しろがねの星、こがねの星
キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2021年01月08日 21時18分56秒
深き森を抜ければ、霞織の村。豊穣の祭りが今まさに始まる夜明け前。エルフたちは星のような和声で森を寿ぐ。
取れたての果物が銀の皿に供され、玻璃の盃になみなみと注がれた輝くばかりの蜂蜜酒が振舞われる。木の実を練り込んだ大小様々な焼き菓子たちに群がるのは、まだ幼い子ら。村に住まうエルフらは思い思いの衣をまとい、軽やかに歌い踊る。その姿は人里で寝物語に語られる妖精の宴の如く、夢幻めいていて、ここがただのエルフの村であるとは思えぬ壮麗さであった。村の中央にある大樹には花細工が数多と飾られ、滑らかな木彫りの護符や、銀の細やかな飾り物が供えられている。
そんな中、銀髪の若いエルフが肩をすくめてから足を止め、遠巻きに祭りを眺めていたが、やがて去っていく。
祝祭は続く。何の憂いもないエルフたちが、上古の旋律を奏で続ける。それは楽園めいた光景であったが、今の彼にはそれとは別にやることがあった。
全てはテス・クラルスの恋人から始まる。彼の師にして上官、そして十年来の恋人であるカルフが祭りの当日になって体調を崩した結果、テスは一人で祭りの中に取り残されることになったのであった。珍しく当直から外れ、二人の時間が出来たはずだったのに、とテスは思う。
精悍で貫禄のある戦士にして愛しい存在は、今は体を休めている。よりによって、こんな日に。
祭りの数日前から浮かれるテスをなだめる恋人。
衣装棚から取り出した様々な衣を身につけるテスに「何を着ても似合う」と笑いかける恋人。
そして、お前だけでも楽しんで来い、といつもの豪気な調子で告げ、口吻を交わした恋人。
――『離れずの護り』、二人で買いたかったね。一緒に持ちたかったよ……。
カルフの力強い抱擁と、硬くも愛情のこもった口吻の感触をテスは思い出す。『離れずの護り』は若いエルフらに人気の護符であった。金と銀の絡み合う二本の蔦と花の意匠、知恵の輪のように絡み合ったそれは二つに分けることが出来、恋人たちは片割れを持ち合うのであった。それぞれの蔦に刻まれた文句は大体こういった内容であった。
『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
テスは『離れずの護り』に刻まれる文句を口に出す。ちらりと見たハイアルヴの社には護符を求める恋人たちが押し寄せており、買うのは不可能であろうことが嫌でも分かった。恋人たちは皆、護符の蔦のように、しっかりと寄り添いあっている。恋人たちの中には永遠しかなく、別れが訪れるなど思いつかぬ、あってはならぬといいたげな調子であった。
――護符がなくとも、カルフから私は離れないから……だから、何の問題もないんだ。
そう己に言い聞かせ、テスは市場へと向かう。カルフには精の付くものが必要だ。守備隊の部隊長としての責任感が、ここの休暇でどっと出てきたのかもしれない。
――チーズのタルトに、茸のパイ。葡萄酒と蜂蜜と木の実の細工菓子も買って帰ろう。野菜は牛乳でシチューにして、隊商が持ってきた腸詰も沢山入れようか。ああ、カリカリのパンも忘れてはいけない……。
せめてカルフが祭りを楽しめないならば、夕餉で二人だけの祝祭を。そう思えば、すぐ側にに恋人の温かさが存在しない孤独も、この後の喜びを考えれば、テスにとっては些細なものであった。
市場の通りもまた、エルフたちでごった返していた。ヒューマンとの交易で品を仕入れている店も一軒あり、彼女の店には霧織の村では見られない珍しい調味料や小物が置かれている。テスはふと前に店で見た短剣を思い出す。柄に飾られた紫水晶の深い色は、カルフのしっかりとした瞳の色に似ていた。
「祭りの贈り物……カルフにきっと似合うよね」
呟き、テスは店の戸を開けようとする。しかし、扉は開くことなく、視線を上げれば本日休業との札が掛かっていた。諦めてテスは次の店に向かう。
さくさくのパイを焼くのが上手な、いつもおいしい香りを漂わせるパン屋――。
果物の砂糖漬けや蜂蜜を精巧に細工した飴を売る、目にも華やかな菓子屋――。
薬草を漬けた葡萄酒が売りの、酒精眠る酒屋――。
その他色々、次へ、次へ。人だかりの中を進んでは閉まった店の扉を見つけ続け、テスはやっと理解する。今日はいつもの祭りとは違う大祭であった――それ故、皆出払っているのだ、と。
――しょうがない、ね。駐屯所に行けば備え付けの薬だけはある。
それは祭りの贈り物にしても、カルフに約束した精の付くもの、とも少しずれていた気がしたが……今、恋人に一番必要なものに思えた。
――いずれも村一番の薬師が調合したものばかりだし、効かないはずはないよ。
テスは歩みを進める。いつの間にかそれが喜びにあふれた駆け足に変わっていたことに、本人は気づいていなかった。
駐屯所は祭りのざわめきが嘘のように、静かであった。祭りから離れていることもあったが、それでも上官の目を盗んで酒や菓子を楽しむ者らが一人二人はいるもので、テスにとってはそのような輩が一人もいないのが、逆に不思議であった。
「大森林同盟守備隊副部隊長、テス・クラルス。入るよ」
テスは妙な違和感を感じながら、扉を叩く。しかし、帰ってくるのは沈黙のみ。
否、どさり、と何かが倒れる音が、内部で聞こえた。
急いで扉を開けば、目の前には倒れた隊員たちが幾つも。そして窓から素早く走り去る気配。
――魔法の眠り……襲撃だ! なんでこんな日に? よりによって、こんな日に――!
遠くから他の守備隊員の怒号、そして一拍も置かずに絶命の叫びが聞こえる。テスは壁に掛けてあった愛用の杖を乱暴に掴み、駆け始めた。
駆ける最中、幾人もの仲間の死体を見かけたが、ハイアルヴに祈りその死を弔う余裕などなかった。
守備隊副部隊長としての義務感が、テスを走らせる。カルフへの愛情と尊敬が、意志となってテスを突き動かす。
テスは、駆けながら考えをまとめる。恐らく狙われるとすれば、あそこだ――八年に一度開帳される神具。大祭の所以である、美しい星、村の至宝の所だと。
――狙いは神具かっ、隊長が不在なら、なおさら私がしっかりやらなければ!
どのような名にも、由来がある。旅人たちは、霞の出ないこの村が、何故霞織の村と呼ばれるかエルフたちに聞くだろう。そして、エルフたちは穏やかな笑みを浮かべ、いえ、霞は出るのですよ。と曖昧に答え、そして美しい笑みを浮かべて会話を終わらせるだろう。
霞織の村は、霞檻の村でもあった。かつて、昔々の物語の時代に、村の窮地を救った神具。手のひらほどの大きさでほっそりとした銀の八芒星の中心には青玉がはまっており、窮地の時には星は妖しの霞に姿を変え敵を迷わし、エルフの命を代償に、五十年もの間、村を覆い隠したという。
それはエルフたちの秘密であった。どのように外に焦れるエルフであっても、他者にこの秘密は喋ることはない。それは無言の掟であり、誓いであった。
――何故? 誰が? 内部の誰が告げた? 誰かを引き入れた?
テスの理性は様々な同胞を疑い、その度に心があり得ない、と悲鳴を上げる。テスは身を二つに裂かれそうな思いで、ただ駆ける。行き先は村の外れの祠、普段から守備隊員らが護っている、聖所。テスはただひたすらに、カルフのぬくもりが恋しかった。彼ならばどう振舞うだろうか、と想像し、己を鼓舞させる。息を荒げながら祠の前にたどり着けば、一番嗅ぎたくなかった鉄さびた臭いが鼻を衝く。
守備隊員らは、皆殺しにされていた。それは鮮やかな殺戮であった。テスもよく知る彼らは、いずれも劣らぬ強者揃い。足跡は一つ。彼らを複数人相手取り、このように軽々と一太刀で切り捨てられる個人など、いないはずだった。思いかけた一人の名を、テスは無理やり閉じ込める。そのようなことがあってはならない、と。
ふいにカルフの口吻を思い出す。何も考えないで、あの日、朝二人で寝台にずっと横になっていれば――。
しかし、テスは副部隊長であった。己が義務を果たさぬことなど、全く想像も出来なかった。故に、杖を構え、祠へと駆けこむ。
そして、彼は一番想像したくなかった現実と出会う。目の前でどさりと崩れるのは最後の部下。凶行に走ったのは、最愛の、ここにいてはならぬはずの師にして上官。紫目の豪胆な剣士。最愛のひと。片手に神具である銀の星を持ち、もう片方の手には血の滴る剣を持っている。いったい何人を彼は斬り殺したのだ? どうして?
「カルフ」
何故! 唇は震える。数刻前に彼と口吻を交わした唇が、彼を責めねばならない。疑問をぶつけねばならない。テスの震える声を受け止めるカルフの紫の瞳は、覚悟を湛えた者のそれであった。
「なんで来ちまうかなぁ。まあ、おれが仕込んだんだから、当然か」
カルフの口調はいつもの様。違うのは足元に広がる凶行。自分の部下をこの人は切り捨てたのだ、と改めて自覚する。
――『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
『離れずの護り』の文句がふいに思い浮かぶ。こんな時に、と苦いものがこみ上げる。
時も死も、二人を分かたなかったが――カルフの持つ一振りの血塗られた剣が、二人を分かちつつあるという現実があった。
そしてそれをテスは受け入れたくなかった。まだ。
「テス、おれがいた村は、二十年前に滅びた、ってことは知っているよな。ヒューマンの戦争に巻き込まれて、あっさりと地図から消え去った。おれの仕えていた若君と一緒にな……ああ、最後のは、初耳か。とにかくおれはこの村に来た。主を護れなかったという事実を隠しながら……どこかでわが君が生きているのではないかという、虚しい望みと共に――そして、その望みは、ようやくかなった」
ずっとため込んでいた感情を吹き出すかのように、カルフは語る。
「わが君はな、テス。お前に似た銀の髪の持ち主だったよ。故に、お前に惹かれたのだろうなあ。ともあれ、再会した若君は、おれに告げた。村の神具を使い、我らが理想郷を興せ。その為には幾つの犠牲を払っても構わぬ――喪われる命に比べれば、救われる命の方が多いと。わが君は生きておられた……おれを忘れていなかった」
「カルフ、神具は命を消費するんだ、その為に同胞を犠牲にするというのかい……! 友を、殺せるというのか……同胞を殺め、私との日々も捨てられるのかっ」
犠牲の上に成り立つ理想郷は、彼にとって理解しがたい概念だった。同族殺しの罪の意識に囚われながら生きる楽園など、苦痛に等しい。
「それがどうした。理想には犠牲が付きもんだ……まぁ、お前には、分からんだろうがっ」
カルフはそういいながら、剣の血を払い構える。静かな殺気をテスは感じた。今までカルフが敵に向けていたそれを、今まさに自分が受けているのであった。テスはわめきたかった。怒りのままに彼を叩きたかった。殺戮に対する義憤であり、理不尽に対する絶望の叫びであり、独善に対する反発であり、もしくは、カルフの『若君』の代用品にされたのではないかという裏切りの痛みであった。
「覚悟もなく戦場に立つなって、教えたよなぁ?」
テスは息を整える。剣を構え突撃の構えを取るカルフ。精霊術師であるテスは体力では敵わぬこと確実。故に、一撃で仕留めなければならぬ。
――任務の為に。副部隊長としての務めの為に。カルフが教えたとおりに、冷静に、覚悟と共に。
一拍、カルフは駆けだす。唸り声と共に、構えのもと、豪剣が確実な死のように迫りくる。
一拍、テスは高速で精霊に呼び掛ける。一瞬蝶が舞い、天才と呼ばれた彼の呼び声に従い、魔矢が瞬時に形作られる。
そして、カルフが踏み込み、テスの首を取らんとした刹那――至近距離で炸裂した魔矢によって、その剣は、腕ごと吹き飛ばされていた。
カルフ、とテスは呼び掛けようとする。その次に続く言葉も思い浮かばぬままに。己は正しいことをしたのに、何故ここまで辛いのだろうか。硬い抱擁を、大胆な口吻を思い出す。『離れずの護り』の文句が心に浮かぶ。
――『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
もし、『離れずの護り』を持っていたならば。何か変わっていただろうか。それは虚しい願いであり、あり得ない考えだとテスは分かっていた。それでも、もしもを思わずにはいられなかった。
「なんで……っ……」
零れる言葉。刹那、テスは抱きしめられる。強引に、いつもよりも、強く。その感触は思い出したくなかった。先ほどまで、ぬくもりとして何度も思い出していたが――今は、歪んだ悪い思い出になってしまった、感触。カルフの、片腕の抱擁。
「愛している、が……さよならだ」
そして、あまりにもぶしつけな、強引で独善的な口吻を一つ贈り、カルフは身をひるがえして去っていく。テスは怒るべきか泣くべきか分からなかった。ちらりとフードを被った小柄な人影がカルフの側に現れたのを見た。話に出て来た若君なのだろうか、部下なのだろうか。今ならカルフを追うことが出来る。理性はそう告げる。しかし、足は動かなかった。
テスは立ち尽くす。神具は消え、テスの星も消え去った。紫の瞳の恋人は、もういなかった。
その後のテスの十年は、記憶にも残らぬ味気ないものであった。勤勉であった大森林同盟守備隊副部隊長、テス・クラルスは、恋人の失踪と共に息絶えたらしい。ぼんやりと心ここにあらずというまま、日々の仕事をこなし、やがてふいに守備隊を辞職。天才と呼ばれた男は、ただただ怠惰の探求に身を捧ぐことになる。二年経ったとき、そこにいたのは寝転がりたまにしか動かぬ、「かろうじて生命活動を続けているエルフのようなもの」であった。
――全く、死ぬよ? 見てられない。
金髪の少年がテスの側にいつの間にかやってきて、彼の世話をし始めたのもその頃だった。
されるがままに食べ物を嚥下し、髪の毛を梳かれ、日々の話を聞いているうちに、やがて少しばかりにぎやかになった毎日と、時の薬がテスを癒していく。はねっかえりの態度をとりながらも、無邪気な少年は、まっすぐな瞳でテスの世話を焼く。時折愛情の混じったおせっかいな小言を投げかけながら。
テスは怠惰からほんの少し起き上がり、少年を見る。
――私について、戦い方を覚える気はないか?
少年は頷く。そのことに、微かな安堵を覚えている己を発見し、テスは少し驚いた。
黄金の流星が昼の空に飛ぶ。テスの弟子は、弓士としての才を存分に発揮し、師であるテスを驚かせるまでに成長した。射初の儀の祭司として立ち会ったテスは、天を眺め、それから金髪の弟子を見た。どんなものだ、と言いたげな彼に、テスは微笑む。
八年前の祭りで喪われたものは多い。されど、自分は喪うだけではなく――。
「御身に祝福あれ! 『星の翼』よ」
古雅な喋りでテスは弟子に祝福と、称号を与えた。村の者らは、怠惰の限りを尽くしていたテスが急にしっかりしたのを見て、明日の天気を心配したという。八年前は荒れ果てた野であったテスの心は今は若草萌ゆる春の如く、その上で黄金の星が清らかに輝く。生ける屍であった自分の世話を焼いた金髪の少年。青い澄んだ瞳の弟子。
星は喪われることなく、そして何年も、何十年もテスの側にいた。相変わらず怠惰の探求に精を出すテスの世話を焼く彼は、やがて少年から見目麗しい青年へと育った。ふと、テスは思う。カルフから見た私もこうだったのだろうか、と。カルフの名は苦く、古傷を傷ませた。テスと青年の間には師弟や家族とは違う不思議なつながりがあり、それはかつてテスが恋人に感じていたものよりも穏やかなものであった。故に、テスはまだ恋だとは気づかず、ただ、口にするのだ。
「旅に出たら、君は一緒に来てくれるかな?」
『星の翼』、テスの黄金の星は輝くばかりの笑みで応える。
何時からなのだろう。己の弟子が、いつの間にか背を預けるべき相手になっていたことを自覚したのか。
触れ合う手の温かさ、髪の毛の色合い、声の響き、全てが己の一部になっていることを知ったのか。
テスは何度も告げる。変哲の無い宿屋の個室で。月夜を映す湖面で。揺れる馬車の中で。
「何故だろうね、君は私を置いていかないって素直に信じられるんだ」
黄金の星も何度も当然のように返す。朝焼けの野原で、風吹く船の上で、故郷によく似た森の中で。
「当たり前だろう?」
そこには『離れずの護り』など必要なかった。テスの過去の痛みは残響として残りながらも、彼は今を生きる。
そこには今を愛しあう二人の姿が、運命を分かち合うパートナーの姿があった。
取れたての果物が銀の皿に供され、玻璃の盃になみなみと注がれた輝くばかりの蜂蜜酒が振舞われる。木の実を練り込んだ大小様々な焼き菓子たちに群がるのは、まだ幼い子ら。村に住まうエルフらは思い思いの衣をまとい、軽やかに歌い踊る。その姿は人里で寝物語に語られる妖精の宴の如く、夢幻めいていて、ここがただのエルフの村であるとは思えぬ壮麗さであった。村の中央にある大樹には花細工が数多と飾られ、滑らかな木彫りの護符や、銀の細やかな飾り物が供えられている。
そんな中、銀髪の若いエルフが肩をすくめてから足を止め、遠巻きに祭りを眺めていたが、やがて去っていく。
祝祭は続く。何の憂いもないエルフたちが、上古の旋律を奏で続ける。それは楽園めいた光景であったが、今の彼にはそれとは別にやることがあった。
全てはテス・クラルスの恋人から始まる。彼の師にして上官、そして十年来の恋人であるカルフが祭りの当日になって体調を崩した結果、テスは一人で祭りの中に取り残されることになったのであった。珍しく当直から外れ、二人の時間が出来たはずだったのに、とテスは思う。
精悍で貫禄のある戦士にして愛しい存在は、今は体を休めている。よりによって、こんな日に。
祭りの数日前から浮かれるテスをなだめる恋人。
衣装棚から取り出した様々な衣を身につけるテスに「何を着ても似合う」と笑いかける恋人。
そして、お前だけでも楽しんで来い、といつもの豪気な調子で告げ、口吻を交わした恋人。
――『離れずの護り』、二人で買いたかったね。一緒に持ちたかったよ……。
カルフの力強い抱擁と、硬くも愛情のこもった口吻の感触をテスは思い出す。『離れずの護り』は若いエルフらに人気の護符であった。金と銀の絡み合う二本の蔦と花の意匠、知恵の輪のように絡み合ったそれは二つに分けることが出来、恋人たちは片割れを持ち合うのであった。それぞれの蔦に刻まれた文句は大体こういった内容であった。
『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
テスは『離れずの護り』に刻まれる文句を口に出す。ちらりと見たハイアルヴの社には護符を求める恋人たちが押し寄せており、買うのは不可能であろうことが嫌でも分かった。恋人たちは皆、護符の蔦のように、しっかりと寄り添いあっている。恋人たちの中には永遠しかなく、別れが訪れるなど思いつかぬ、あってはならぬといいたげな調子であった。
――護符がなくとも、カルフから私は離れないから……だから、何の問題もないんだ。
そう己に言い聞かせ、テスは市場へと向かう。カルフには精の付くものが必要だ。守備隊の部隊長としての責任感が、ここの休暇でどっと出てきたのかもしれない。
――チーズのタルトに、茸のパイ。葡萄酒と蜂蜜と木の実の細工菓子も買って帰ろう。野菜は牛乳でシチューにして、隊商が持ってきた腸詰も沢山入れようか。ああ、カリカリのパンも忘れてはいけない……。
せめてカルフが祭りを楽しめないならば、夕餉で二人だけの祝祭を。そう思えば、すぐ側にに恋人の温かさが存在しない孤独も、この後の喜びを考えれば、テスにとっては些細なものであった。
市場の通りもまた、エルフたちでごった返していた。ヒューマンとの交易で品を仕入れている店も一軒あり、彼女の店には霧織の村では見られない珍しい調味料や小物が置かれている。テスはふと前に店で見た短剣を思い出す。柄に飾られた紫水晶の深い色は、カルフのしっかりとした瞳の色に似ていた。
「祭りの贈り物……カルフにきっと似合うよね」
呟き、テスは店の戸を開けようとする。しかし、扉は開くことなく、視線を上げれば本日休業との札が掛かっていた。諦めてテスは次の店に向かう。
さくさくのパイを焼くのが上手な、いつもおいしい香りを漂わせるパン屋――。
果物の砂糖漬けや蜂蜜を精巧に細工した飴を売る、目にも華やかな菓子屋――。
薬草を漬けた葡萄酒が売りの、酒精眠る酒屋――。
その他色々、次へ、次へ。人だかりの中を進んでは閉まった店の扉を見つけ続け、テスはやっと理解する。今日はいつもの祭りとは違う大祭であった――それ故、皆出払っているのだ、と。
――しょうがない、ね。駐屯所に行けば備え付けの薬だけはある。
それは祭りの贈り物にしても、カルフに約束した精の付くもの、とも少しずれていた気がしたが……今、恋人に一番必要なものに思えた。
――いずれも村一番の薬師が調合したものばかりだし、効かないはずはないよ。
テスは歩みを進める。いつの間にかそれが喜びにあふれた駆け足に変わっていたことに、本人は気づいていなかった。
駐屯所は祭りのざわめきが嘘のように、静かであった。祭りから離れていることもあったが、それでも上官の目を盗んで酒や菓子を楽しむ者らが一人二人はいるもので、テスにとってはそのような輩が一人もいないのが、逆に不思議であった。
「大森林同盟守備隊副部隊長、テス・クラルス。入るよ」
テスは妙な違和感を感じながら、扉を叩く。しかし、帰ってくるのは沈黙のみ。
否、どさり、と何かが倒れる音が、内部で聞こえた。
急いで扉を開けば、目の前には倒れた隊員たちが幾つも。そして窓から素早く走り去る気配。
――魔法の眠り……襲撃だ! なんでこんな日に? よりによって、こんな日に――!
遠くから他の守備隊員の怒号、そして一拍も置かずに絶命の叫びが聞こえる。テスは壁に掛けてあった愛用の杖を乱暴に掴み、駆け始めた。
駆ける最中、幾人もの仲間の死体を見かけたが、ハイアルヴに祈りその死を弔う余裕などなかった。
守備隊副部隊長としての義務感が、テスを走らせる。カルフへの愛情と尊敬が、意志となってテスを突き動かす。
テスは、駆けながら考えをまとめる。恐らく狙われるとすれば、あそこだ――八年に一度開帳される神具。大祭の所以である、美しい星、村の至宝の所だと。
――狙いは神具かっ、隊長が不在なら、なおさら私がしっかりやらなければ!
どのような名にも、由来がある。旅人たちは、霞の出ないこの村が、何故霞織の村と呼ばれるかエルフたちに聞くだろう。そして、エルフたちは穏やかな笑みを浮かべ、いえ、霞は出るのですよ。と曖昧に答え、そして美しい笑みを浮かべて会話を終わらせるだろう。
霞織の村は、霞檻の村でもあった。かつて、昔々の物語の時代に、村の窮地を救った神具。手のひらほどの大きさでほっそりとした銀の八芒星の中心には青玉がはまっており、窮地の時には星は妖しの霞に姿を変え敵を迷わし、エルフの命を代償に、五十年もの間、村を覆い隠したという。
それはエルフたちの秘密であった。どのように外に焦れるエルフであっても、他者にこの秘密は喋ることはない。それは無言の掟であり、誓いであった。
――何故? 誰が? 内部の誰が告げた? 誰かを引き入れた?
テスの理性は様々な同胞を疑い、その度に心があり得ない、と悲鳴を上げる。テスは身を二つに裂かれそうな思いで、ただ駆ける。行き先は村の外れの祠、普段から守備隊員らが護っている、聖所。テスはただひたすらに、カルフのぬくもりが恋しかった。彼ならばどう振舞うだろうか、と想像し、己を鼓舞させる。息を荒げながら祠の前にたどり着けば、一番嗅ぎたくなかった鉄さびた臭いが鼻を衝く。
守備隊員らは、皆殺しにされていた。それは鮮やかな殺戮であった。テスもよく知る彼らは、いずれも劣らぬ強者揃い。足跡は一つ。彼らを複数人相手取り、このように軽々と一太刀で切り捨てられる個人など、いないはずだった。思いかけた一人の名を、テスは無理やり閉じ込める。そのようなことがあってはならない、と。
ふいにカルフの口吻を思い出す。何も考えないで、あの日、朝二人で寝台にずっと横になっていれば――。
しかし、テスは副部隊長であった。己が義務を果たさぬことなど、全く想像も出来なかった。故に、杖を構え、祠へと駆けこむ。
そして、彼は一番想像したくなかった現実と出会う。目の前でどさりと崩れるのは最後の部下。凶行に走ったのは、最愛の、ここにいてはならぬはずの師にして上官。紫目の豪胆な剣士。最愛のひと。片手に神具である銀の星を持ち、もう片方の手には血の滴る剣を持っている。いったい何人を彼は斬り殺したのだ? どうして?
「カルフ」
何故! 唇は震える。数刻前に彼と口吻を交わした唇が、彼を責めねばならない。疑問をぶつけねばならない。テスの震える声を受け止めるカルフの紫の瞳は、覚悟を湛えた者のそれであった。
「なんで来ちまうかなぁ。まあ、おれが仕込んだんだから、当然か」
カルフの口調はいつもの様。違うのは足元に広がる凶行。自分の部下をこの人は切り捨てたのだ、と改めて自覚する。
――『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
『離れずの護り』の文句がふいに思い浮かぶ。こんな時に、と苦いものがこみ上げる。
時も死も、二人を分かたなかったが――カルフの持つ一振りの血塗られた剣が、二人を分かちつつあるという現実があった。
そしてそれをテスは受け入れたくなかった。まだ。
「テス、おれがいた村は、二十年前に滅びた、ってことは知っているよな。ヒューマンの戦争に巻き込まれて、あっさりと地図から消え去った。おれの仕えていた若君と一緒にな……ああ、最後のは、初耳か。とにかくおれはこの村に来た。主を護れなかったという事実を隠しながら……どこかでわが君が生きているのではないかという、虚しい望みと共に――そして、その望みは、ようやくかなった」
ずっとため込んでいた感情を吹き出すかのように、カルフは語る。
「わが君はな、テス。お前に似た銀の髪の持ち主だったよ。故に、お前に惹かれたのだろうなあ。ともあれ、再会した若君は、おれに告げた。村の神具を使い、我らが理想郷を興せ。その為には幾つの犠牲を払っても構わぬ――喪われる命に比べれば、救われる命の方が多いと。わが君は生きておられた……おれを忘れていなかった」
「カルフ、神具は命を消費するんだ、その為に同胞を犠牲にするというのかい……! 友を、殺せるというのか……同胞を殺め、私との日々も捨てられるのかっ」
犠牲の上に成り立つ理想郷は、彼にとって理解しがたい概念だった。同族殺しの罪の意識に囚われながら生きる楽園など、苦痛に等しい。
「それがどうした。理想には犠牲が付きもんだ……まぁ、お前には、分からんだろうがっ」
カルフはそういいながら、剣の血を払い構える。静かな殺気をテスは感じた。今までカルフが敵に向けていたそれを、今まさに自分が受けているのであった。テスはわめきたかった。怒りのままに彼を叩きたかった。殺戮に対する義憤であり、理不尽に対する絶望の叫びであり、独善に対する反発であり、もしくは、カルフの『若君』の代用品にされたのではないかという裏切りの痛みであった。
「覚悟もなく戦場に立つなって、教えたよなぁ?」
テスは息を整える。剣を構え突撃の構えを取るカルフ。精霊術師であるテスは体力では敵わぬこと確実。故に、一撃で仕留めなければならぬ。
――任務の為に。副部隊長としての務めの為に。カルフが教えたとおりに、冷静に、覚悟と共に。
一拍、カルフは駆けだす。唸り声と共に、構えのもと、豪剣が確実な死のように迫りくる。
一拍、テスは高速で精霊に呼び掛ける。一瞬蝶が舞い、天才と呼ばれた彼の呼び声に従い、魔矢が瞬時に形作られる。
そして、カルフが踏み込み、テスの首を取らんとした刹那――至近距離で炸裂した魔矢によって、その剣は、腕ごと吹き飛ばされていた。
カルフ、とテスは呼び掛けようとする。その次に続く言葉も思い浮かばぬままに。己は正しいことをしたのに、何故ここまで辛いのだろうか。硬い抱擁を、大胆な口吻を思い出す。『離れずの護り』の文句が心に浮かぶ。
――『時の砂も死の剣も、我らの思いを断つことはかなわず』
もし、『離れずの護り』を持っていたならば。何か変わっていただろうか。それは虚しい願いであり、あり得ない考えだとテスは分かっていた。それでも、もしもを思わずにはいられなかった。
「なんで……っ……」
零れる言葉。刹那、テスは抱きしめられる。強引に、いつもよりも、強く。その感触は思い出したくなかった。先ほどまで、ぬくもりとして何度も思い出していたが――今は、歪んだ悪い思い出になってしまった、感触。カルフの、片腕の抱擁。
「愛している、が……さよならだ」
そして、あまりにもぶしつけな、強引で独善的な口吻を一つ贈り、カルフは身をひるがえして去っていく。テスは怒るべきか泣くべきか分からなかった。ちらりとフードを被った小柄な人影がカルフの側に現れたのを見た。話に出て来た若君なのだろうか、部下なのだろうか。今ならカルフを追うことが出来る。理性はそう告げる。しかし、足は動かなかった。
テスは立ち尽くす。神具は消え、テスの星も消え去った。紫の瞳の恋人は、もういなかった。
その後のテスの十年は、記憶にも残らぬ味気ないものであった。勤勉であった大森林同盟守備隊副部隊長、テス・クラルスは、恋人の失踪と共に息絶えたらしい。ぼんやりと心ここにあらずというまま、日々の仕事をこなし、やがてふいに守備隊を辞職。天才と呼ばれた男は、ただただ怠惰の探求に身を捧ぐことになる。二年経ったとき、そこにいたのは寝転がりたまにしか動かぬ、「かろうじて生命活動を続けているエルフのようなもの」であった。
――全く、死ぬよ? 見てられない。
金髪の少年がテスの側にいつの間にかやってきて、彼の世話をし始めたのもその頃だった。
されるがままに食べ物を嚥下し、髪の毛を梳かれ、日々の話を聞いているうちに、やがて少しばかりにぎやかになった毎日と、時の薬がテスを癒していく。はねっかえりの態度をとりながらも、無邪気な少年は、まっすぐな瞳でテスの世話を焼く。時折愛情の混じったおせっかいな小言を投げかけながら。
テスは怠惰からほんの少し起き上がり、少年を見る。
――私について、戦い方を覚える気はないか?
少年は頷く。そのことに、微かな安堵を覚えている己を発見し、テスは少し驚いた。
黄金の流星が昼の空に飛ぶ。テスの弟子は、弓士としての才を存分に発揮し、師であるテスを驚かせるまでに成長した。射初の儀の祭司として立ち会ったテスは、天を眺め、それから金髪の弟子を見た。どんなものだ、と言いたげな彼に、テスは微笑む。
八年前の祭りで喪われたものは多い。されど、自分は喪うだけではなく――。
「御身に祝福あれ! 『星の翼』よ」
古雅な喋りでテスは弟子に祝福と、称号を与えた。村の者らは、怠惰の限りを尽くしていたテスが急にしっかりしたのを見て、明日の天気を心配したという。八年前は荒れ果てた野であったテスの心は今は若草萌ゆる春の如く、その上で黄金の星が清らかに輝く。生ける屍であった自分の世話を焼いた金髪の少年。青い澄んだ瞳の弟子。
星は喪われることなく、そして何年も、何十年もテスの側にいた。相変わらず怠惰の探求に精を出すテスの世話を焼く彼は、やがて少年から見目麗しい青年へと育った。ふと、テスは思う。カルフから見た私もこうだったのだろうか、と。カルフの名は苦く、古傷を傷ませた。テスと青年の間には師弟や家族とは違う不思議なつながりがあり、それはかつてテスが恋人に感じていたものよりも穏やかなものであった。故に、テスはまだ恋だとは気づかず、ただ、口にするのだ。
「旅に出たら、君は一緒に来てくれるかな?」
『星の翼』、テスの黄金の星は輝くばかりの笑みで応える。
何時からなのだろう。己の弟子が、いつの間にか背を預けるべき相手になっていたことを自覚したのか。
触れ合う手の温かさ、髪の毛の色合い、声の響き、全てが己の一部になっていることを知ったのか。
テスは何度も告げる。変哲の無い宿屋の個室で。月夜を映す湖面で。揺れる馬車の中で。
「何故だろうね、君は私を置いていかないって素直に信じられるんだ」
黄金の星も何度も当然のように返す。朝焼けの野原で、風吹く船の上で、故郷によく似た森の中で。
「当たり前だろう?」
そこには『離れずの護り』など必要なかった。テスの過去の痛みは残響として残りながらも、彼は今を生きる。
そこには今を愛しあう二人の姿が、運命を分かち合うパートナーの姿があった。