白銀の華の咲き誇る。
キャラクターノベル制作 蓮華・水無月納品 2025年03月26日 07時41分55秒
今日のお茶会の参加者の、全てと面識があるわけではない。貴族年鑑や、伝手を駆使して集めた噂話程度の知識しかない者も居る――だが、
「ようこそお越し下さいました」
「お招きに預かりまして光栄ですわ」
やがてレティシアが『レティシア・R・クラティアス』となるにあたって、今日の参加者が非常に重要であることは、想像に難くなかった。そうして、貴族社会では相手の好意的な笑顔を、その通りに受け取る事は愚かであるとレティシアは知っている。
ゆえに、
(お義祖母様から主催としての心得を、しっかりと学ばねばなりません)
そう、嫋やかな微笑みの下にレティシアは悲壮な緊張感を漂わせ、今日までに幾度も練習した挨拶を、髪一筋の間違いも侵さぬよう細心の注意を払って口にする。自身が何か1つでも失敗すれば、それは義祖母の瑕疵となり、ひいては主催する家の瑕疵にもなるのだから。
ゆえに、もう何度同じ言葉同じお辞儀を繰り返したのかも判らぬまま、とにかく義祖母の傍に侍り、来客にひたすら失礼のないよう頭を下げ、義祖母に紹介をされれば控えめに名乗りを上げる――そんな事を繰り返していた中で。
(――あ)
ふと、張り詰めた糸が一瞬緩んだのは、同じだと思ったから。銀糸の如き髪の下に咲く、菫の如く可憐な――レティシアの実母・レフィリアの瞳と同じ。
何という奇遇であろうかと、緩んだ糸はだが義祖母が挨拶をするのを聞けばすぐに張り詰めた。伏せた瞳は慎ましやかに、義祖母の挨拶に合わせて身に染みた、だがそれより何より決してミスをするまいと伸ばした背筋に力を込めた、完璧なお辞儀を。
義祖母が、いずれ孫嫁になるのだとレティシアを紹介する。それに合わせて伏せていた顔と瞳を礼儀正しく上げ、こちらに向けられた二対の菫色の瞳を受け止めて。
完璧に、清楚に、慎ましやかに、微笑む。
「『慈涙』家が娘・レティシアでございます。どうぞお見知りおき下さいませ」
「グラシエラ・マスダルですわ。いと高き『白銀』のおばあ様がお目にかけておられる姫君にお目通りが叶って光栄でしてよ」
「イグナシオ・マスダルと申します。どうぞお見知りおきを、『慈涙』のお方」
そうして、『白銀』の縁者に準ずる立場から先んじて挨拶をするレティシアに、その人達は年長者としての立場と目下の者としての立場、どちらをも綺麗に内包した言葉を、優しげに紡いだ。――嗚呼、この方々が、と瞬く。
マスダル父娘の名を、レティシアはすでに知っていた。もちろん、このお茶会でレティシアを紹介すると義祖母に言われてから参加者リストの方々の詳細情報まで必死に覚えたからでもあるが――それだけではなく。
数日前、ふいに実家から届けられた書状にも、マスダル父娘の名はあった。なんでもイグナシオ卿はレティシアの父と浅からぬ縁のある方で、たまたまレティシアの話題が出た折にぜひ1度話をしてみたいとの申し出があったのだとか。
一体それがどういう縁なのか、なぜイグナシオ卿がレティシアに興味を持つことになったのか、それらの委細はまったくもって不明ではあったのだが。元々グラシエラ夫人――レティシアの実父と同世代であろうか――は『白銀』家のお茶会に招待をされており、その付添としてイグナシオ卿も伺うそうなので、ついでにどこかで時間を取って話をしてみてはどうか――と。
そんな書状を受け取ってしまったからには、レティシアもそれに異を唱える訳にはいかなかった。何より、このことはお茶会を主宰する義祖母も承知していると言われれば、レティシアに返せる答えは「畏まりました」のみである。
おかげでレティシアはこのお茶会を、ただでさえ緊張の多い中、余計な心配まで抱え込んで迎える事になったのだが、いざ当の2人を見ればそれらの心配がどうやら杞憂に終わりそうだ、と安堵する。どうしてイグナシオ卿がレティシアと話をしてみたいと思ったのか、それはやっぱり少しも判らないが――少なくとも2人の菫色の瞳に浮かぶのは、貴族的な笑みとはどことなく違った、柔らかな物にも思えたから。
無言のうちに『後ほど』と会釈をし合い、マスダル父娘は他の参加者との挨拶回りに向かい。レティシアもまた挨拶に回る義祖母の傍らで、招待客へのご挨拶を続ける。
それは、レティシアにとってはいつまで続くともしれぬ永遠の時間であったが、元よりごく個人的なお茶会であれば招待客も、その同伴者まで含めても実はさほどに多くはない。さらに言えば、義祖母が挨拶に回る以上に、あちらから挨拶にやって来る者も多く――程なくしてレティシアは、義祖母と共にお茶を頂く事が出来た。
もっとも、日頃の義祖母とのお茶会よりもなお緊張感の漂うこの場にあって、ただお茶の味を楽しむ、などという事が許されるはずもない。お茶会とは、ごく私的な物であろうとも政治の一環でもあるのだ。
「奥様、ご存知? ――家の……」
「まぁ、それでは――様も……」
貴婦人達の噂話は、どうかすればそのままリーンエス王国の政治の縮図となり得る。例え当主は夫でも、その耳に入れる噂を集め、選ぶのは夫人達の役割の1つでもある。
下手をすれば家と家の間柄すら、お茶会での振る舞い1つで決まってしまいかねない。そんな場にあって生真面目なレティシアが、義祖母の、婚約者の、双方の家の――と幾つもの物を背負った身で、緊張しない訳もなく。
――だから。少し席を外すと断った義祖母が姿を消した、その刹那。
「レティシア様。わたくし、気になっておりましたの。背の君様とは、どのようなご縁で……?」
(――来ましたか)
美しい顔に人好きのする笑みを浮かべた貴婦人が、さり気なく空いた席に腰掛けながらそう尋ねて来た時、レティシアは微笑みながらも内心でそう覚悟した。きっと探りを入れられるだろう、そう思っていたのだ。
いと高き『白銀』、と先ほどもグラシエラ夫人が口にしていた通り、『白銀』は『白薔薇』にも連なる由緒正しき家系である。例えレティシアの婚約者に非常に複雑な事情があるとはいえ、結果だけを見ればその一員に迎えられるに至ったその事情を、知りたいと思うのは政治的に当然の判断であろう。
そう、レティシアは1度瞳を閉じ。覚悟を決めて瞳を開き、口を開こうとした――刹那。
「きっと、素敵な出会いでいらしたのでしょう?」
「レティシア様は授恵者でいらっしゃると伺いましたわ。彼の君も名高きお方――ですから、ねえ?」
「ええ、きっとわたくし達には想像もつかない、絵物語のような縁がおありに違いございません」
――貴婦人達のキラキラとした瞳に、何かレティシアは重大な聞き違いをしているのではないだろうか、と目を瞬かせた。その様子がまた初々しいと、貴婦人達が扇をそよがせながらさざめき合う。
そう、お茶会とは貴婦人同士の交流の場であり、噂を交わす場であり、時にその噂が家と家との間柄を左右するほどの力を持つ場である。だが、それと同時に貴婦人たちの中には結局のところ、噂というものをこよなく愛する人もまた、少なくはなかった。
嗚呼、と義祖母のかつての言葉をレティシアは、今こそ完全に理解する。理解した、気がする。
(あまり構える必要もない、とは。こういう意味だったのですか、お義祖母様……?)
つまる所、どうやらレティシア達の婚約物語は、この場に集った義祖母の親しい貴婦人達に、文字通りの意味で純粋な好奇心を抱かれている――らしい。
●
1つ認識が変われば、見える世界が大きく変わる。周囲は自分を『白銀』に相応しいか見定めに来ているのだと、半ば思い込むように必死に緊張の糸を張り詰めていたレティシアは、周囲の貴婦人達の微笑みが、マスダル父娘のように貴族的な儀礼だけではない、微笑ましきものを見守るものであると気付いてしまった。
とはいえ、だから緊張しないのか、といえばそうではなく。
「その、私達の出会い、でございますか――皆様が仰いますように、冒険者としての守秘義務もございますから詳細はお許し頂きたいのですが」
「勿論ですわ」
だがその緊張の中に、先ほどまでとは違うものも含まれているのを感じながら言ったレティシアに、貴婦人達は鷹揚に頷く。貴族家であっても冒険者に依頼を出す事はあるし、その際に雇った冒険者が依頼内容を吹聴して回るようなら問題だ。
だから当然の事だと理解を示す、貴婦人達にほっとレティシアは息を吐き。その時の事を脳裏に蘇らせながら、大切に言葉を紡いだ。
「皆様のご明察の通り、冒険者としての依頼でお会い致しました。その最中、互いの命を救う機会がございまして――そこから気に掛ける内に、いつの間にか惹かれ合ってしまったのです」
「まぁ……」
その言葉に、貴婦人達が扇で口元を抑える。それは、元冒険者とはいえ貴族令嬢であるレティシアが命の危機に晒される、という事への驚きもあったが――何より、その言葉を紡ぐレティシアの微笑ましくも初々しい表情に、愛らしくていらっしゃる事、という意味合いが強かった。
勿論、貴婦人たるもの大っぴらににこにこするのは、少々はしたない。ゆえに貴婦人達が見せた実際の反応は、ほんの少しだけ口元を綻ばせたり、目元を穏やかに緩ませたり――という程度の物であったが。
表情よりも雄弁に、瞳に浮かんだ色合いが柔らかい。それに、微笑ましい、と思われている事が何よりよく判ってレティシアは、内心で気恥ずかしさと焦りを覚えた。
無意識に視線を巡らせたが、義祖母はまだ戻らない。そうして、そんなレティシアを貴婦人達の方は、少しも逃がす素振りがない。
レティシア様、と別の貴婦人から問われて振り返れば、まるで見守られているかのような瞳が幾つもあって、困惑した。
「彼の君はレティシア様からご覧になって、どのような方でいらっしゃいますの?」
「ええと……あの方は、とても真面目で、お優しい方でございます。ですが――不器用な所もございますから、放っておけないと申しますか」
「まぁまぁ、彼の君はそのようなお顔をお見せに?」
「では、レティシア様もご心配が絶えませんわね」
「はい。ですから、だからこそお互いに護り、支え合える夫婦になりたいと思っております」
面白がられている。よく判らないが、貴婦人達に確実に面白がられている事だけは解る。
ゆえにレティシアは内心、次は何を聞かれるのでしょう……! とオロオロしながら、どうにか貴婦人達に卒のない返答をするべく奮闘する。依頼的な交渉術や話術であればいっぱしの政治家にも引けを取らぬであろうレティシアは、婚約者との関係を揶揄われる若人という立場にあってはひたすらに無力であり。
婚約時代の酸いも甘いもとっくの昔に通り過ぎてきた年代の者が多い貴婦人達にとっては、そんなレティシアの姿はただただ微笑ましく、初々しく、言葉を飾らずに言えば『格好のネタ』であった。こんな素晴らしい姫君を娶る彼の君はお幸せですわね、と微笑みながら「うちの夫なんて」と幸せな不満を零すのは、庶民も貴族も変わらない。
そんな貴婦人達の話題を、時折揶揄われるたびに頬を染めながら聞いてたレティシアは――はた、と気付いた。ここに集う貴婦人達は、いずれもが既婚者であり、つまりは大先輩だ。
ならば――
「あの、皆様。よろしければ、お知恵をお借りしとうございます」
「まあ、なんでしょう。お役に立てますかしら」
おず、とレティシアがそれを切り出した時、貴婦人達はおっとりと微笑みながらも瞳は好奇に輝いていた。それに、付け入られる隙になってはいけないという最後の理性は保ちつつも、レティシアは「実は」と切り出す。
「婚約者なのですが、とても真面目でいらっしゃいますせいで、騎士時代に九十連勤で体調を崩してしまわれた事がございまして」
「――まぁ」
思ってたのと違った。そんな声が聞こえてきそうな貴婦人達の、微妙な声のトーンに気付かずレティシアは、深刻に悩みを続けた。
「結婚してからも同じ事をしてしまうのではないか――と心配しているのでございます。そうならぬよう支えるのが妻の務め、とも思いますが、どうしたものか――」
「それは」
「ええ、ご心配は解りましてよ」
「殿方ときたら本当に、ねぇ」
さすがにそこまでじゃないけど、という表情にはなりつつも、多少なりと思う所があるのか貴婦人達がうんうん顔を見合わせる。そうして扇をそよがせながら、愛らしい新妻にどのようなアドバイスをすべきかを相談し。
そうですわね、と1人が言った。
「レティシア様がおねだりをなさるのが宜しいのではなくて?」
「おねだり」
「ええ。今日は一緒に過ごして欲しいとか、遠出について来て欲しいとかも宜しいですわね」
「一緒に」
「うふふ。我が家にご夫婦でお招きしますわ。そうしましたら彼の君も、仕事なぞにかまけてはおられませんでしょう?」
「まあ、我が家にもお越し下さいませ。良き保養地がございますのよ」
「それでしたら――の領地には……」
――いつしかレティシアへの助言は、レティシア達の招待合戦へと変わっていたが。つまるところ、出来るだけ物理で仕事から引き離すべく、愛らしくおねだりをするのが良かろう――という事らしい。
そう、愛らしく。――愛らしく?
その場面を、具体的に想像してレティシアはポンッ! と音がしそうなほど頬を赤く染め。まあ可愛らしい事、と再び貴婦人達に微笑ましく見守られたのだった。
●
面会は、お茶会の会場とは別に用意された、『白銀』別邸の1室で行われた。
「ご婦人方のように弁の立つ方ではございませぬゆえ、無礼はご容赦ください」
「とんでもございません」
イグナシオ卿の言葉に、レティシアは優雅に微笑みつつ内心、肩身が狭い。卿の言葉がお茶会での、貴婦人達との歓談を指している事は明らかで――冷静になって思い起こすと、少々気恥ずかしい会話であったと思う。
そんなレティシアをイグナシオ卿は、静かに見つめた。――姉上、と心の中だけで呟く。
――イグナシオは実は、レティシアの大叔父に当たる。恐らくレティシア自身は知らず、彼女の父とも内密にすると約束しているので、口にする事はないが。
(面影がある)
今は亡きイグナシオの姉は、かつて書き置きを残して帝国貴族の男と駆け落ちした。だが、悲しい事にそれは不幸の始まりだった――その男にはすでに妻子が在ったが、最早逃げ出す事も出来なかった姉は娘・レフィリアとの無理心中を図るほどに追い詰められ、そんな自身に失望して心が壊れて亡くなったのだという。
それを、イグナシオが知ったのは愚かにも、レフィリアの恋人だった男に聞かされての事。ならば、と瓜二つの容姿はもちろんの事、遺品からも姉の娘に相違なかったレフィリアを養子として迎え、男との婚姻を認める予定だったのだが。
運命はまたしても、敬愛なる姉の系譜を苦しめた。男は彼の亡き伯父の死を購うべく、身重であった伯父の婚約者との婚姻を迫られ――それを知ったレフィリアは彼の将来のためにと身を引くも、自身もレティシアを出産した後に卑劣な脅しを受けて帝国貴族の愛妾となった末、後に再会した男にすべてを知られたことに絶望して自害した、という。
――グッ、と拳を握る。イグナシオの大切な者は、誰も彼もが帝国に嬲られ、奪われた。その憎しみを、イグナシオは決して忘れてはいない。
だが――
「レティシア様。婚姻は人生において、大きな選択です――貴女の幸福は、彼の君と結ばれる事にありましょうか」
それはレティシア達の想いを、引いては『白銀』をも愚弄していると言われかねない、非常に危険な問いかけであった。ゆえにレティシアは驚き――だが、イグナシオ卿の凪いだ瞳の奥にある覚悟に、ぎゅっと小さく手を握る。
どうしてだか判らないけれども、卿はレティシアの応え次第では『白銀』に弓を引くのも辞さぬ、そんな予感がした。――嗚呼、けれどもそれはまったくの杞憂なのだ。
そう、ふわりと笑んだレティシアに、イグナシオは確かに亡き姉の、姪の面影を見た。
「私は。ずっと傍に居たいと望む、大切にして――誰よりも愛してくれる相手と共に生きられるのなら。必ず、一緒に幸福になれると信じております」
――嗚呼、とイグナシオは震える吐息を零す。非業の死を遂げた姉を――悍ましくも実の父に母の身代わりにされかけたというレフィリアを、想った。
この手から零れ落ち、非業の死を遂げさせてしまった大切な人々。だが――その末たるレティシアは確かな幸せを掴んだのだと、ようやく納得出来た。
ゆえにイグナシオは立ち上がり、丁寧に非礼を詫びる。
「お許し下さい、レティシア様。年老いると、余計な事が気に病まれてしまうものなのです」
「とんでもございません。お心遣い、心より感謝申し上げます」
そうして深々と頭を下げた、イグナシオにレティシアも慌てて立ち上がり、気にしてはいないと首を振った。これが公の場であれば非礼を糾弾しない訳にはいかないが、ここには他に誰も居ないのだから。
そんなレティシアにもう1度、深々とイグナシオは頭を下げた。――長らく胸の奥に重く凝っていた憎しみが、ゆっくりと薄れていくのを感じながら。
「ようこそお越し下さいました」
「お招きに預かりまして光栄ですわ」
やがてレティシアが『レティシア・R・クラティアス』となるにあたって、今日の参加者が非常に重要であることは、想像に難くなかった。そうして、貴族社会では相手の好意的な笑顔を、その通りに受け取る事は愚かであるとレティシアは知っている。
ゆえに、
(お義祖母様から主催としての心得を、しっかりと学ばねばなりません)
そう、嫋やかな微笑みの下にレティシアは悲壮な緊張感を漂わせ、今日までに幾度も練習した挨拶を、髪一筋の間違いも侵さぬよう細心の注意を払って口にする。自身が何か1つでも失敗すれば、それは義祖母の瑕疵となり、ひいては主催する家の瑕疵にもなるのだから。
ゆえに、もう何度同じ言葉同じお辞儀を繰り返したのかも判らぬまま、とにかく義祖母の傍に侍り、来客にひたすら失礼のないよう頭を下げ、義祖母に紹介をされれば控えめに名乗りを上げる――そんな事を繰り返していた中で。
(――あ)
ふと、張り詰めた糸が一瞬緩んだのは、同じだと思ったから。銀糸の如き髪の下に咲く、菫の如く可憐な――レティシアの実母・レフィリアの瞳と同じ。
何という奇遇であろうかと、緩んだ糸はだが義祖母が挨拶をするのを聞けばすぐに張り詰めた。伏せた瞳は慎ましやかに、義祖母の挨拶に合わせて身に染みた、だがそれより何より決してミスをするまいと伸ばした背筋に力を込めた、完璧なお辞儀を。
義祖母が、いずれ孫嫁になるのだとレティシアを紹介する。それに合わせて伏せていた顔と瞳を礼儀正しく上げ、こちらに向けられた二対の菫色の瞳を受け止めて。
完璧に、清楚に、慎ましやかに、微笑む。
「『慈涙』家が娘・レティシアでございます。どうぞお見知りおき下さいませ」
「グラシエラ・マスダルですわ。いと高き『白銀』のおばあ様がお目にかけておられる姫君にお目通りが叶って光栄でしてよ」
「イグナシオ・マスダルと申します。どうぞお見知りおきを、『慈涙』のお方」
そうして、『白銀』の縁者に準ずる立場から先んじて挨拶をするレティシアに、その人達は年長者としての立場と目下の者としての立場、どちらをも綺麗に内包した言葉を、優しげに紡いだ。――嗚呼、この方々が、と瞬く。
マスダル父娘の名を、レティシアはすでに知っていた。もちろん、このお茶会でレティシアを紹介すると義祖母に言われてから参加者リストの方々の詳細情報まで必死に覚えたからでもあるが――それだけではなく。
数日前、ふいに実家から届けられた書状にも、マスダル父娘の名はあった。なんでもイグナシオ卿はレティシアの父と浅からぬ縁のある方で、たまたまレティシアの話題が出た折にぜひ1度話をしてみたいとの申し出があったのだとか。
一体それがどういう縁なのか、なぜイグナシオ卿がレティシアに興味を持つことになったのか、それらの委細はまったくもって不明ではあったのだが。元々グラシエラ夫人――レティシアの実父と同世代であろうか――は『白銀』家のお茶会に招待をされており、その付添としてイグナシオ卿も伺うそうなので、ついでにどこかで時間を取って話をしてみてはどうか――と。
そんな書状を受け取ってしまったからには、レティシアもそれに異を唱える訳にはいかなかった。何より、このことはお茶会を主宰する義祖母も承知していると言われれば、レティシアに返せる答えは「畏まりました」のみである。
おかげでレティシアはこのお茶会を、ただでさえ緊張の多い中、余計な心配まで抱え込んで迎える事になったのだが、いざ当の2人を見ればそれらの心配がどうやら杞憂に終わりそうだ、と安堵する。どうしてイグナシオ卿がレティシアと話をしてみたいと思ったのか、それはやっぱり少しも判らないが――少なくとも2人の菫色の瞳に浮かぶのは、貴族的な笑みとはどことなく違った、柔らかな物にも思えたから。
無言のうちに『後ほど』と会釈をし合い、マスダル父娘は他の参加者との挨拶回りに向かい。レティシアもまた挨拶に回る義祖母の傍らで、招待客へのご挨拶を続ける。
それは、レティシアにとってはいつまで続くともしれぬ永遠の時間であったが、元よりごく個人的なお茶会であれば招待客も、その同伴者まで含めても実はさほどに多くはない。さらに言えば、義祖母が挨拶に回る以上に、あちらから挨拶にやって来る者も多く――程なくしてレティシアは、義祖母と共にお茶を頂く事が出来た。
もっとも、日頃の義祖母とのお茶会よりもなお緊張感の漂うこの場にあって、ただお茶の味を楽しむ、などという事が許されるはずもない。お茶会とは、ごく私的な物であろうとも政治の一環でもあるのだ。
「奥様、ご存知? ――家の……」
「まぁ、それでは――様も……」
貴婦人達の噂話は、どうかすればそのままリーンエス王国の政治の縮図となり得る。例え当主は夫でも、その耳に入れる噂を集め、選ぶのは夫人達の役割の1つでもある。
下手をすれば家と家の間柄すら、お茶会での振る舞い1つで決まってしまいかねない。そんな場にあって生真面目なレティシアが、義祖母の、婚約者の、双方の家の――と幾つもの物を背負った身で、緊張しない訳もなく。
――だから。少し席を外すと断った義祖母が姿を消した、その刹那。
「レティシア様。わたくし、気になっておりましたの。背の君様とは、どのようなご縁で……?」
(――来ましたか)
美しい顔に人好きのする笑みを浮かべた貴婦人が、さり気なく空いた席に腰掛けながらそう尋ねて来た時、レティシアは微笑みながらも内心でそう覚悟した。きっと探りを入れられるだろう、そう思っていたのだ。
いと高き『白銀』、と先ほどもグラシエラ夫人が口にしていた通り、『白銀』は『白薔薇』にも連なる由緒正しき家系である。例えレティシアの婚約者に非常に複雑な事情があるとはいえ、結果だけを見ればその一員に迎えられるに至ったその事情を、知りたいと思うのは政治的に当然の判断であろう。
そう、レティシアは1度瞳を閉じ。覚悟を決めて瞳を開き、口を開こうとした――刹那。
「きっと、素敵な出会いでいらしたのでしょう?」
「レティシア様は授恵者でいらっしゃると伺いましたわ。彼の君も名高きお方――ですから、ねえ?」
「ええ、きっとわたくし達には想像もつかない、絵物語のような縁がおありに違いございません」
――貴婦人達のキラキラとした瞳に、何かレティシアは重大な聞き違いをしているのではないだろうか、と目を瞬かせた。その様子がまた初々しいと、貴婦人達が扇をそよがせながらさざめき合う。
そう、お茶会とは貴婦人同士の交流の場であり、噂を交わす場であり、時にその噂が家と家との間柄を左右するほどの力を持つ場である。だが、それと同時に貴婦人たちの中には結局のところ、噂というものをこよなく愛する人もまた、少なくはなかった。
嗚呼、と義祖母のかつての言葉をレティシアは、今こそ完全に理解する。理解した、気がする。
(あまり構える必要もない、とは。こういう意味だったのですか、お義祖母様……?)
つまる所、どうやらレティシア達の婚約物語は、この場に集った義祖母の親しい貴婦人達に、文字通りの意味で純粋な好奇心を抱かれている――らしい。
●
1つ認識が変われば、見える世界が大きく変わる。周囲は自分を『白銀』に相応しいか見定めに来ているのだと、半ば思い込むように必死に緊張の糸を張り詰めていたレティシアは、周囲の貴婦人達の微笑みが、マスダル父娘のように貴族的な儀礼だけではない、微笑ましきものを見守るものであると気付いてしまった。
とはいえ、だから緊張しないのか、といえばそうではなく。
「その、私達の出会い、でございますか――皆様が仰いますように、冒険者としての守秘義務もございますから詳細はお許し頂きたいのですが」
「勿論ですわ」
だがその緊張の中に、先ほどまでとは違うものも含まれているのを感じながら言ったレティシアに、貴婦人達は鷹揚に頷く。貴族家であっても冒険者に依頼を出す事はあるし、その際に雇った冒険者が依頼内容を吹聴して回るようなら問題だ。
だから当然の事だと理解を示す、貴婦人達にほっとレティシアは息を吐き。その時の事を脳裏に蘇らせながら、大切に言葉を紡いだ。
「皆様のご明察の通り、冒険者としての依頼でお会い致しました。その最中、互いの命を救う機会がございまして――そこから気に掛ける内に、いつの間にか惹かれ合ってしまったのです」
「まぁ……」
その言葉に、貴婦人達が扇で口元を抑える。それは、元冒険者とはいえ貴族令嬢であるレティシアが命の危機に晒される、という事への驚きもあったが――何より、その言葉を紡ぐレティシアの微笑ましくも初々しい表情に、愛らしくていらっしゃる事、という意味合いが強かった。
勿論、貴婦人たるもの大っぴらににこにこするのは、少々はしたない。ゆえに貴婦人達が見せた実際の反応は、ほんの少しだけ口元を綻ばせたり、目元を穏やかに緩ませたり――という程度の物であったが。
表情よりも雄弁に、瞳に浮かんだ色合いが柔らかい。それに、微笑ましい、と思われている事が何よりよく判ってレティシアは、内心で気恥ずかしさと焦りを覚えた。
無意識に視線を巡らせたが、義祖母はまだ戻らない。そうして、そんなレティシアを貴婦人達の方は、少しも逃がす素振りがない。
レティシア様、と別の貴婦人から問われて振り返れば、まるで見守られているかのような瞳が幾つもあって、困惑した。
「彼の君はレティシア様からご覧になって、どのような方でいらっしゃいますの?」
「ええと……あの方は、とても真面目で、お優しい方でございます。ですが――不器用な所もございますから、放っておけないと申しますか」
「まぁまぁ、彼の君はそのようなお顔をお見せに?」
「では、レティシア様もご心配が絶えませんわね」
「はい。ですから、だからこそお互いに護り、支え合える夫婦になりたいと思っております」
面白がられている。よく判らないが、貴婦人達に確実に面白がられている事だけは解る。
ゆえにレティシアは内心、次は何を聞かれるのでしょう……! とオロオロしながら、どうにか貴婦人達に卒のない返答をするべく奮闘する。依頼的な交渉術や話術であればいっぱしの政治家にも引けを取らぬであろうレティシアは、婚約者との関係を揶揄われる若人という立場にあってはひたすらに無力であり。
婚約時代の酸いも甘いもとっくの昔に通り過ぎてきた年代の者が多い貴婦人達にとっては、そんなレティシアの姿はただただ微笑ましく、初々しく、言葉を飾らずに言えば『格好のネタ』であった。こんな素晴らしい姫君を娶る彼の君はお幸せですわね、と微笑みながら「うちの夫なんて」と幸せな不満を零すのは、庶民も貴族も変わらない。
そんな貴婦人達の話題を、時折揶揄われるたびに頬を染めながら聞いてたレティシアは――はた、と気付いた。ここに集う貴婦人達は、いずれもが既婚者であり、つまりは大先輩だ。
ならば――
「あの、皆様。よろしければ、お知恵をお借りしとうございます」
「まあ、なんでしょう。お役に立てますかしら」
おず、とレティシアがそれを切り出した時、貴婦人達はおっとりと微笑みながらも瞳は好奇に輝いていた。それに、付け入られる隙になってはいけないという最後の理性は保ちつつも、レティシアは「実は」と切り出す。
「婚約者なのですが、とても真面目でいらっしゃいますせいで、騎士時代に九十連勤で体調を崩してしまわれた事がございまして」
「――まぁ」
思ってたのと違った。そんな声が聞こえてきそうな貴婦人達の、微妙な声のトーンに気付かずレティシアは、深刻に悩みを続けた。
「結婚してからも同じ事をしてしまうのではないか――と心配しているのでございます。そうならぬよう支えるのが妻の務め、とも思いますが、どうしたものか――」
「それは」
「ええ、ご心配は解りましてよ」
「殿方ときたら本当に、ねぇ」
さすがにそこまでじゃないけど、という表情にはなりつつも、多少なりと思う所があるのか貴婦人達がうんうん顔を見合わせる。そうして扇をそよがせながら、愛らしい新妻にどのようなアドバイスをすべきかを相談し。
そうですわね、と1人が言った。
「レティシア様がおねだりをなさるのが宜しいのではなくて?」
「おねだり」
「ええ。今日は一緒に過ごして欲しいとか、遠出について来て欲しいとかも宜しいですわね」
「一緒に」
「うふふ。我が家にご夫婦でお招きしますわ。そうしましたら彼の君も、仕事なぞにかまけてはおられませんでしょう?」
「まあ、我が家にもお越し下さいませ。良き保養地がございますのよ」
「それでしたら――の領地には……」
――いつしかレティシアへの助言は、レティシア達の招待合戦へと変わっていたが。つまるところ、出来るだけ物理で仕事から引き離すべく、愛らしくおねだりをするのが良かろう――という事らしい。
そう、愛らしく。――愛らしく?
その場面を、具体的に想像してレティシアはポンッ! と音がしそうなほど頬を赤く染め。まあ可愛らしい事、と再び貴婦人達に微笑ましく見守られたのだった。
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面会は、お茶会の会場とは別に用意された、『白銀』別邸の1室で行われた。
「ご婦人方のように弁の立つ方ではございませぬゆえ、無礼はご容赦ください」
「とんでもございません」
イグナシオ卿の言葉に、レティシアは優雅に微笑みつつ内心、肩身が狭い。卿の言葉がお茶会での、貴婦人達との歓談を指している事は明らかで――冷静になって思い起こすと、少々気恥ずかしい会話であったと思う。
そんなレティシアをイグナシオ卿は、静かに見つめた。――姉上、と心の中だけで呟く。
――イグナシオは実は、レティシアの大叔父に当たる。恐らくレティシア自身は知らず、彼女の父とも内密にすると約束しているので、口にする事はないが。
(面影がある)
今は亡きイグナシオの姉は、かつて書き置きを残して帝国貴族の男と駆け落ちした。だが、悲しい事にそれは不幸の始まりだった――その男にはすでに妻子が在ったが、最早逃げ出す事も出来なかった姉は娘・レフィリアとの無理心中を図るほどに追い詰められ、そんな自身に失望して心が壊れて亡くなったのだという。
それを、イグナシオが知ったのは愚かにも、レフィリアの恋人だった男に聞かされての事。ならば、と瓜二つの容姿はもちろんの事、遺品からも姉の娘に相違なかったレフィリアを養子として迎え、男との婚姻を認める予定だったのだが。
運命はまたしても、敬愛なる姉の系譜を苦しめた。男は彼の亡き伯父の死を購うべく、身重であった伯父の婚約者との婚姻を迫られ――それを知ったレフィリアは彼の将来のためにと身を引くも、自身もレティシアを出産した後に卑劣な脅しを受けて帝国貴族の愛妾となった末、後に再会した男にすべてを知られたことに絶望して自害した、という。
――グッ、と拳を握る。イグナシオの大切な者は、誰も彼もが帝国に嬲られ、奪われた。その憎しみを、イグナシオは決して忘れてはいない。
だが――
「レティシア様。婚姻は人生において、大きな選択です――貴女の幸福は、彼の君と結ばれる事にありましょうか」
それはレティシア達の想いを、引いては『白銀』をも愚弄していると言われかねない、非常に危険な問いかけであった。ゆえにレティシアは驚き――だが、イグナシオ卿の凪いだ瞳の奥にある覚悟に、ぎゅっと小さく手を握る。
どうしてだか判らないけれども、卿はレティシアの応え次第では『白銀』に弓を引くのも辞さぬ、そんな予感がした。――嗚呼、けれどもそれはまったくの杞憂なのだ。
そう、ふわりと笑んだレティシアに、イグナシオは確かに亡き姉の、姪の面影を見た。
「私は。ずっと傍に居たいと望む、大切にして――誰よりも愛してくれる相手と共に生きられるのなら。必ず、一緒に幸福になれると信じております」
――嗚呼、とイグナシオは震える吐息を零す。非業の死を遂げた姉を――悍ましくも実の父に母の身代わりにされかけたというレフィリアを、想った。
この手から零れ落ち、非業の死を遂げさせてしまった大切な人々。だが――その末たるレティシアは確かな幸せを掴んだのだと、ようやく納得出来た。
ゆえにイグナシオは立ち上がり、丁寧に非礼を詫びる。
「お許し下さい、レティシア様。年老いると、余計な事が気に病まれてしまうものなのです」
「とんでもございません。お心遣い、心より感謝申し上げます」
そうして深々と頭を下げた、イグナシオにレティシアも慌てて立ち上がり、気にしてはいないと首を振った。これが公の場であれば非礼を糾弾しない訳にはいかないが、ここには他に誰も居ないのだから。
そんなレティシアにもう1度、深々とイグナシオは頭を下げた。――長らく胸の奥に重く凝っていた憎しみが、ゆっくりと薄れていくのを感じながら。