その意味ではスヴァンは運が良かったのだろう。
大体の同業者は、例え顔馴染みになっても数日から1年で大抵居なくなる。
こんな仕事を5年も続けている人物を、彼は彼以外に知らない。
必然として、段々と他人に関心も持てなくなっていったし、深く踏み込むのも恐ろしかった。
どうせ喪われるものと、どうして好き好んで交流を持ちたいなどと思うだろう。
それは、当然スヴァン自身すらも含まれていた訳だが――――
「ここか」
扉の鍵に短剣を噛ませてこじ開ける。酷く大きな音が立ったが、どうせ逃げ場などない。
返り血塗れの男を前にして、逃げられると思う剛の者も……そうそう居るわけではないだろうが。
開け放った扉。寝室と聞いた部屋の中に居たのは顔を蒼白にした女と。小さな、乳飲み子。
いつの間にか背後に立っていた同業者の頷きに、握った短剣が、揺れた。
「――――居ましたね、侯爵家の御嫡男」
目標について話は聞いていた。侯爵家の当主と嫡男を殺せ。件の家は分家に継がせるべきだと。
今まで幾らも殺してきた。汚職に耽る商人。理想ばかり詠う学者。王家を盲信する貴族。
それをすることで世界が少しでも良くなるならば。自分の様な人間が1人でも減るならば。
けれど。けれど。けれど――――では、これは、何だ。
「……乳飲み子だ」
短剣が揺れる。理解できない。いや、したくない。
「何故だ。あの赤子が何をした? 生まれて、いや。何が出来るわけもない」
「殺すのが貴方の仕事です。同志スヴァン」
指が今度こそはっきりと震えた。おかしい。それは、幾ら何でもおかしい。
忘れていた違和感が揺り返しの様に襲って来る。あれを。あんな、小さな命を詰めと?
「出来ませんか」
その声に、反射的に振り返ると短剣を翳す。高い金属の音。同業者の同じ武器と競り合う。
経験がある。知っていた。尻尾切りだ。組織は使えない駒を破棄しようとしている。
「逃げろ」
怯えきった女と、彼女が抱く赤子に声を上げる。同業者が見込みより強い。余裕がない。
「――――生きたいなら、逃げろ」
女が、寝具から立ち上がると赤子とカーテンを掴んで窓から跳び下りた。
よくぞ決断出来たものだ。その覚悟に。母の強さとでも言うべき物に、心中で称賛を贈る。
ならば彼もまた。こんな場所で死ねはしない。例え、それでこの上何を失うとしても。
生きる為の覚悟ならば、その一点だけは誰にも負けるわけにいかないのだから。
殺し続けて生きてきた男と、その男を殺そうとする者。両者の短剣が、もう一度交差する。
●かくて男は未来に臨む
「何だその、何処を切り取っても無茶苦茶な話は」
エラトゥーン都市同盟の一角。湾岸都市『エスト・ポーラ』のとある酒場。
右目に着けた眼帯をこつこつと叩いて、男は手元に広げた札を一瞥した。
情報料代わりと分かってはいても賭けは賭けだ。それほど潤沢な資金が有る訳でもない。
出来れば勝ちたい所ではあるが、来ている手札はどうにも望ましい物ではない。
「リブラネスタで決まったらしい。今後出る授恵者は必ず冒険者として登録しろとよ」
5枚の内3枚を交換し、微妙な結果に終わったことを見取って伏せる。
聞きたいことは聞いた。後は精々が、今日の運試し。といったところだ。
「お? 珍しいな。降りねえの?」
「ああ、勝負だ」
開いた5枚の札には絵柄の組が2つ。相手が表にした札にも――――同じ柄の組が2つ。
「ち、しけた手だ」
「違いない」
引き分け、ではない。賭けた銀貨を引き上げると、胸ポケットに落とす。
情報を買って、代価を回収する。つまり、絵柄を2組揃えたスヴァンの競り勝ちだ。
「行くのか?」
背に掛かった声に、掌をひらひらと振る。これは、有る意味でチャンスと言えた。
何せ、昨今授恵者になった者とそうでない者を判別する術などない。
例え"メドゥの指先"とは袂を分ったとしても。叩けば埃など幾らでも出るのだ。
今現在痛くもない腹を探られて、結果藪を叩いたら蛇が出た。などと御免被る。
素性を隠すには各都市で法規がまるで異なる同盟都市群は便利だったが……
この機会に冒険者となれば、労せずして確かな身分と後ろ楯が得られる訳だ。
とは言え聞きしに負う『市民の味方』様だ。不法、非合法、悪行、いずれも原則厳禁だろう。
踏み込むならば生き方から変える他無い。其処に引っ掛かりが、無いわけではないが。
「さて、どうしたものか」
腰に帯びた剣を確かめる。これが、命綱だ。
自分がしてきたことの結果を知るために、これまで各地を渡り多くを見て来た。
人は彼が思うよりずっと悪辣で、邪悪で、狡知に長け、時に彼もまた陥れられそうになったが。
一方で彼が感じていたより純粋で、親切で、愛情深く、時に命を救われることすらあった。
組織を捨てての10年余り。それだけの年月は青年を、一人の男に変えた。
沢山の悲劇を見た。理不尽を見た。悪意を見た。我欲を見た。けれどそれだけではなかった。
そうして幾らかの。儚い糸の様な縁に支えられて。スヴァンは今もまだ生きている。
(覚悟を固めるべき時が来た、ということか)
『エスト・ポーラ』の門を潜る。どれほど時が流れようとも、この手は既に血に濡れて。
居場所を求め、救済を求め、殺して生きて来た。ならば、いつか殺されることも有るだろう。
けれどそれまでは。決して生きることを諦めまい。
どんな苦境が待とうとも。どんな難敵が立ちはだかろうとも。それだけは決して。
過去は何時までも追い縋る。現在は感情を置き去りに疾駆する。
ならば、己が生き方だけは譲れない。欲しくて、足掻いて、たった一つ手元に残った物だけは。
例えば、それが神の恩寵であると言うのなら――――
「市民の味方……ね。良いだろう」
――――相手にまわして不足はない。
●ここから始まる物語
この数日後、『リブラネスタ』の冒険者ギルドに一人の男が訪れる。
その男は黒い髪に褐色の肌、右目に眼帯を着けた雪豹の半獣人であり。
けれどそれを聞いて嗤う者も。醜いと謗る者も。或いは石を投げつける者も。
結局、誰一人として居なかったのだと言う。