最後の贈り物
キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2025年01月22日 12時02分58秒
一体どれだけの昼と夜が過ぎ去ったのか、暗殺者ブラッドには分からなかった。
快楽の痛みとは、違う痛みが身体に走る。ただ壊し苛むことを目的としているのだ、とブラッドは思う。拷問にしては妙ではあるが――しかし、それを問う意味など己の中に見つけられなかったため、問いは放たれることはない。そもそも、口枷が邪魔で声を発することなどできないのだ。
ブラッド付きの拷問官は表情の分かりにくい、男とも女とも分からぬ人物である。毎日違う拷問を編み出す様は、悪趣味な芸術家の才能を思わせる。白い長衣は汚れを知らない。部下達がブラッドを傷つけ、苛み、心を折ろうとしている様を、ただ冷徹に見ている。時折、手元の紙に何かを書き付け――そして幾つかの指示を部下に出し、また観察に戻る。
その様子は魔術師や研究者の冷たさを思わせた。拷問官にありがちな嗜虐的な表情はどこにもなく、ただ、淡々と成すべきことをなしている――そんな具合であった。
魔術のせいか、それとも投与された薬物のせいだろうか。ブラッドの五感は激しく入れ替わる。目から入る光の刺激は苦く、断続的に与えられる刺激は耳をつんざく悲鳴となった。あってはならぬ感覚の『入れ替え』にブラッドの正気は削れていく。
何度も鞭打たれる肉体は、軋むような痛みに悲鳴をあげるはずなのに――それは妙なる芳香となってブラッドの脳を溶かす。かと思えば、時折かけられる水は肌を焼くような高熱に感じられる。ここしばらく、ブラッドの拷問はこの調子であった。普通の拷問は彼に効果がないと思われたのか、それとも、何らかの深い意味があるのか。
――ブラッドは、そのようなことには興味が湧かなかった。捕らえられた罪人が拷問を受けているのに、その理由を問う必要があるだろうか? ブラッドは暗殺者であり、シルトラース帝国でも『仕事』を幾つも受けていた。人殺しは重罪であり、その罪を重ねてきたブラッドは、罪の償いをその身体で受けなければならない。
それが私刑か公的なものかは、ブラッドにはどうでも良かった。ブラッドは破滅を心の底で求めていた。バラバラに砕ける己の姿を逢瀬の中に見て、寝台で鞭打たれ、刺され、傷つけられてきた。ブラッドは傷を求めていた。それが叶ったのだ。何の問題があろうか――。
風切る鞭の音が悪臭を伴う熱となって身を焦がす。滅茶苦茶にされた五感の悲鳴を、ブラッドはどこか他人事のように感じていた。
そもそもブラッドがこの得体の知れぬ施設で拷問――おそらく拷問だろう――を受け続けている理由すら、曖昧であった。罪状を告げられぬまま、そして何を吐けとも言われぬまま、様々な種類の責め苦を受け続けているのだ。
最後の記憶は激しく崩れ落ちる帝都シルトラース。黒い霧。『あってはならぬもの』の身の毛もよだつ気配――。生き延びたと思ったが、次に目覚めたときはこの清潔な、不気味な部屋であった。誰がブラッドを捕まえたのか、何故捕まえたのか――答えは分からぬまま――。
五感の入れ替えはふいに終わる。気づけば、ブラッドは奇妙な小動物と毒虫の群れに襲われていた。遠巻きに見ている拷問官の表情は分かりにくい。毒虫の鱗粉が肌を焼き、ただれたそこを小動物の鋭い牙が肉ごと抉っていく。
ブラッドは悲鳴をあげなかった。他の部屋から悲鳴が聞こえることから、同じような刑を受けている人物が複数いることが分かる。隣の部屋から聞こえていた老女の悲鳴は、若い男のものに入れ替わったばかりだ。
ふいに、ブラッドの心に疑問が浮かぶ。小さな泡のような疑惑は、日に日に大きくなり、数を増す。
(罪人として捕縛され、罪の報いを受けている――にしては、何も聞かれない――)
奇妙なのは、それだけではない。
――拷問とは何かを引き出すための手段なのに、まるで――。
痛みを与えることで、どこまで肉体が持つかをためしているかのようであった。ブラッドは、まるで研究者の元にいる小鼠になったような気持ちであった。理由の分からぬ違和感は、更に大きくなる。
転機が訪れたのは、同室に子ども達が連れ込まれたときであった。ブラッドの目の前で、幼い子ども達は皮を剥がれ、あってはならぬ器官――おそらく獣や怪物のものであろう――を縫い付けられ、そして命を落としていく。子ども達は次々に補填され、様々に傷つけられていく。これも、拷問の一部だろうか? 動かなくなった子ども達に、微かに失望の表情をうかべる拷問官は、この世に存在するとは思えぬ残虐の化身であった。
子ども達は、すがるような目でブラッドを見る。戦う術を持たぬ少年少女は、無慈悲に焼かれ、へし折られ、刻まれていく。何故、とブラッドを見る様は、問いににていた。
「何故、あなたは助けてくれないのですか」
と――。
ブラッドは罪人である。人を殺した報いを受けるのは世の理。しかし、子ども達は何の罪もないように思われた。白髪の少女が首を折られる様を見た。黒髪の少年が幻覚の中のたうち回り、死ぬのを見た。それを拷問官は――果たしてその人物が『拷問官』という枠組に相応しいのか、今のブラッドには分からなかったのだが――淡々と記録し、新たな犠牲者を求めて、檻の扉を開ける。あってはならないことだ――それとも、これは何かの実験か――?
実験なのだろう。かすれた目で見えた拷問官の紙束には、レポート、という文字があった。ホムンクルス、の意味は分からなかったが――ろくでもないことをあらわしているだろうと、察せられた。
うめき声が、気づけば口から漏れていた。身を突き動かすような激情は、ブラッドの枯れていた心に火を付けた。ただ朽ちるに任せていた感情が燃え上がり、ブラッドは拷問官の背へと殺意のこもった視線を向ける。
(いずれ、アンタを殺してやるぞ)
絶え間なく襲う苦痛が、ブラッドをの意志を鍛えていく。一人でも多く、目の前の子ども達を救わなければならない。授恵者ではないにしろ、戦う術を知っている。目の前の拷問官――あるいは研究者を殺すことなど、この身が解放されれば容易く思われた。
(隙を、隙を見つけろ)
子ども達の救出と、拷問官の殺害。その怒りだけが、今のブラッドを支えていた。空っぽの盃に、心という火酒が注がれていく。それは天からの贈り物であったのだろうか。
それとも。
それは燃え上がり、こぼれ――。
そしてある瞬間、ブラッドの心は砕ける。心は、一定の負荷に耐え得きれなかったのだ。子ども達を救うという叶わぬ望みが、目の前で繰り返される残虐行為に破壊されていく。幾人もの子ども達が命を落とし、ブラッドもまた、命を落とす。
拷問官は、その様子を満足そうに見えていた。拷問官はブラッドの名を知らない。分類番号にチェックを付け、己が主の元へ運ぶ。
これは良い素体だ、と呟く声は、もうブラッドには分からない。皮肉にも、虚無によって生かされていた暗殺者は、ふいに芽生えた善心に殺されたのであった。
次に目覚めたとき、彼に名はない。
レピド・クロサイトと名乗り、さまよう屍には、長い苦痛を思い出す手段はない。
今はまだ。
快楽の痛みとは、違う痛みが身体に走る。ただ壊し苛むことを目的としているのだ、とブラッドは思う。拷問にしては妙ではあるが――しかし、それを問う意味など己の中に見つけられなかったため、問いは放たれることはない。そもそも、口枷が邪魔で声を発することなどできないのだ。
ブラッド付きの拷問官は表情の分かりにくい、男とも女とも分からぬ人物である。毎日違う拷問を編み出す様は、悪趣味な芸術家の才能を思わせる。白い長衣は汚れを知らない。部下達がブラッドを傷つけ、苛み、心を折ろうとしている様を、ただ冷徹に見ている。時折、手元の紙に何かを書き付け――そして幾つかの指示を部下に出し、また観察に戻る。
その様子は魔術師や研究者の冷たさを思わせた。拷問官にありがちな嗜虐的な表情はどこにもなく、ただ、淡々と成すべきことをなしている――そんな具合であった。
魔術のせいか、それとも投与された薬物のせいだろうか。ブラッドの五感は激しく入れ替わる。目から入る光の刺激は苦く、断続的に与えられる刺激は耳をつんざく悲鳴となった。あってはならぬ感覚の『入れ替え』にブラッドの正気は削れていく。
何度も鞭打たれる肉体は、軋むような痛みに悲鳴をあげるはずなのに――それは妙なる芳香となってブラッドの脳を溶かす。かと思えば、時折かけられる水は肌を焼くような高熱に感じられる。ここしばらく、ブラッドの拷問はこの調子であった。普通の拷問は彼に効果がないと思われたのか、それとも、何らかの深い意味があるのか。
――ブラッドは、そのようなことには興味が湧かなかった。捕らえられた罪人が拷問を受けているのに、その理由を問う必要があるだろうか? ブラッドは暗殺者であり、シルトラース帝国でも『仕事』を幾つも受けていた。人殺しは重罪であり、その罪を重ねてきたブラッドは、罪の償いをその身体で受けなければならない。
それが私刑か公的なものかは、ブラッドにはどうでも良かった。ブラッドは破滅を心の底で求めていた。バラバラに砕ける己の姿を逢瀬の中に見て、寝台で鞭打たれ、刺され、傷つけられてきた。ブラッドは傷を求めていた。それが叶ったのだ。何の問題があろうか――。
風切る鞭の音が悪臭を伴う熱となって身を焦がす。滅茶苦茶にされた五感の悲鳴を、ブラッドはどこか他人事のように感じていた。
そもそもブラッドがこの得体の知れぬ施設で拷問――おそらく拷問だろう――を受け続けている理由すら、曖昧であった。罪状を告げられぬまま、そして何を吐けとも言われぬまま、様々な種類の責め苦を受け続けているのだ。
最後の記憶は激しく崩れ落ちる帝都シルトラース。黒い霧。『あってはならぬもの』の身の毛もよだつ気配――。生き延びたと思ったが、次に目覚めたときはこの清潔な、不気味な部屋であった。誰がブラッドを捕まえたのか、何故捕まえたのか――答えは分からぬまま――。
五感の入れ替えはふいに終わる。気づけば、ブラッドは奇妙な小動物と毒虫の群れに襲われていた。遠巻きに見ている拷問官の表情は分かりにくい。毒虫の鱗粉が肌を焼き、ただれたそこを小動物の鋭い牙が肉ごと抉っていく。
ブラッドは悲鳴をあげなかった。他の部屋から悲鳴が聞こえることから、同じような刑を受けている人物が複数いることが分かる。隣の部屋から聞こえていた老女の悲鳴は、若い男のものに入れ替わったばかりだ。
ふいに、ブラッドの心に疑問が浮かぶ。小さな泡のような疑惑は、日に日に大きくなり、数を増す。
(罪人として捕縛され、罪の報いを受けている――にしては、何も聞かれない――)
奇妙なのは、それだけではない。
――拷問とは何かを引き出すための手段なのに、まるで――。
痛みを与えることで、どこまで肉体が持つかをためしているかのようであった。ブラッドは、まるで研究者の元にいる小鼠になったような気持ちであった。理由の分からぬ違和感は、更に大きくなる。
転機が訪れたのは、同室に子ども達が連れ込まれたときであった。ブラッドの目の前で、幼い子ども達は皮を剥がれ、あってはならぬ器官――おそらく獣や怪物のものであろう――を縫い付けられ、そして命を落としていく。子ども達は次々に補填され、様々に傷つけられていく。これも、拷問の一部だろうか? 動かなくなった子ども達に、微かに失望の表情をうかべる拷問官は、この世に存在するとは思えぬ残虐の化身であった。
子ども達は、すがるような目でブラッドを見る。戦う術を持たぬ少年少女は、無慈悲に焼かれ、へし折られ、刻まれていく。何故、とブラッドを見る様は、問いににていた。
「何故、あなたは助けてくれないのですか」
と――。
ブラッドは罪人である。人を殺した報いを受けるのは世の理。しかし、子ども達は何の罪もないように思われた。白髪の少女が首を折られる様を見た。黒髪の少年が幻覚の中のたうち回り、死ぬのを見た。それを拷問官は――果たしてその人物が『拷問官』という枠組に相応しいのか、今のブラッドには分からなかったのだが――淡々と記録し、新たな犠牲者を求めて、檻の扉を開ける。あってはならないことだ――それとも、これは何かの実験か――?
実験なのだろう。かすれた目で見えた拷問官の紙束には、レポート、という文字があった。ホムンクルス、の意味は分からなかったが――ろくでもないことをあらわしているだろうと、察せられた。
うめき声が、気づけば口から漏れていた。身を突き動かすような激情は、ブラッドの枯れていた心に火を付けた。ただ朽ちるに任せていた感情が燃え上がり、ブラッドは拷問官の背へと殺意のこもった視線を向ける。
(いずれ、アンタを殺してやるぞ)
絶え間なく襲う苦痛が、ブラッドをの意志を鍛えていく。一人でも多く、目の前の子ども達を救わなければならない。授恵者ではないにしろ、戦う術を知っている。目の前の拷問官――あるいは研究者を殺すことなど、この身が解放されれば容易く思われた。
(隙を、隙を見つけろ)
子ども達の救出と、拷問官の殺害。その怒りだけが、今のブラッドを支えていた。空っぽの盃に、心という火酒が注がれていく。それは天からの贈り物であったのだろうか。
それとも。
それは燃え上がり、こぼれ――。
そしてある瞬間、ブラッドの心は砕ける。心は、一定の負荷に耐え得きれなかったのだ。子ども達を救うという叶わぬ望みが、目の前で繰り返される残虐行為に破壊されていく。幾人もの子ども達が命を落とし、ブラッドもまた、命を落とす。
拷問官は、その様子を満足そうに見えていた。拷問官はブラッドの名を知らない。分類番号にチェックを付け、己が主の元へ運ぶ。
これは良い素体だ、と呟く声は、もうブラッドには分からない。皮肉にも、虚無によって生かされていた暗殺者は、ふいに芽生えた善心に殺されたのであった。
次に目覚めたとき、彼に名はない。
レピド・クロサイトと名乗り、さまよう屍には、長い苦痛を思い出す手段はない。
今はまだ。