さよなら、友達
キャラクターノベル制作 霧柄頼道納品 2021年01月27日 18時08分22秒
●
雲一つない、ある晴れた日の事。
フィルエス大森林に住まうリディリディ・トゥラ・イェレミースは、集落の手伝いのため、薬草を採取しに森へ入っていた。
太陽が中天へ差し掛かる頃には抱えたバスケットいっぱいに薬草を詰め込み、足取りも軽く帰途につこうとしていた時――生い茂る木立の向こうから声が聞こえた。
怪訝に思い、足が止まる。妙に耳へ残る、どこか苦しそうなうめき声。
しばし迷った末に道を外れ、声の方向へと吸い寄せられるように歩く。
すると少し開けた場所へ出て、中心にある枯れた大木のうろに、うずくまる何者かの姿を見つけた。
背の低い、浅黒い肌をした少女。艶やかな短い黒髪に、宝石のような赤い瞳が印象的だ。
軽装の鎧を身に着け、腰には細身の剣を帯びている。
「え……? もしかして……ドワー、フ……?」
驚きのあまり、声が漏れてしまう。
すると少女は弾かれたみたいに顔を上げ、鋭い視線を投げてきた。
「だ、誰……っ?」
問われてリディリディは硬直し、目をまんまるに見開いて口をぱくつかせる。
――ど、どうしよう。まさかこの森にドワーフがいるなんて。でも、どうして……?
ふと見ると、少女はどうやら足を怪我しているようだった。布を巻いて応急処置したようだったが、血が色濃く滲んでいる。
そこでリディリディは、自分が今手にしているバスケットの中身を、思い出した。
「あ、あの……お怪我をなさっているみたいですが、薬草を持っているので、その、よかったら、治療できますよ……?」
おずおずと話しかけると、少女は何かを思案するみたいに唇を引き結び、数秒ほど沈黙して。
「……お願い」
処置が済み、少し休んだ少女の顔色は目に見えて良くなっていた。
「ありがとね、わざわざ……エルフのあんたが、あたしなんかに」
「そんな事……」
ドワーフは悪。リディリディはそう聞かされて育ったし、確かに逡巡はしたけれど、それでも目の前の怪我人を見捨てる事はできなかった。
「あたし、インギット。あんたは?」
「私は……リディリディ・トゥラ・イェレミースです」
「エルフってのはみんなほんと長い名前だね。――じゃあ、リディって呼んでいい?」
人好きのする笑みを向けられて、押しに弱いリディリディは反射的に頷いていた。
「あの……インギットさんは、どうしてここに……?」
呼び捨てでいいよ、とインギットは朗らかな笑声を上げて、肩をすくめる。
「まぁ、色々と事情があってさ……しばらくはこの辺にいると思う。――あ、もちろんそっちの領域には近づかないから安心して」
気づけば日も暮れかかっていた。そろそろ帰らなければ、みんなが心配するだろう。
「帰りなよ。あたしはタフだから、一人でも平気」
こちらの気持ちを汲み取った風に、インギットが声音を柔らかくして言う。
だからリディリディは、素直に踵を返しかけ――その間際、もう一度だけ振り返る。
「えっと……またここに来ても……いいですか?」
インギットは、にっこりと笑い返してくれた。
●
それからというもの、リディリディは暇を見ては仲間の目を盗み、インギットへ会いに行くようになった。
インギットはからからとよく笑う快活な少女で、外の世界を気ままに旅しているのだという。
性格的に聞き役の多いリディリディに、こんな冒険をしたとか、こんな鉱石を見つけたとか、新鮮で興味を惹かれるような話を、それは軽妙な語り口でしてくれる。
途中で分かった事だが、二人の年齢は近く、インギットの方が少し年上であるらしい。
インギットお姉さんって呼んでくれてもいいよ、と冗談めかして言われ、リディリディもくすりと吹き出す。
普段楽しませてくれるお礼だからと、こちらから食事を運ぶ事もあった。
傷が早く治るようにと、精の付く肉料理を多めに盛って。
「あたしも肉は好きだけど、あんた……細いのにすごいよく食べるね」
「そうですか……?」
インギットの苦笑をよそに、リディリディは自分用の分をぺろりと平らげてのける。
インギットの足が完治してからは、ただ顔を突き合わせて話すのみならず、一緒に森を散策する事も増えた。
その場合、リードするのはリディリディの方だ。幼い頃からの秘密の遊び場や、水浴びに使える川など、お気に入りの場所を共有できるのはとても楽しい。
時には凶暴な野生動物と遭遇する事もあったが、インギットが前へ出て、剣を振るって守ってくれた。
「こんな日が、ずっと続くといいですね……」
森の中に広がる花畑に二人して寝転び、リディリディは青空を見上げて呟く。
そうだね、と隣で寝そべるインギットに穏やかに囁かれ、心が浮き立った。
仲間達はドワーフを嫌うが、全然そんな事はない。インギットは優しくて、最高の友達だと思う。
「私……インギットさんを、お家に招待したいです」
だから。胸の中に芽生えたその気持ちを、思い切って言った。
「……いいの?」
インギットは――何秒か黙った後、そう聞いてくる。
「ずっと考えてたんです。友達同士なのに、こんな風にこそこそと会うのはおかしいって」
みんなは反対するだろう。それでもせめて一日くらい、誰に憚る事もなく過ごしてみたい。そのために説得を試みたいという勇気を、リディリディは湧き立たせていた。
「……そっか。それは……気持ちは素直に嬉しいよ、うん」
インギットは一瞬、遠くを見るような表情をしてから、どこか歯切れ悪く、そしてぎこちなく微笑んだ。
「うん……分かった、あたし待ってる。でも、無理はしないでね……?」
「……はい!」
●
どうすれば角を立てずにインギットを招けたものかと悩むリディリディは、自分の集落に訪れた冒険者が、ある犯罪者についての情報を聞き込んでいる事を耳にした。
その犯罪者は大森林とは離れた別のエルフ達の住処から、大事な祭具を盗み出した凶悪犯らしい。
リディリディらの氏族は、特に心当たりがない。するとその冒険者は警告のため、犯罪者の名前と顔の書かれた手配書を置いて行った。
リディリディもなんとなく気になったために、その手配書を見せてもらう事にした。
本当にちょっとした好奇心。何の心構えもなく、手配書の人相書きを確認して。
「……え……?」
そこに――インギットの顔があった。
名前の欄にも確かに、彼女の名が、ある。
……なんだろう、これは。
心臓がどくんと跳ね上がり、小さく早鐘を打つ。
インギットが――盗みを働いた凶悪犯?
ありえない、と背筋がこわばり、息が詰まる。無意識に数歩、後ずさった。
何かの間違いだ。事情は分からないが、とにかくこれは……違う。
集落の住人に心配げな声をかけられた途端、リディリディはびくりと跳ね上がり、そのまま逃げるように森へと駆け出す。
――確かめなければならなかった。インギットに。
ひた走るリディリディがいつもの大木の下まで行くと、インギットはいつも通り気さくに出迎えてくれた。
「あ、リディ。どったの、そんな慌てて。ひょっとして何かいい案でも考え付いた?」
その眼前へ、リディリディは手配書を突き出す。
「こ、これって……!」
自分の人相書きを目の当たりにしたインギットは、驚いたみたいに数瞬、顔を歪め――ややあって、不意に表情を消した。
「何かの……間違いですよね? だって、こんなでたらめ……」
リディリディはすがるように言い募る。
自分は友として、インギットを信頼している。これからも一緒にいたい。
短いけれど、それだけの濃密な時間を過ごせたと思う。
だからただ一言、違う、と言ってくれれば、それで納得できるはずだ。
早く否定して欲しい。この疑念を、払拭したい。
なのに。
「……潮時かぁ」
「インギット、さん……?」
「――それ、本物だよ」
リディリディは声もなく、息を呑んだ。
「お金が欲しかったんだ」
ドワーフの少女は何でもない風情で嘆息する。
「だから奪ってやった。むかつくエルフの奴らから。それで逃げ出したのはいいけど、運悪くクリーパーにでくわして、足をやられて……」
リディリディはうまく呼吸ができなかった。ただ耳をそばだてて、聞く事しかできない。
「あんたに出会って、これでお縄かぁ……と思ったけど、何も知らないし、なつかれちゃったもんだから、利用してたってわけ」
「嘘……」
「ま、社会勉強になったとでも思うんだね。――あたしはこれでおさらばするけど、いい? 誰にも言うんじゃないよ。ほんのしばらくでも、ドワーフとつるんでたなんて」
インギットは何の心残りもないように、身を翻す。
――行く。行ってしまう。
本当に。こんなにあっさり。
「嘘、です……っ!」
リディリディは思わず、食い下がるように追いすがろうとして。
インギットが振り返りざまに突き出した剣に、押し戻されるみたいに動きを止められた。
「来るな、リディリディ」
剣先はリディリディの美しい金の髪を数本切断し、頬のすぐ横――木の幹を穿っている。
「……インギット、さん……」
すぐ目の前のインギットから送り込まれる、凍り付くような濃厚な殺気。
まるで最初に出会った日みたいな、警戒する目つき。
「来たら、殺すよ」
かたかたと、耳障りな音が鼓膜を打つ。
それは自分が恐怖のあまり無意識に、噛み締めた奥歯をかき鳴らす音だった。
怖い。
――怖い!
ひきつった叫びが喉奥から漏れると同時、突き動かされるみたいにしてリディリディは背を向け、その場から駆け出した。
インギットは追ってこない。それでもリディリディは走る。
息を切らし、震えながら。思い出を放り捨てていくように。現実から目を背けるように。
――気のせいだろうか。もう充分に距離は取っているはずなのに。
風に紛れてか。それとも混乱し、弱った心が幻を作り出したか。
「……ごめんよ、リディ」
どこからか、そんな寂しそうな声が、聞こえた気がした――。
雲一つない、ある晴れた日の事。
フィルエス大森林に住まうリディリディ・トゥラ・イェレミースは、集落の手伝いのため、薬草を採取しに森へ入っていた。
太陽が中天へ差し掛かる頃には抱えたバスケットいっぱいに薬草を詰め込み、足取りも軽く帰途につこうとしていた時――生い茂る木立の向こうから声が聞こえた。
怪訝に思い、足が止まる。妙に耳へ残る、どこか苦しそうなうめき声。
しばし迷った末に道を外れ、声の方向へと吸い寄せられるように歩く。
すると少し開けた場所へ出て、中心にある枯れた大木のうろに、うずくまる何者かの姿を見つけた。
背の低い、浅黒い肌をした少女。艶やかな短い黒髪に、宝石のような赤い瞳が印象的だ。
軽装の鎧を身に着け、腰には細身の剣を帯びている。
「え……? もしかして……ドワー、フ……?」
驚きのあまり、声が漏れてしまう。
すると少女は弾かれたみたいに顔を上げ、鋭い視線を投げてきた。
「だ、誰……っ?」
問われてリディリディは硬直し、目をまんまるに見開いて口をぱくつかせる。
――ど、どうしよう。まさかこの森にドワーフがいるなんて。でも、どうして……?
ふと見ると、少女はどうやら足を怪我しているようだった。布を巻いて応急処置したようだったが、血が色濃く滲んでいる。
そこでリディリディは、自分が今手にしているバスケットの中身を、思い出した。
「あ、あの……お怪我をなさっているみたいですが、薬草を持っているので、その、よかったら、治療できますよ……?」
おずおずと話しかけると、少女は何かを思案するみたいに唇を引き結び、数秒ほど沈黙して。
「……お願い」
処置が済み、少し休んだ少女の顔色は目に見えて良くなっていた。
「ありがとね、わざわざ……エルフのあんたが、あたしなんかに」
「そんな事……」
ドワーフは悪。リディリディはそう聞かされて育ったし、確かに逡巡はしたけれど、それでも目の前の怪我人を見捨てる事はできなかった。
「あたし、インギット。あんたは?」
「私は……リディリディ・トゥラ・イェレミースです」
「エルフってのはみんなほんと長い名前だね。――じゃあ、リディって呼んでいい?」
人好きのする笑みを向けられて、押しに弱いリディリディは反射的に頷いていた。
「あの……インギットさんは、どうしてここに……?」
呼び捨てでいいよ、とインギットは朗らかな笑声を上げて、肩をすくめる。
「まぁ、色々と事情があってさ……しばらくはこの辺にいると思う。――あ、もちろんそっちの領域には近づかないから安心して」
気づけば日も暮れかかっていた。そろそろ帰らなければ、みんなが心配するだろう。
「帰りなよ。あたしはタフだから、一人でも平気」
こちらの気持ちを汲み取った風に、インギットが声音を柔らかくして言う。
だからリディリディは、素直に踵を返しかけ――その間際、もう一度だけ振り返る。
「えっと……またここに来ても……いいですか?」
インギットは、にっこりと笑い返してくれた。
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それからというもの、リディリディは暇を見ては仲間の目を盗み、インギットへ会いに行くようになった。
インギットはからからとよく笑う快活な少女で、外の世界を気ままに旅しているのだという。
性格的に聞き役の多いリディリディに、こんな冒険をしたとか、こんな鉱石を見つけたとか、新鮮で興味を惹かれるような話を、それは軽妙な語り口でしてくれる。
途中で分かった事だが、二人の年齢は近く、インギットの方が少し年上であるらしい。
インギットお姉さんって呼んでくれてもいいよ、と冗談めかして言われ、リディリディもくすりと吹き出す。
普段楽しませてくれるお礼だからと、こちらから食事を運ぶ事もあった。
傷が早く治るようにと、精の付く肉料理を多めに盛って。
「あたしも肉は好きだけど、あんた……細いのにすごいよく食べるね」
「そうですか……?」
インギットの苦笑をよそに、リディリディは自分用の分をぺろりと平らげてのける。
インギットの足が完治してからは、ただ顔を突き合わせて話すのみならず、一緒に森を散策する事も増えた。
その場合、リードするのはリディリディの方だ。幼い頃からの秘密の遊び場や、水浴びに使える川など、お気に入りの場所を共有できるのはとても楽しい。
時には凶暴な野生動物と遭遇する事もあったが、インギットが前へ出て、剣を振るって守ってくれた。
「こんな日が、ずっと続くといいですね……」
森の中に広がる花畑に二人して寝転び、リディリディは青空を見上げて呟く。
そうだね、と隣で寝そべるインギットに穏やかに囁かれ、心が浮き立った。
仲間達はドワーフを嫌うが、全然そんな事はない。インギットは優しくて、最高の友達だと思う。
「私……インギットさんを、お家に招待したいです」
だから。胸の中に芽生えたその気持ちを、思い切って言った。
「……いいの?」
インギットは――何秒か黙った後、そう聞いてくる。
「ずっと考えてたんです。友達同士なのに、こんな風にこそこそと会うのはおかしいって」
みんなは反対するだろう。それでもせめて一日くらい、誰に憚る事もなく過ごしてみたい。そのために説得を試みたいという勇気を、リディリディは湧き立たせていた。
「……そっか。それは……気持ちは素直に嬉しいよ、うん」
インギットは一瞬、遠くを見るような表情をしてから、どこか歯切れ悪く、そしてぎこちなく微笑んだ。
「うん……分かった、あたし待ってる。でも、無理はしないでね……?」
「……はい!」
●
どうすれば角を立てずにインギットを招けたものかと悩むリディリディは、自分の集落に訪れた冒険者が、ある犯罪者についての情報を聞き込んでいる事を耳にした。
その犯罪者は大森林とは離れた別のエルフ達の住処から、大事な祭具を盗み出した凶悪犯らしい。
リディリディらの氏族は、特に心当たりがない。するとその冒険者は警告のため、犯罪者の名前と顔の書かれた手配書を置いて行った。
リディリディもなんとなく気になったために、その手配書を見せてもらう事にした。
本当にちょっとした好奇心。何の心構えもなく、手配書の人相書きを確認して。
「……え……?」
そこに――インギットの顔があった。
名前の欄にも確かに、彼女の名が、ある。
……なんだろう、これは。
心臓がどくんと跳ね上がり、小さく早鐘を打つ。
インギットが――盗みを働いた凶悪犯?
ありえない、と背筋がこわばり、息が詰まる。無意識に数歩、後ずさった。
何かの間違いだ。事情は分からないが、とにかくこれは……違う。
集落の住人に心配げな声をかけられた途端、リディリディはびくりと跳ね上がり、そのまま逃げるように森へと駆け出す。
――確かめなければならなかった。インギットに。
ひた走るリディリディがいつもの大木の下まで行くと、インギットはいつも通り気さくに出迎えてくれた。
「あ、リディ。どったの、そんな慌てて。ひょっとして何かいい案でも考え付いた?」
その眼前へ、リディリディは手配書を突き出す。
「こ、これって……!」
自分の人相書きを目の当たりにしたインギットは、驚いたみたいに数瞬、顔を歪め――ややあって、不意に表情を消した。
「何かの……間違いですよね? だって、こんなでたらめ……」
リディリディはすがるように言い募る。
自分は友として、インギットを信頼している。これからも一緒にいたい。
短いけれど、それだけの濃密な時間を過ごせたと思う。
だからただ一言、違う、と言ってくれれば、それで納得できるはずだ。
早く否定して欲しい。この疑念を、払拭したい。
なのに。
「……潮時かぁ」
「インギット、さん……?」
「――それ、本物だよ」
リディリディは声もなく、息を呑んだ。
「お金が欲しかったんだ」
ドワーフの少女は何でもない風情で嘆息する。
「だから奪ってやった。むかつくエルフの奴らから。それで逃げ出したのはいいけど、運悪くクリーパーにでくわして、足をやられて……」
リディリディはうまく呼吸ができなかった。ただ耳をそばだてて、聞く事しかできない。
「あんたに出会って、これでお縄かぁ……と思ったけど、何も知らないし、なつかれちゃったもんだから、利用してたってわけ」
「嘘……」
「ま、社会勉強になったとでも思うんだね。――あたしはこれでおさらばするけど、いい? 誰にも言うんじゃないよ。ほんのしばらくでも、ドワーフとつるんでたなんて」
インギットは何の心残りもないように、身を翻す。
――行く。行ってしまう。
本当に。こんなにあっさり。
「嘘、です……っ!」
リディリディは思わず、食い下がるように追いすがろうとして。
インギットが振り返りざまに突き出した剣に、押し戻されるみたいに動きを止められた。
「来るな、リディリディ」
剣先はリディリディの美しい金の髪を数本切断し、頬のすぐ横――木の幹を穿っている。
「……インギット、さん……」
すぐ目の前のインギットから送り込まれる、凍り付くような濃厚な殺気。
まるで最初に出会った日みたいな、警戒する目つき。
「来たら、殺すよ」
かたかたと、耳障りな音が鼓膜を打つ。
それは自分が恐怖のあまり無意識に、噛み締めた奥歯をかき鳴らす音だった。
怖い。
――怖い!
ひきつった叫びが喉奥から漏れると同時、突き動かされるみたいにしてリディリディは背を向け、その場から駆け出した。
インギットは追ってこない。それでもリディリディは走る。
息を切らし、震えながら。思い出を放り捨てていくように。現実から目を背けるように。
――気のせいだろうか。もう充分に距離は取っているはずなのに。
風に紛れてか。それとも混乱し、弱った心が幻を作り出したか。
「……ごめんよ、リディ」
どこからか、そんな寂しそうな声が、聞こえた気がした――。
登場キャラクター
リディリディ・トゥラ・イェレミース